薮原高原と私

○出合いの感動

 私が薮原高原を初めて訪れたのは中学三年の冬のことであるから、今から数えて凡そ六十年近くも前のことになる。叔父に誘われるまま当時開設されて問もない薮原スキー場に同行したのであるが、そこで私は初めてスキーというものを目の当りにし、同時に山の人々の暮しや高原の冬の自然というものを知った。

 名古屋の街中に生れ乍ら幼時より自然の生き物に興味を持ち、郊外とは云い乍ら全くの田舎に移転してからは、文字通り自然の中で自然を友としての生活を楽しんでいました。そんな私にとっても、初めて見る冬の高原の自然や風物、そして人々の暮しには心の底から驚かされると同時に、自然の美しさというものに対し新しい目を開かされたさた。

 天井も柱も壁板も真黒に煤けて光る暗い部屋、何物とも知れぬ珍しい山菜や山家料理、囲炉裏を囲んで聞く不思議な山の物語り、掘炬燵の上に何枚ともなくひろげられた重い布団の中に回りよりもぐり込む夜の床等は全てが初めて知る珍しい体験であった。が、とりわけて野鳥に興味を持つ私にとっては、夜明けに先立って、枕元に積まれた鳥籠をコトコトならすツグミやシロハラ、夜明けと共に訪れ軒端の雪を散らして餌を求める珍しいミソサザイの姿には胸をときめかせるに足る感動があった。

 併し、こうした諸々の感動も、夜明けと共に目の当りにした高原の自然美の前には単なる夜の序曲に過ぎなかった。

 朝日に輝く雪の集落をぬけ、スキー場に通じる山の林に入った時、私は四囲の木々の梢が全く氷の結晶に身をかためてキラキラと輝いているのに気がついた。霧氷であった。私は初めてみるこの此の世のものとも思えぬ美しさに唯目を見張るばかりであった。一歩一歩と歩を運ぶ度にキュ、キュと音を立てる粉雪、辺り一面につけられた兎の足跡、霧氷を散らして枝移りするリスの姿、初めて目にするそれらの自然美の感動の中で私は言葉もなく、唯呆然と歩いていたのを今でもはっきり覚えている。

 これがこの高原と私の最初の出合いであった。以来私は学校を出て入隊するまで、毎年冬になると少なくとも一回はこの地を訪れスキーを楽しむことになった。

 戦時、私は陸軍の一軍人として一度も外地に出ることなく東京に於て、専ら航空機生産の中枢業務にたずさわっていた。私は国家に対する忠誠心に於ては誰劣らぬものと自負していたが、日を追って苛烈化する戦局と人々の苦しみを目の当りにすると、業務を通じて知る戦争の実態とその矛盾に就いて思い悩み、折にふれて一体戦争とは何であろうか、人間の本当の幸せとは何であろうか等といった疑問にとらわれざるを得なかった。

 それ丈に人の世には見いだせないゆるぎない幸せ、真、善、美を自然の中に想定し、当時の澄み切った東京の空を眺めては一人遠く想いを白銀の峰々、白雲の高原にはせていた。

 終戦の年の六月、私は突如広島に転属を命ぜられ、業務の移管も進まぬ中にあの運命の原爆を迎えた。ほヾ爆心であった。引続く病床の生死をさまよう虚脱感の中で、何故かしきりに「国破れて山河あり」の言葉が頭に浮かび、この国が将来共末永く「人々が親切で礼儀正しく自然の美しい国作り」に徹することを願っていた。と同時に自分自身は若し助かるならば、何処か信州辺りの山奥で小さな果樹園でも経営し乍ら静かに安らかに暮したいものだと考えていた。今にして思えば誠に甘い考えというより外なく、万事が思うにまかせず国自体も全く逆の道をたどって今日の繁栄を迎えるに到った。

 幸い命を取り止めて知多半島海岸の自宅に帰った私は、その当時の恵まれた海の幸の自給の中で、美しい海の自然を友として暮らすことになった。こうした静養の明け暮れの中で私は序々乍ら健康を回復したが、それと共に長い間遠ざかっていた信州の山々や高原の自然が無性に懐かしく想い出されてならなかった。

 そこそこ健康を取り戻した私は、二十一年の七月思い立つまま一人薮原高原を訪ねることにした。


○戦後の訪問

 駅におり立った時の印象は今でも忘れられない。真夏の真昼日とはいい乍ら、人影一つ目に止まらぬ駅前広場胸にしみ込む清涼な大気、そこには長い戦争を感じさせる何物もない森閑とした古い宿場(うまやじ)の姿がそのまま残されていた。

 一人黙々と渓沿いの山路に歩を進める私の傍で、ケ、カラカラとけたたましく鳴き立てる小鳥があったが、その名前は知る由もなかった。とある集落を通り過ぎる時、何処からともなくコットン、コットンときこえて来る静かな機の音にふと人の気配を感じ我に返る静寂であった。山路によりそう集落をはずれると真夏日の日射しは急に強く時には汗ばむ程であったが、木蔭には何処にも高原特有の涼気がただよっていた。路傍に咲く初めて見る山草の美しさに気を取られ乍ら、めざす石置屋根の民家にたどり着いた時には、駅を降りてよりかれこれ一時問余りを経過していた。

 不在不都合を気にし乍らの突然の訪問であったが、私はそこで心暖まる歓待を受けた。食料難深刻な折でもあり自分の食べしろだけは持参していたが、次々と供せられる山の珍味の前に、それを取り出すことさえはばかられた。岩魚の塩焼き、兎の団子汁、そば粉の朴葉むし等々今でも忘れることの出来ない味わいであった。

 さてそれに味をしめたわけではないが、これを機縁として其後毎年一度は四季を分けて訪れることになった。私とこの民家とこの高原との本格的な付き合いの始まりであった。


○秘められた魅力

 ところで私が茲に、こうした古い想い出話を長々と持ちだしたのは外でもない、今日私を捉えてやまないこの高原の魅力の根源を探りたかったのに外ならない。それが判らなければこの後時代と共に進むであろう閑発の波から、この高原の魅力を引き出し守ることは不可能と思われるからである。

 凡そ人の心にやすらぎを与え人の心を捉えて止まない自然の美しさというものは、唯見た目の美しさや眺望の素晴らしさのみによるものではなく、澄み切った大気や清冽な流れ、多種類の樹木や草花、鳥やけものや魚や虫、そこに生活するあらゆる諸生物、亦そこに暮す住民の温情に至るまで、それらの全てあらゆるものが一つの調和の上に統合された美しさの中にみいだされることが多い。

 併し、残念乍らこうした美しさは唯表面から眺めていただけでは判らない秘められた美しさであり、その折々に肌で感じ味わわされるものばかりである。そこに自然観賞のむつかしさもあるのではなかろうか。単なる春の探鳥、夏の渓流釣り、秋のキノコ狩、それ自体も充分魅力ある楽しみであるが、この高原に於けるそれには、それらの楽しみを通じてその都度に様々な小さな秘められた自然美発見の喜びがもたらされる。私がこの地を自然の宝庫として推奨する所以である。

 私はこれまで多くの人々を当会の一泊探鳥バス旅行に、また個人的にこの高原に案内した。当初のそれでは一朝の散策で四十数種の野鳥を観察し、天空を乱舞するホトトギスやカッコウの姿も認められたが、年と共に減少してその姿を消し探鳥そのものの魅力はうすらいだ。併し多くの人がこれらの探鳥を通じて様々な感動を得られたようである。ある人はエゾハルゼミの斉唱や山草の美しさに、またある人は星空の見事さや月明りの明るさに、中には民宿の温情や心のこもった山菜料理の味わいにこの高原の美しさを味わって頂けたようである。


○美しき花と流れの高原

 薮原高原、それは日本内地のはぼ中央に位置し、本曽川の源流部を占める木祖村の奥に開けた小さな谷間の台地であり、大きな山の裾野に広がる広々とした高原ではない。併しこの高原程、清冽な流れに恵まれた土地は他に類例をみない。ここでは高原の到る処で数知れぬ渓や沢や流れが、爽やかな大気の中でせせらぎの音を立てているのを聞くことが出来る。

 つい先頃までこの高原の一角に桃、桜、アンズ、紅梅等を一斉に咲かす集落があった。五月の花の頃、遠望すればこの集落はすっぽりと花の霞の中に溶け込み、えも言われぬ美しさであった。私は常に童謡の中に見られる山の奥のねえやのお里という花の村は、さしずめこんな処のことであろうかと秘かに考えさせられた。残念乍らこれらの古木はここ十年程の間に殆んど朽ち果ててしまった。昔、何時の頃か心ある人の手によって一斉に植えられたものと思われる。今ではこれに替わって様々な草花が点在する農家の庭先に植えられて夏空の下に咲きはこっている。遠路、一見に値する見物である。

 この地には古来多くの歌人が訪れ数多くの秀歌を残している。中でも次の三首は、この地の趣を余すところなく伝えるものといいえよう。

   あしびきの山の狭間に白雲の動くが如く人は住みけり
                         斉藤茂吉

   からまつの萌黄の林きじは立ち時のまやまをさびしくおもほゆ
                         島木赤彦

   月夜よし木曽御岳の歌うたひ薮原越えし行くは誰がこぞ
                         吉井 勇


○我家の林

 私は何時の頃からか、この地を第二の故郷と定め余生はこの地でと考えていた。かれこれ二十年近くも前に縁あって土地を手に入れ先ず山小舎を作り、昨年ささやかな住居を建てた。私が初めて霧氷の中で技移りするリスをみて感動した林である。山小舎を「木鼠(キネズミ)山舎」と名付けた所以である。

 僅か七百坪余りの小さな林であるが、これまでに十種に余る野鳥の巣作りを確認している。ヒガラ、ヤマガラ、シジュウカラ、ミソサザイ、キセキレイは例年のこと、つい先頃までは窓の近くでオオルリとアカハラが、以前にはコルリ、マミジロ、クロツグミまでが巣作りをして林の中に美しい歌声をひびかせてくれたが、今ではその気配はない。リスは今でも玄関前のカラマツに巣をつくり、折々にその姿をみかけるが、先頃まで部屋の中を走っていたヤマネが近年その姿を消したことは残念でならない。隣接して流れる小沢には例年初冬になると、その年に生まれた岩魚の稚魚が群れているのが見られたが、今年は終にその姿を見掛けなかった。

 自然は私共の気付かないところで、静かに変わっているのに違いない。

 併しこの林は、縁あって日本鳥類保護連盟の提唱される「プライベイト・リザーブ」(私設野生生物保護地域)それも第一号に指定されている。私は今そのモデルケースとしての保全と整備を考えさせられているところである。


○村と高原の将来

 自然の変化に伴う生物相の変化、それはこの高原とても例外ではない。馬の放牧がなくなってコムクドリが姿を消し、湿原が失われてコヨシキリが去り、トチやナラやクヌギの自然林が切り払われてカラマツ林に変わることになって、キノコは元より野鳥を始めとする諸生物が姿を消した。時代の流れと云うべきであろうか。が、人間は果たして諸生物との共存なくして生きうるものであろうか。何れそのことに気付く時が来るに違いない。併しその時では既に遅きに失するであろう。

 今この美しい高原の村にも、開発という新しい自然破壊の波が押し寄せつつある。過疎と開発と自然保護、一見相矛盾するこれらの要素は、果たして本質的に対立するものであろうか。私は必ずしもそうとは思わない。

 人間が自然を作るなどということは理論的には不可能である。併し人問が手を加えることによってより豊かな自然を作り、管理することはさしてむつかしいことではない。

 豊かな自然、それはより多くの、より多種類の生物を育むことの出来る自然のことである。開発を利してそれに倍する豊かな自然を作る、それはこれからの自然保護のあり方であり、我々現代人の使命と考えられる。

 開発も自然保護も、唯、今に生きる人間の利益のためのみのものではなく、将来の子孫のためのものでなければならぬと考えられる。

 私は本州のほぼ中心に位置するこの美しい高原の村が、日本人の故郷として末永くその豊かな自然を保ち、この国の至宝として尊ばれ繁栄することを、新しい住民の一人として心から祈らずにはおられない。

 かくして私は、住むには最も楽しい都市、京都を離れ、敢てこの高原に居を移した。願わくば、心ある多くの人々の訪れを待って、鳥や虫や山草や樹木の美しさを共に眺め、その美しさを語り合う余生を持つことを何よりの楽しみとしている。

                       平成三年十一月記
平成3年『三光鳥』第38号


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