冠島・自然美考
此夏に行ひました冠島の天然記念物、大水凪鳥の調査に就きましては、大中さんより例の名筆による紀行文が寄せられることになって居りますので、同行致しました私としては、この島の自然に接して特に感じましたことを、日頃の所信を加へとりとめなく記してみたいと存じます。
兎角、冠島は素晴しい島でありました。
その浮世離れをした自然の風物に接して居りますと、何かこう身の内がぞくぞくするようなうれしさで、私などもう感きわまって今更乍ら大自然の美しさに圧倒されたのでありました。一体どこにそれ程の魅力があるのかと問はれましても、一口には適切なお答も出来ない事を残念に思ひます。
私などは生れつき自然が好きで、美しい自然の景観や、自然の生物は勿論、名もない路傍の草花や石コロにも無心では居られない方でありまして、自身根っからのナチュラリストを以て任じて居ります。それ丈に亦さまざまの自然にも接し、自然の美しさも理解して来たつもりでありますが、実は今以て自然美の本質がどdのようなものであるか、的確にはわかって居りません。
本来この、美しさと云うものは目に見た美しさと云うより、心にうったえるところの美しさを以て尊しとされて居ります。芸術の世界に於きましてはこれは本質的な問題としてとり上げられ比較的才人に理解されて居るのでありますが、これが自然美ともなりますと一向に理解されず、亦理解されようともして居らぬのではないかと思ひます。尤も自然も小さな景観の場合は一つの芸術品としてあつかわれるのが比較的関心も持たれ「この庭は美しいが一向に趣がない」と云った表現で扱はれて居ります。併しこれが大自然と云うか、本来の自然となりますと、目に見ただけの美しさ即ち眺望の美しさが前面におし出され、この点が非常にあいまいなものになってしまいます。これは或は理解し難いと云うのが本当かも知れませんが、この間違故に、あたら千古の得難い樹林も切り払はれて遊園地となり、ドライブウェイになるのであります。
先頃もある会合で偶々この話が出ましたが、「自然に憧れる人が殺到して誠に結構ではないか、ナチュラリストとして同慶至極であろう。一層のことヘリコプターの発着場をも作ったら」などと申す友人も居りましたので、「馬鹿なこと云うな、あれは自然を売りものにした一種のペテンのようなものだ」と言って置きましたが、実際には観光業者も環境客もペテンに掛けて居るのか、掛けられて居るのかさっぱりわからず、高きに登って展望し、良い空気をすったと雙方共結構満足して居る現状であります。これは反面、現代人が左様に自然に飢えて居るのでありまして、将来この形向は益々つのると共に、自然は益々貴重なものになってくると思います。がこの程度の安易な自然美感で、貴重な自然がどんどん破壊さむるのはナチュラリストとして実に耐え難いものがあります。
話が横道にそれて恐縮でありましたが、これを前書として冠島の自然美を特に強調致しますのは、その自然美が他では一寸感じられないような何ものか、…それは私が長年求めてきた自然美の本質か、少なくともそれに近いものであり、併もそれが自然の生物に ふところが非常に多いからであります。
紫紺に輝く大空と大海、そゝり立つ断崖と薄?色に澄み切った海の水、得体知れぬ海草や海綿に覆れた岩礁、それらが明け暮れに見せる名状し難い色彩の変化の妙は、也論それ自体見事な景観でありますが、茲に大水凪鳥の集団の演ずる不思議な習性や、岩礁にまつわるおびただしい魚群の浮泳とお相僕て、その魅力は不思議なまでに高揚せられ人の心を引きつけずにはおかないのであります。この島では見るもの多くその全てが……岸に打ち寄せられた漁網の浮や、波にもまれた丸い丸い玉のような石にも、亦岩礁の蔭に横わる斃死鳥の残骸や、何物とも知れぬ猛禽のペリットにも自然の息吹きを感じるのであります。事実、大水凪鳥の喧噪極まる夜間の叫喚や、海鳥の蕃殖地に見るあの鼻持ちならぬ臭いすらもこの島では苟ろ懐かしいものとして感じられるのでありました。
自然美が、我々の心に訴へる大きな要素の一つに「郷愁」があることを、私は常々考へて参りましたが、冠島の自然に接し、この「郷愁」こそ自然美の本質ではないかとさえ考へて居ります。そして、この種の自然美には常に生物が大きな役割を果たして居ることを見逃してはならないと思ひます。
自然に接して私共が感じる郷愁には、郷里で過ごした楽しかった子供の頃に対する郷愁もありますし、都会人の田舎の生活に対する淡い憧れに似た郷愁もありましょう。
私共は、赤トンボの群れる夕焼の田舎路や、小鮒の群れる春の小川に、幼ない頃の想出をたどり、自然の美しさをしみじみ感じるのでありますが、それは決して偶然ではありません。
誠に、この冠島の自然美にしても、その景観に、生物…鳥と魚…が添加されて始めて達せられる処であり、かくも人の心に訴へる所以のものは、私共現代人の心の奥底に流れて居る古い太古に対する人類としての郷愁であろうとかと思ひます。
兎角暑い島でありました。真夏の最中とは云ひ乍らその暑さを一体どのように形容したらよいのでしょうか…月余の大旱の空いさゝかのゆるぎもみせず終日大海とその紫紺を競ひ、灼熱の太陽のもと海風ひたと杜絶えて万物たゞ音もなく燃え上がると云った暑さでありました。にも不拘、僅かばかりの岩礁の蔭に寄りそひ、一点のかげりも止めず、ぎらぎら輝く大海原を眺めて居りますと、心自ら太古の人となりたる心地して今更乍ら大自然の美しさに圧倒され、その偉大さに打たれるのでありました。私は現代人が心のよりどころとして求めて居る真・善・美がどのようなものかは知りませんが、少くともかって人類の手にかゝることなく、悠久の太古をそのまゝ今に伝える自然の姿に接して、これが真であり善であり美であろうと考へたのであります。
こうした大自然に接しますと、私などはもうわけもなく胸が熱くなって、今更乍ら現代社会のわづらわしさが馬鹿馬鹿しくなり、その誇する物質文明すらが、何かこう空々しいものに思へてならないのでありました。
私はかねてより、物質文明の進歩のために美しい自然を犠牲にすることには大きな疑問をもって居ります。幸い冠島には未だその気配すら見られず、地元民の深い理解のもとに永久にその姿を伝へるものとは思ひますが、一方こうした自然美こそ、その景観の地味さ故に、気付かれないまゝにどんどん破壊されて居るのであります。ナチュラリストとしてこれ程、残念なことはないのであります。
私は曽て或る会合の席で、野鳥の話をこわるゝまゝにぶった一席を想ひ出して居ります。
これはたしかソ聯の人工衛星の打ち上げられた直後の会であり、一同科学の進歩を賞讃し医学の進歩による人類の長命と相俟って、人類の将来の繁栄万々才と云ふ誠に景気のよい雰囲気でありましたので、私の如きものゝ鳥の話では如何にも気分が立たず、その反対意見も又面白いと思ひ、日頃考へて居りますところをとりとめなく話したのであります。冠島の自然美考に関聯し自然愛護の立場からその要旨丈を述べさせていたゞきます。
要旨
『近々幾百年の間にこの地上より姿を消した生物の種類は、鳥類丈でも百数十種にのぼると云ふ。その殆んどは、直接間接に人類によって絶滅させられたものである。つい最近の例をとってみても、北海のオゝウミスズメがあり、南海のドドがあり、北米の旅行鳩がある。これらは、正に地上楽園に於て生きることの喜びを享 して居る最中に人類の殺 によって絶滅させられたのである。勿論、個体に生命のある如く、種に生命があったとしても不思議ではない。本来生物なるものは徹底且本質的な天敵が現れ、生活環境に激変が起り、或は亦身の内の過度進化が限界を越えたときに、種としての命脈が尽きるのである。人類とても決して例外ではない。こゝら辺りで人類が、自然の一生物に過ぎないて云う反省と自覚に立って生活態度を改めないなれば、必ずや造物主の鉄槌がでるにちがひない。曽ってこの地上に急速に栄えた生物こそ急速に滅びて行った冷厳なる了実をもっと深刻に考へるべきである。地質の頁をひもどく迄もなく人類程短い期間にかくも急速に繁栄した生物はないからである。
人類は近い将来に於て自らの誇る科学の所産によって自滅するかもしれないし、遠い将来に於ては全く未知の強力なる細菌を天敵に向へて滅亡するかも知れない。併しこれは単なる仮想に過ぎない。私がもし現実に基いて人類の滅亡を予言するとすれば、それは人類が最も誇りとするその知能の過度進化であると指摘したい。人類には生物として各種の本性がある。これを取残して知能の発達丈が独走すればその弊害が現れることは理の当然である。理性と感情の対立は愈々激しくなるであろうし、精神の酷使は肉体を益々弱体化するであろう。かくて文明病は愈々悪質となり、発狂自殺は日常茶飯事のことになるにちがひない。千年の将来をまつ迄もなく、現代に於てすら御承知の通りである。これに拍車をかけて居るのが、現代の物質文明万能の思想である。我々は子供の頃から人間は社会的な動物である如く教へられて来だが実は決してそうではない。人間程個人的な動物はないのだ。唯自己の安全と生活の為に便宜的に社会をつくったに過ぎないのだ。しかるにその社会すらが、益々複雑化して個人の意志を束縛し、正に安全さえおびやかさんとして居るのだ。こんなナンセンスな話はない。人間には自己保存に基く平和本能もあれば、攻撃本能もあるのだ。退いて守るか、進んで斗うかの相違丈である。社会を守ろうとする気持も、破壊しようとする気持も、人間の本性と考へるべきである。ましてや、戦争と革命の間に相違などありそうなことはない。あるのは満たされない人間本性の憤懣だけである。
正に人類は、その繁栄と滅亡をかけての危険な廻り角に立って居ると申しても過言ではない。
人類は、もうこゝら当りで物質文明の将来を見極め、知能の過度進化を反省し、再出発にかゝるべきである。それには自然の一生物であると云う謙虚な気持に立って自然に帰り、頭を冷してみることである。自然は限りない愛情を以て人類を向へてくれる故郷である。その故郷をすら現代人は物質文明の犠牲に供せんとして居るのだ。こんな馬鹿げた話はない。
すべからく現代人は何をおいても自然の擁護に立ち上るべきである。それは現代人にとって実に緊急切実な責務である』と云った話を致したのであります。
いさゝか揚言のきらいもあり、舌足らずの内容で、果してわかってくれたかどうか今以て判りませんが、会員の諸兄姉には、私の意とする処いさゝかでもお汲みとり戴けますれば誠に幸であります。冠島の自然美を一考し自然愛護の急切なるまゝ。 以上
……帰りなんいざ、田園正に荒れんとす……
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昭和34年『三光鳥』第7号
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