自然を愛する心
折角の創刊号故、今よりずっと野の鳥の多かった私の少年時代−−緋水鶏や胸黒千鳥が子供達の遊び友達であった頃の思い出をとも思いましたが、最近の世状を見るにつけても自然愛好者の一人として、この際、日頃の所信の一端を述べてみたく、不遜を省みず筆を取りました。字数に制限あり、論旨飛躍の点は宜敷御賢察の程。
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今年の春、私はある親しい会合の席上話が偶々探鳥会のことに及んだので、ついで乍ら、「最近の野鳥蕃殖地の破壊と野鳥の減少」を嘆じその対策の必要を力説した処、友人某の曰くには「そりゃ君無駄だよ、今の世の中は人間自体の問題で一杯なのだ。小鳥の啼き声や自然の風致は、生活の綾として考へるべきで文明文化の進歩が人間生活をより高度化する為に自然を破壊するのは止むを得んではないか。多少手加減してみた処で時期の問題だよ。何しろ原子力時代だからね」と言う挨拶である。
誠に御尤であり、どうも現実はそんなふうに進んでいるやうだ。併し我々が自然を愛し、亡び行く自然を惜しむのは単なる趣味や感傷からであらうか。私はここで一席弁じやうかと思ったが止めた。未だに腹ふくるる感のなきにしも非ず。且その後も、そのやうな考え方が大体に於て自然に対する即直且代表的な考へ方であり、自然愛好者の内にも満ち足りぬままに肯定して居られるやうな向も多々見受けますので敢て筆を取りました。
一体、自然と人間の結び付はどのやうなものであらうか。
申す迄もなく人間は自然の所産であり、本来動物以外の何者でもない筈である。ところが物質文明の著しい進歩と人間智能の発達は、人間をして動物以上のものであるとの錯覚を起させて居るらしい。そしてこのことは、現代人をして自然の軽視と同時に人間性(動物本能としての)の軽視を引き起して居るのだ。
私が自然の軽視を惧れ、且人間生活と自然との結び付に再考の必要を痛感するのは実にこの点にあるのだ。
人間性の軽視とその研究不足が如何に現代社会に各種の矛盾を引き起して居るかを一寸考えてみたい。私は現代人が最も誇りとする物質文明が、人間性の改善が不可能としても、その善導をすら念頭に置かずして独走したところでそれが人間生活の真、善、美となり、或は、幸福するとはどうしても考え得ない。只人間生活を安易にするだけである。
現代人には原子力等不必要ではなからうか?我々は今それの管理に頭を悩す前に、狂人に名刀を持たした愚を深刻に反省してみる必要があるやうだ。
亦人間性軽視の弊害は現代人の物の考へ方の面に於て特に著しいやうに思ふ。私はここで一寸「戦争と平和」の問題にふれてみたい。
一体動物として自己の平和と安全を求めぬものがあらうか。それは数億年前から綿々として受けついだ動物の本能である。人間に対してお前は平和を求めよ等と説くことは愚である。我々が真に平和を希望するなれば、他人に平和をおしつける前にもっと人間性を掘り下げて研究すべきだ。動物は自己の平和と安全を擁護するために危害に対する逃避と攻撃を手段としてもつ。この手段が第二次的本能として発達していることは万人衆知の処、人間とてもその例外ではない。
一体我々は今迄に人間の有する攻撃本能に注意を払ひ、且これが対策を研究してみたことがあるだらうか。現代社会はこの人間の有する攻撃本能を軽視することによって徹底且本質的な打撃を受けて居ると云って過言ではあるまい。この本能は善導されることなく満たされることなきままに無意識的に蓄積されて行く。パチンコや競輪やジャズがその排口である内は問題でないのであるが。
私は思想の対立が即戦争であるとは考へぬ。併し一つの大きな要因であることは疑ふべくもない。何故なれば人間はこの攻撃本能を利用せられ一つの方向に乗握指導せられると意外な行動を起すからである。ことは過去の事例を引く迄もあるまい。大衆の心を統一することは攻撃本能を利用するのが一番賢明であり或る種の指導者は常にこの手で成功して居る。近頃流行のデモなどは攻撃本能の集団的発散である意味に於て戦争と異らぬ。竹槍を擁し棍棒を振ひ乍ら戦争反対を叫ぶなどは笑止である。
人間性の改善指導それは容易なことではあるまいが、それには先づ振出しにもどって自然にかへることである。そして謙虚なる気持で大自然を見つめ、一動物としての人間の立場を反省する処に人間性善導の案外の糸口が見い出されるのでなからうか。少くとも人間攻撃本能の指導丈でも現代人間社会の喫緊の要件と考へられる。それには国家的事業として組織的に且健康的に攻撃本能の自然の排口をみつけてやらねばなるまい。自然愛好者の我田引水が許されるなれば、それは大自然を対象とした一つのリクリエーション的な運動が適切と考へられる。現代の日本にその適切な指導者はないものだらうか。若しありとすれば私はその先棒をかつぐことにやぶさかなるものではない。
どの面から考へてみても将来超高度化された物質文明にしいたげられた人間を救ふものは、人間の生みの親である大自然であらうとしみじみ痛感する。ことは今や生活の綾などではなく最も切実な内照であり、私は声を大にして自然に帰れ、自然を愛せよと叫びたい。自然の擁護!これこそ現代人にかせられた最も重要な責務ではなからうか。
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昭和28年『三光鳥』第1号
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