野鳥と少年−−ナチュラリストからの提言
このたび「補導だより」編集部より、「野鳥と少年」といったテーマで何か書けとの御指名を受けた。が、筆を取ってみたものの、さてとなるとこれといった良い考えも浮かばない。浮かぶものといえば、これまで書きつくされてきた、また私自身も何度となく書かされてきた「自然の愛護」などといった活動における、子供達の実務的役割ばかりである。元よりそれも大切ではあるが、最近の私には、そうした実務的な事柄よりも、その根源にある何のための自然保護であり、野鳥愛護であるのかを、その原点に立って今一度考え直してみることの方により関心が深い。かつまた、そうした精神的な面からの自然再考こそが、現在における「野鳥と少年」を考える上において、より大切な気がしてならない。
従って、この文はあえてそうした立場より筆を進めさせて頂くことにする。内容いささか題名にそぐわぬ点なきにしもあらずであるが、この点御海容願いたい。
近代文明に対する反省
本来私は、今日に見られる自然保護思想には、いささか物足りなさを感じている。何故なれば、その多くが人間の利益、それも経済的利益を本位として論じられているからである。少なくとも私には、自然保護の必要は最早そんな段階ではないと痛感される。
考えてみると、今日私ども日本人は、高度経済成長の波にのり、物質文明の恩恵に浴し、極めて快適、安易な生活を楽しんでいる。そしてこれを以って人間理想の生活とみなし、科学文明の進歩こそが人間幸福の唯一の道と確信している。さらにあらゆる施策はこの線にそって進められている。今日の子供達にみられる殊更にむずかしい学習内容、学習制度の如きもその例外ではない。
果たしてこのままで良いのであろうか。
ごく一部ではあるが、「人類は二十世紀の終えんを以て滅亡する」という予言がささやかれている。これは、華やかな人類繁栄の裏にみられることの一面を的確にとらえた忠告であり、根も葉もない予言ではない。私は近頃、もし人間が少なくとも今日の在り方に反省することなく、このままつき進んだとすれば、来る二十一世紀には確実に重大な局面を迎えるものと真剣に考えている。
考えてみると、今日の私ども人間の社会は、表面の繁栄とは裏腹に、あらゆる面において、かつてみぬ矛盾と混乱の中に投げ出されている。これは洋の東西、社会の大小を問わず、共通にみられる現象である。しかし、その間にも科学文明は着実に進展し、人□は急増し、人心は荒廃し、この地球の上の自然は確実に破壊され続けている。今日にみられる、地球規模で広がる緑の喪失に基づく砂漢化の進行、酸性雨による湖沼の死滅は、取りも直さずこの予告であって、破壊は遠からず大気海洋にまで広がるものと考えられる。このままではいずれ人間の社会は、自然の崩壊と共に、より本質的な矛盾と混乱の中にその危機を迎えるものと考えられる。しかし、残念ながら現在、その解決の妙案とされるものは何一つ示されてはおらない。これをもたらしたものは、偏に現代人のもつエゴイズムと貪欲と独善に外ならないものと考えられる。すべてはこれ人間の宿命であり、宿業であろうか。私は必ずしもそれを宿命、宿業と考えるものではないが、今日、一番困ったことには、私どものこうした思いが、一見如何にも非現実的な取越し苦労として一笑に付され、宇宙資源の開発とか、食料の何成などといった科学者の夢が、さも近き将来の現実の如く期待されることである。成程、こうした心配は、これまでの主義や思想、政冶や経済の中に身を置いて、日がな一日金儲けのために、或は又、ノルマに追われて飛び回っている限り凡そ気づくこともなく、また理解できない事柄かもしれない。今日これ程自然保護の必要が叫ばれながら、尚、本質的には何の対策も立てえないのが現実であり、「人間の価値観の変わらぬ限り、真の自然保護はありえない」と断言されるのも故なしとしない。しかしこうしたことは、日頃自然に親しみ、その美しさを知り、自然の仕組みとその中における人間の在り方というものに、少しでも目を向けておられる人達には、決して理解できぬ事柄ではない。否、むしろ実感としてとらえておられる人達が多い。これは、人と自然の交流の中に見られる、気付かざる大きな意義と考えられる。
いずれにしても、将来、人間が当面する幾多の危機を乗り越えて、末長く生きていくためには、科学文明というものの中の、何が本当であり、何が嘘であるかを見抜きうる資質の養成こそ必要であり、そのために、今考えうる何よりの手段は、自然の意義再考に基づく自然との交流、そして自然回帰ではなかろうか。私は、このことの必要性が、いずれ次代を背負って立たねばならぬ子供達の在り方の中に、特に考えられてならない。
近年、私ども京都野鳥の会の中には、ジュニア野鳥教室なるものが設けられ、熱心な担当幹事の下に、四季子供達に野鳥を通じての自然との交流が進められている。野鳥の観察ハイキング、小鳥のための巣箱、餌台、水場の設置、餌木の植えつけ管理、それらは元より、野鳥の保護愛護の実務として何より大切なことであり、愛鳥教育の一端として力を入れられているが、その根底には、こうした見地に立っての「少年と自然との交流」と同時に、また後述する「少年の心の育成」という、より大きなねらいのあることを御理解頂きたい。
人間の心の育成
近頃、野鳥の会といえば、鳥の調査研究に力を人れ、専ら自然保護運動の先峰を以って自認している団体と思われがちであるが、少なくとも私ども京都野鳥の会では目下のところ、そうした面は極めて影が薄い。むしろ、野鳥を通じて自然に親しみ、会員同志の親睦を静かに楽しんでいる、といった面が強い。会員の大多数は年配者、或は家庭の主婦であり、一つの趣味の団体としては理想的な集まりと考えられるが、どうも保護団体としてはいささか失格ではないかと反省している。しかし、私としては、そうした中から生まれるよより大きなものを、近頃に特に期待している。より大きなもの、それは人間としての心の育成である。
ところで、いささか会の宣伝めいて恐縮であるが、私どもの会では、会則に取り上げている目的とは別に、会の理念として、人間の在り方としての三つの光「真・善・美」の追求を取り上げている。このように述べると、私どもの会が如何にも宗教じみた、哲学的なこむずかしい会であるかのようにとられるかもしれないが、これは私どもの会のシンボルマーク「三光鳥」に由来している。三光鳥は、日本の極楽鳥とも考えられるスズメよりもいささか大きい小鳥であって、三十センチメートルもある長い尾を引きながら、樹木の間をひらひら翔ぶのが以前は、比叡、鞍馬辺りではよく見られた。今でも折々、宇治山城の運動公園にある野鳥の森では見られる小鳥である。三光の名前は、その美しい鳴き声「月、日、星星星星」に由来しているが、私どもの会ではたまたまこの三光を、人間の在り方としての三光になぞらえただけであって、特別の理由あってのことではない。しかし、常日頃に野鳥を通じて自然に接し、自然美の感動の中に身を置いていると、単なる人間としてではなく、これまでの哲学や宗教ではみられない自然生物としての人間の在り方!これこそが真の人間としての在り方ではないかと考えるのであるが…そうした思いが、おぼろげながら理解の中に浮かんでくるから不思議である。
私どもの会では、月二回の日帰り探鳥会の他に、四季折々に地方のバス旅行を行い、年に一回程は四泊五日の日程を以って秘境僻地の遠距離旅行をしている。これは唯会員の皆さんに、京都では見られない珍しい鳥を見て頂こうというだけではなく、各地各所の四季折々の秘められた自然美の感動の中に、こうした思いを身につけて頂きたいからに外ならない。このことは、初夏新緑の季節、高原山村の民宿に泊まり、ささやかではあるが心のこもった山家料理に自然を語り、早朝、林間の小路を歩いて、諸鳥の噂りを聞いているだけでも少しは理解できるところである。
ところで、私どもの会では特に高齢者の存在を重視しかつ歓迎している。その理由は、誠に高齢者こそは人間と自然の接点に位置して、人と自然双方の美しさを理解し、物質万能の今日の人間の在り方を反省するに、最も適した人と考えるからである。同時に、こうした人達の会における存在こそが、会の目的理念を達成する上にあずかって大きな支えとなりうるからである。このことは何も小さな一つの会という社会のみに限らず、人間そのものの社会にとっても、迎えるべき高齢化社会に期待しうる最も大きな意義かと考えられる。心ある高齢者の皆さんには、特に次の点をみずからの過去に振り返って御一考頂きたい。
今日、物質文明という享楽と浪費の中に生きている私ども大人のつけを、後々の将来において必ず支払わさせられるのは、今現に生きている子供達である。しかも私どもは、今その子供達に対し何一つ責任ある解決の策を与えてはおらない。唯、科学進歩の限りない恩恵というバラ色の夢を、一方的に押しっけることによって責任を逃がれ、かつそのことによって尚一層に子供達を自然から遠ざけ、いたずらに子供達の心を荒廃させているのではなかろうかと。
ならば私どもが今、大人としての責任において現実に即して子供達になしうるものは何であろうかと考えてみたい。
自然交流の意義
私は、常日頃に人間と自然の不断の交流の必要を考えさせられているが、特に子供の頃のそれが如何に必要であるかを身にしみて感じさせられている。縁あって私どもの会に入会される皆さんは、元々自然愛好の素養のある方が多いのであろうが、それにしてもその多くは、子供の頃の「野の友」との交遊の想い出が多く、そんな話になると如何にも懐かしそうに目を輝かされることが多い。しかしそれとても、野の友として認めておられるのはせいぜいトンボやホタル、カプトムシ等の程度である。そして、もしこれらの皆さんといえども、子供の頃のこうしたささやかな想い出がなければ、或はこれまで自然というものに何らの関心を持つことなく成人されたのではないか、と心寒い思いがする。また逆に、もしこれらの皆さんが、私どもの子供の頃、大正末期の自然生物の姿を知られたならば、今日のそれをどのような目で眺めどのように考えられるであろうかと感慨が深い。それにしても私の子供の頃、大正時代には野の友としての自然生物は多かった。夕暮れの沼を真っ黒にして集まったヤンマの群れ、春の小川の至るところに群れていたメダカやドジ∋ウ、夜の灯を求めて飛来した各種の水生昆虫、部屋の中までしのび込んで合奏する様々な秋の虫、それらは今では最早想像すら出来ない別の世界の出来事のように思われる。が、実はこれらは、当時の子供達にとっては身の回りの普通の自然の姿であり、特に自然の好きな子供でなくても、こうした自然の生物を媒介として自然に関心を持ち、四季の移り変わりを肌で感じざるをえなかった。
加えて戦前における児童教育の内容には、山村農村における生活、自然の情景を歌い上げたものが多く、特に童謡唱歌に多くみられた。これは、元々は農を以って国の大本とした明治時代の政策の名残りであったのかもしれないが、あずかって子供達に対する自然美の紹介には大きな役割を果たした。子供達は童謡唱歌に歌われた自然の風物情景の中で、各種様々な野の友に囲まれ、自然の中に溶け込んで生き生きとして生活していた。そして子供心にも自然に対するある種のロマンをかきたて、同時にものの美しさとものの哀れを知る心を自然に身につけていた。
そして今日、子供達は身の回りから自然の友を失い、自然美の紹介という情操教育を失って自然を離れ、ものを愛する心を忘れ、みずからの心を荒廃させた。今日にみられる子供の非行、いじめの流行は何もテレビのせいや進学一辺倒の教育のせいばかりではなさそうである。
自然の中での情操教育
私は今日の子供達を思い、遠からず訪れるであろう、近代文明の危機というものを考えるとき、今更ながら自然というものの存在が如何に大切であるかが痛感される。その時を迎えて、人間社会のパニックの中にあって、あわてふためくことのない、生き残るためのサバイバルの心構えを今、子供達に植えておくことも、また現代に生きる私ども大人の何よりの重責と考えられる。その手段としても、とりあえず何をおいても子供達に自然に接する機会を与え、自然の美しさを知らしめ、自然の仕組みに基づく生物人間としての在り方を教えることが最も大切なことと考えられる。私はそのためには、月一回の土曜日が程は小・中学校はすべて学習を取り止め、試験勉強とは一切関係のない自然学習、情操教育の日として与えるべきであると考えている。もしまた、自然に対する関心を失った今日の子供達をこのまま放置するとすれば子供達はますます自然を離れ、ついには自然そのものの存在をすら忘れて、唯物質文明を盲信し、科学の独走の中に埋没してしまうに違いない。
残念なことに、今日子供達の身の回りにはその関心を引くが如き生物は、植物を除きほとんど存在しない。僅かに野鳥のみが四季ささやかな姿をみせている。先頃一月十九日、私どもの会では朝日新聞社との共催の下に、「桂川ファミリー探鳥会」なるものを催し、嵐山、松尾の間僅か二キロメートルの河原において四十二種類の野鳥に接したが、参加者三百人の皆さんの中には、自分の家の近くにかくも多くの鳥がいたのかと、初めて気付く自然美にいたく感動された方々も少なくなかった。私はこうした身近な小さな感動の積み重ねにおいても、しらずしらずの内に自然愛の心を育み、ひいては人間の心というものを育むものと考えている。
そしてこれらのことを、特に子供達に求めたい。子供達が自然への関心をすら失った今日、子供達に改めてそれを求めるには、私どもはその環境づくりから始めねばなるまい。幼児といえども安心して遊ぶことのできる、せせらぎの流れやしゃぶしゃぶ池、美しい水の流れる雑木林のキャンプ場、散策のために整備された緑の小路、それらは今すぐにでも子供達に与えうる自然であり、他都市に先がけて実施し得るいかにも京都らしい試みではなかろうか。
以上本誌の御期待にぞぐわないことをるる述べてきたが、要は野鳥と少年のかかわり合いを考える上において、今最も大切なことは、自然そのものの価値観の再考であることを読者の皆さんに訴えたかったに過ぎない。
私はこれからの自然の保護、少なくとも二十一世紀のそれは現に今ある自然をそのまま残すといった手ぬるいものではなく、大人が子供達から奪った自然、人間が諸生物から奪った自然を、人間の知能と心を結集して再び作り与えねばなるまいと考えている。今生きている自分達さえ良ければ、人間さえ良ければといった現代人の独善主義、人間至上主義がこれまで如何に自然を破壌し、今自然の崩壊を導き、人間そのものの将来を如何に危うくしているかを反省したい。そして私どもはそのことの喫緊性を自然保護の原点に立って考え直し、今に生かさねばならぬ時を迎えているようである。
私は今、野鳥と少年が互いに打ちとけ、嬉々としてたわむれている姿を思い浮かべながら、この稿をとじることにする。一ナチュラリストの心あるところを御判読頂ければ何よりの幸せである。
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《編集部註》この稿は本年三月、京都府少年補導協会の御希望
により伊藤会長が執筆され、同協会誌『補導便り』春季号に
掲載されたものですが、非常に充実した内容であり、是非とも
会員の皆様にも広くお読み頂きたい文章ですので、伊藤会長に
お願いの上ご了承を得て掲載させていただきました。
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昭和61年『三光鳥』第33号
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