鴨池閑談

 今年は鴨の渡りが特に多いそうである。

 先頃の新聞に依ると東北地方の一部では、近年にない数百羽の大群に稲田を荒らされて大閉口の由である。お百姓さんには誠に気の毒であるが、我々にとっては実に朗報である。正直の処、やれやれよくぞ御無事でとも言いたい気持である。

 鴨と云へば、京都とは凡そ縁遠いように思はれる向もあるが、決してそうではない。厳に鴨川と云う名の立派な川が市の中央を流れて居ることに依ってもわかる通り、その昔は特に縁が深かったことゝ考へられる。尤も、その「カモ」は鴨でなく加茂であると云う説もあるが。むつかしい詮議はさて置き、冬の夕暮れ時、よく市の上空を数羽の群で翔んで居る鴨を見掛ける。恐らくは大宮御所の池を休息所とする鴨の一部であらう。小鴨らしい翔び方である。市電の終点から数丁も離れない深泥池で数組もの鴨が蕃殖して居ることは、会員一同がこの夏確認した通りである。これは軽鴨である。

 或るハンターの話によると、終戦後、特に近郊の山間部の小池に降りる鴨が増えたそうである。雪の朝など、この鴨を専門にねらうて歩くハンターのある由、事実とすれば、戦后になって解禁された琵琶湖の湖面銃猟の結果でもあろうかと考へられる。

 私は、郷里が知多半島の海岸であるので、鴨とは特に馴染みが深い。冬の内は毎朝、伊勢湾に浮ぶ鈴鴨やキンクロハジロの群をプラットフォームから眺め乍ら通勤電車を待ったものである。終戦の年の冬、往々にして海岸の叢で鴨を手捕りにすることが出来た。調べて見ると全部が飛翔不能である。対岸木曽川尻に於ける米兵の銃猟に傷ついた一部が北西の風に流されこちらの海岸迄たどりつき、叢の中に隠れていたのであらう。何れ助からぬ鴨なので涙をふるって締めて食べた。食料極端に逼迫し、薩馬藷の蔓にすがって生きていた頃なので、これは実にうまかった。家族一同舌鼓を打って賞味したことであった。

 私の家から小一里の処に、有名な鵜の池がある。日本的に知られる旭村の鵜の集団蕃殖地である。周囲三丁程の池をはさんだ小山の松林に営巣しているのであるが、辺り一面の松は糞のためにすっかり枯死し、雪景色さながらの眺めである。この糞が良い肥料になるので組合組織で採集して居り、一般人は立入り禁止、勿論禁猟区の指定を受けている。そのためにこの鵜の池は、冬には鴨にとっても絶好の休息所になる。私のよく訪れた終戦の冬には、何日行っても小鴨の大群を見ることが出来た。如何にして栄養を保つべきかと我々等しく苦慮して居った当時のことでもあり、この大群を前にしてなんとかならないものかと真剣に考へたものである。

 夏の間に、こっそりと鴨池にしておいたら、これはきっと面白い成果が挙るにちがいないと、いさゝか泥縄式考へに苦笑したこともある。

 偖而、本題であるこの鴨池であるが、これは鴨を捕える施設であり、日本独特の鴨の猟法であり、且鴨の習性を利用した極めて興味深い猟法である。以下簡単に説明すれば……。

 十月頃、越冬のため、内地に渡って来た鴨は大体その土地に留り、夜間は田圃や小川に現われて採餌のため盛んに活動するが、晝間は安全な湖や池で静に浮び乍ら休息する……と云った習性がある。そこで鴨の渡来する土地に池を作り、周囲を薮や塀で囲んで、静寂の領するまゝにしておくと、鴨の群れは群れを呼び、大へんな数になってこの池に休息するやうになる。これをあらかじめ訓練しておいた家鴨を使って引堀に誘導し、次に述べるような具合に捉えるのである。

 本来がこの引堀に、仕掛があるのであってこの引堀は池の周りに放射状に数本作られるのが普通である。巾2m、長さ15m程もあらうか。一端は袋路になって居り、こゝに家鴨を誘ふ餌撒き穴と覗き窓のついた小屋が設けられる。「覗き小屋」と云うのである。引堀と池との間は、鴨が入って来たなれば何時でも遮断出来るようになって居る。

 さて覗き小屋で、コンコンと音を立てると餌をもらう可、池で遊んで居た家鴨は引堀に入って来る。仲間の家鴨が移動し始めたことに気付いた鴨は、何事ならんと好奇心?にかられて家鴨に従って引堀に入って来るのである。折をはかって引堀の出口を急に遮断する。引堀の深さは1m以上もあって、巾は2m程しかない。びっくり仰天した鴨は、あわてゝ遁逃しようとするが、小鳥と違ってそうは敏捷に逃げることは出来ない。うろたへてバタバタと舞い上る奴を、あらかじめ引堀の両側に大きなサデ網を持って隠れて居った人間がやにわに躍り出て捗ひ捕えるのである。

 鴨にとっては誠に気の毒であるが、人間にとってはこんな愉快なことはないそうである。それに鴨は食べて美味い。売れば高い。

 うまくゆくと一シーズンに数百羽もとれるそうである。それかあらぬか、昔の大名は各地にこの鴨池を作り、江戸市中丈でも随分とあったやうである。戦前迄は関東に数ヶ所、関西にも一、二ヶ所あったやうに聞くが、多くは戦時中に廃却或は埋め立てられて、現在では宮内省管理のものが関東に一、二ヶ所残って居る丈である。

 この鴨池は現在では非常に貴重な存在であり、宮中に於て内外の賓客を招待される場合にのみ使用されるとのことである。この日本独特の鴨猟には、外国人は大いに驚き、且つ喜ぶそうである。尚且、現場に於てはこれ又結構な鴨料理の宴が催される由であるから、外国人ならずとも喜ぶのは当然と考へられる。

 偖而、こんなわけで、非常に結構ではあるが我々とは一寸縁のない話しと考へていたところ、この春の探鳥会の座談に、会員のU大人から、「京都に鴨池を作ったら……」と云う話があった。以来折にふれて、その可能性と価値について考へてみるのであるが、早急の実施は兎も角大いに研究してみる価値は充分にあるやうである。

 社会的には、もっと緊急且つ必要な救済事業が山程ある世の中ではあるが、一面愚にもつかぬことに数百万円が投ぜられて、それが不思議でない時代でもある。この鴨池こそ、成功の暁には、唯に京都の観光施設と云ふ丈に止まらず、日本的なものとして万世に問い、後世に誇りうるところと考へられる。

 これは単なる思い付でなく、U大人始め多くの識者が秘に考へて居られる処である。敢て積極的に動けないのは相手が鴨であるからである。鴨の鴨になったと笑われることは識者たらずとも閉口である。然し権威ある鳥学者内田博士も戦前の随筆、鴨池の末尾に、京都の観光当局の一考をうながしたいと結んで居られる。敢て会誌「三光鳥」をかりて駄筆を重ねる所以である。

 鴨池はせいぜい一丁四方の広さもあれば充分である。京都のような地勢では、山間の渓流を堰き止めて適当な池を作ることも考へられる。池の周りは、鴨の居る期間、一を寄せぬため塀をめぐらす必要があるからついでにこの区域を徹底した野鳥の養護区にするのも面白い。巣箱、給餌台、水浴台等を備へて多数の野鳥を誘致し「小鳥の楽園」にするのである。

 尚又、場所によっては、池で虹鱒等の養魚も可能であろう。夏の間、ごく自然的な環境のもとで、爽快な鱒釣りが出来るとなればその観光的価値は一段と光彩を放つものと考へられる。これらのものこそ、山紫水明の都市京都にふさわしい施設ではなからうか。京都及びその将来の観光のために敢て一筆啓上する次第である。

 以上題して鴨池閑談、関係方面の諸氏に是非一読お推めを乞う。(以上)



昭和30年『三光鳥』第3号


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