白頭鷲と一匹の鮭を争う 〜アラスカの旅の想い出より〜

 昨年の会誌「三光鳥」第三十六号に於て、岡田会員がアメリカ旅行の紀行文の中でハクトウワシに就て一寸ふれておられる。アメリカの国鳥であるこの鳥は、戦後急速にその数を減らし、北米本土に於てその姿をみることは近年極めて珍しいことのようである。

 唯アラスカ辺りに於てはそれ程でもない由にて、十数年前のアラスカ旅行の際には参加者一同シロフクロウと共にこの鳥の姿をみることを大いに期待した。併し数日に亘る旅行中あれがハクトウワシと指摘されたのは、遥か彼方を翔ぶ一点の鳥影に過ぎなかった。大方の皆さんにとってはこれが唯一の機会であったことと思われる。 ところが私自身はこともあろうにこの鳥と至近距離に於て一匹の鮭を争うという途方もなく珍しい体験をすることになった。

 長い年月、探鳥や魚釣りに熱中していると色々不思議なことにも出合うものであるが、これはその中でも忘れることのできぬ最大の感動であり、人生の想い出として大切にしている。

 アラスカ旅行の主目的は探鳥であったが、それと共に何がなんでもこの機会にと、私か秘かに秘めていた一つの目的があった。それは彼地に於ける魚釣り、サーモンフィッシングである。そのために私は、リュックの中に愛用の重い小継の大物用リール竿をしのばせ常に持ち歩いていた。まあ、運が良ければそんな機会もあろうかと考えていたが、そのチャンスは意外に早く訪れた。バルジーという湾のほとりに宿泊することになったからである。連日の旅のつかれをいやすため、明朝は十時迄自由行動と幹事より告げられると、もう矢も盾もたまらず同行通訳に無理を承知でホテルとのかけ合いをたのみ、ボートと案内人を確保することに成功した。このことに気づいた二、三名の同行者より便乗を申し入れられ快諾したがこれは大いに助かった。それというのもアラスカに於けるポートのチャーター料、案内人の費用、鮭釣りのライセンス代等は馬鹿にならぬ費用がかかったからである。尤も最近では日本に於ても同様であるか。この秘密裏に計画実施された鮭釣りはあとで同行の釣り好きの皆さんから少なからずうらまれることになった。

 期待のポートは翌早朝の出発とした。アラスカの白夜の夜明けは早く、朝はまだ四時というのにもうその日の快晴を思わせる青空が空一面にひろかっていた。しかし湾の上には濃いもやが立ちこめ、近くの岸に打ち寄せるサザ波すらがもやの中に沈んでみられた。私は常のこととして汀に立つと片手をさしのべて塩分濃度を調べてみた。海とはいい乍らこの湾の塩分は意外に少なく日本の汽水程度であり、スプルース(アラスカの針葉樹)の森林が湾を取りかこみ水際にまで迫っていることの秘密を察することが出来た。

 さてボートの進行と共にもやがうすれると湾の彼方に黒っぽい水鳥が沢山浮かんでいるのが望見されるが元より種名の判定は出来ない、唯、カモやカモメやカイツブリの類でないことは確かである。おそらくはウミガラスかウミスズメ類であろう。いらいらする内にポートは湾の中央部を横断して対岸近くに寄せられた。ここもスプルースの大木が水際まで迫って湾上に黒々とその影を落とし、正に幽寂の世界である。水深はせいぜい四、五米であろうか、所々にアマモとも思われる水草が水底に広がっているのがかすかにみとめられた。如何にも大魚のひそんでいそうな気配である。

 案内の青年の合図を待ちかねて力一杯ルアーを飛ばし、指示通りのスピードで引いてみるが当たりはない。五投六投さっぱり手応えがない。或はここには魚は居ないのではないかと、ややあきらめ乍ら水面を眺めていると大きな魚影が一つボートの下を走るのが目に入った。それに力をえて更に一投、真っ青な空のブルーの下に白く輝く氷河の山脈。岸辺のあちこちにみられるピンクのファイヤーウィード(ヤナギラン)の群落、この世のものとも思われぬブルーとホワイトとピンク、三色の配合の美しさにうっとりし乍ら静かにリールを巻いてくるとグーと竿先に重みがかかった。チェッ、終に水草に針をかけたかと舌打ちし乍ら一瞬強くシャクリをかけると、急に大きな手応えと共にリールが反転し始めた。

 あわてて竿を立ててリールを巻くが、糸は延びていくばかりである。こうなってはどうにも仕方がない、リールを締めるのも忘れて成行きにまかせていると、やがて糸延びがとまって魚とリールの力の均衡かとれ始めた。こうなればもうしめたもの、今度はこちらの番である。ばらさないよう、切られないよう、注意深くリールを巻いてこの大魚を引き寄せることにした。やっとボートの近く、それでも二、三〇米はあったかと思われる所まで引き寄せた時、急に魚は水面に跳ね上かって水しぶきを上げた、大物である。併しもうここまでくれば大丈夫といささか心に余裕も出始めたとき、突然頭の上でサッサッサッと音がして身の内に異様な感触が走った。思わず振り仰ぐと、何と!壮大なな翼をはばたかせた一羽のハクトウワシが直ぐ頭の上にいるではないか、吃驚仰天とは正にこのこと、一瞬襲われるのでないかと身構えたが、その瞬間この鳥は身をひるがえして私の獲物につかみかかった。が、幸いにして私が糸をゆるめるのと魚か水中深くのがれることの方が早かった。第一撃に失敗したハクトウワシは如何にも残念そうに直ぐ私の目の前を朝陽を浴びて白銀色に頭を輝かせ乍ら、再度のチャンスをねらってしばし旋回を続けたか、これは私の作戦勝ちに終わった。私の獲物を横取りせんとするこの鳥の意図を見抜いた私が、魚が水面に浮かばぬようリールの糸を巻いたり延ばしたりゆっくりとあやつり乍ら引き寄せて、終にポートの中へ引きあげてしまったからである。

 暫くは気もそぞろのまま感動の余韻にひたっていたが、やがて心も落ちつき再び竿を入れてあたりの風物に目をくばっていると、先程のハクトウワシが二、三度ならず頭上程高からぬところを飛翔して岸の林に向かうのに気がついた。改めてその万に目を向けると何と驚いたことにはボートよりは百米と離れぬ岸辺の大木の梢に、巣立ち直後と思われる幼鳥二羽をはさんで、大きな二羽の鷲が翼を休めてあたりをへいげいしているではないか、一羽は明らかに先程の鳥であるが、少し離れてとまっている他の一羽は、その鳥よりも一廻りも二廻りも大きな全身褐色の大鷲である。一体アラスカにハクトウワシの外にもこんな大きな鷲が、何という名の鷲であろうか、あれこれ考え乍ら心落ちつかぬまま宿舎に帰り、従業員の一人をつかまえて尋ねると、それはハクトウワシの雌であると軽くいなされた。実の所、それまで私はハクトウワシは雌雄同色と考え、且亦雌堆の大きさの差がかくも大きなものと考え及ばなかった不覚であり、後々考えてみるとその当然のことに思いいたらない程一連の出来事の感動に酔いしれていたのが実情であった。

 釣り上げた魚の名はピンクサーモン、六十四糎、これは日本人としては初めての大物の由にてその場で証明のサインをしてくれた。が私として何よりも、この後恐らく何人も経験出来ぬであろう一連の体験を破られることのない記録として心の奥に秘め大切にしている。

平成2年『三光鳥』第37号


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