哀愁の自然−−不思議なコンサート−−
それにしても平成十年という今年の夏は、高原に住む私にとってはこれまでにない味気ない夏であった。七月に入ってより八月九月と雨、雨、雨の毎日で、夏といえば例年にみる如何にも高原らしい自然 シラカバ、カラマツの林を渡るあの爽やかな風、露を置いて乱れ咲く草花にあの朝靄の流れる日は一日とてなく、それらは一体何処へ消えてしまったのであろうかと、野鳥の囀りはもとより蝉の声一つせぬうっとおしい空の下で、毎日のように肌寒い高原の涼気を感じさせられていた。
不思議な出来事はそんな中で訪れた。
○不思議な来村者
連日の雨が降りやんでいた九月に入って間もないある日、ここJR中央西線藪原駅に上下の列車が着く度毎に若い男女の集団が降り立った。それはこの辺りでまず見ることの出来ぬ一寸変わった服装の若者達で、中には頭髪も色あざやかに染めている者も少なくなかった。
駅を降りた彼、彼女達は暫く駅前の広場にたむろした後、まだ多少は昔の宿場の面影を残す商店街の家並みを物珍しげに眺めながら三々五々歩き始めた。一体何事が始まるのかと好奇心に目を丸くする村民を前にして彼らは程もなく何時の間にかこの街から姿を消した。
『こだまの森』へと向かったのである。
○こだまの森への道
こだまの森とは、この木祖村の北のはずれ人里離れた山裾の台地に作られた遊園地である。駅からそこに至る道筋には二つあり、一つは街中からそのまま木曽川源流の一つ笹川に沿って北上し、上高地に至る県道、今一つは駅より木曽川の本流に沿って少し下り、そこに流れ込むこれも木曽川源流の一つ菅川に沿って北上する村道である。いずれの道をとるも駅よりこだまの森までの道程は六、七粁、いずれも二車線の広い舗装道路であるが、車の通行は多くない。特に菅川に沿った村道の山路は車もまれで辺りを眺めながらのぶらぶら歩きには適している。彼等は駅前で二手に分かれ、数名のグループを作って歩き始めた。途中の集落の庭先は何処もコスモスで彩られていたが、山里には最早夏の気配はなく肌寒い曇天の散策はさして魅力あるものとは思えなかった。しかし、都会から来た彼等にとっては車の通らぬ広い山路は、唯それだけで珍しく感じられたのかも知れない。車で通りかかった親切な村民が物珍しさも手伝って近くまでの同乗をすすめてみたが「いや、私達はこういう田舎道を歩くのが好きですから……」と丁重に断られたそうである。
この村道をとり、歩いてこだまの森へ向かうには我が家の前を通るのが順路である。私はその日何気なく庭先を眺めていたが、一寸変わった若い男女のグループが幾つとなく間を置いて通るのに気がついた。不思議に思って門辺に出てみると偶々男女数人のグループが通りかかるところであった。彼等の内の茶髪の一人が私の前に立ち止まると、こだまの森までの道のりを尋ね、あわせて路傍に咲く青赤黄の露草、釣舟草、ノコンギクを指さしてこれは自然のものかそれとも人が植えたものですかと尋ねた。私がそれらは全て自生であると答えると、如何にも感に耐えない様子で「田舎の道はいいなあ、花が自然に咲いて」と互いに囁きながら立ち去っていった。私は初めて言葉を交わした茶髪の人間とその意外に丁寧な言葉使いの取り合わせに好奇心をひかれ、少し彼等の後をつけてみることにした。スキー場の入口に出たとき一瞬自分の目を疑った。大きな駐車場のどれもが車で満車になっており、溢れた車は路上でとまどっているではないか。ナンバープレートを見る限り北は東北から南は九州まで全国各地よりの集合と判明した。一体こだまの森で何が行われているのであろうか、誰に尋ねても唯「コンサート」なる言葉が返るばかりである。私はそのコンサートなるものに少なからぬ興味をひかれたが、そこまではまだ一粁近くもあり最近の足の弱さから敢えてその見聞を割愛した。これは後々まで悔いを残すことになった。それから三日たった夕暮れ、犬の散歩をかねてこの地を訪れた私は二度びっくりした。そこには予期に反して紙屑一つ残らず、唯夕暮れの秋風が広い駐車場の草原に流れているだけであった。
私は改めて集会者の人柄と彼等の一部が歩き通して称賛した菅の村道に想いをはせた。
○菅の村道
私が戦後幾度となく訪れたその度に心を打たれ、この地に移住を決意したこの地の自然、その村道はこんなものではなかった。
駅を降りて山路に入るとそこはもう渓の流れの音と野鳥の囀りだけの別世界であった。特に初夏のそれは見事であった。谷間にはコルリ、オオルリ、ミソサザイ、アオジの囀りが、空からはホトトギス、カッコウ、ジュウイチの鳴き声が絶えることなく耳に入った。山路の林縁は何処もアケビやヤマブドウ、サルナシ、マタタビ等が生い茂り豊かなマント現象にふちどられていた。山路を抜けた集落の道はより森閑として人影もなく、石置き屋根の人家からは時折水車の回る音や機を織る音が静かに聞こえて来るのみであった。集落と集落を結ぶ田園の野路には四季折々の山野草が色とりどりに咲き乱れていた。私はそれらの草花の名もほとんど知らぬまま川辺の岸に腰をおろしてその美しさに見とれ、唯ぼんやりと空を行く白雲を眺めるのを常としていた。見るもの聞くもの全てが美しく、感動の自然美とは正にそのようなものと考えていた。しかし、それらの自然美も車社会に適応せんとする度重なる改修拡張によって全て姿を消し、単なる想い出になってしまった。
○哀愁の自然
唯一度それも古い昔のことであったが、この古い村道の丁度中程に位置する古い小さな神社の祭りに行き会ったことがあった。初秋の昼下がりであったと記憶する。遠くから聞こえてくる太鼓と笛の音に誘われて立ち寄った神社の祭り、それは如何にもこの地にふさわしい素朴で唯淋しいだけのものであったが、何か心の底から湧き上がる不思議な感動があった。私は神社と離れた草叢に腰をおろし、まわりにすだくカンタンの音の中で唯祭ばやしに聞き入っていた。
柳田国男は著書「遠野物語」の序文の中で、そこで行き会った山の祭りを次のように述べている。
「天神の山には祭ありて獅子踊りあり茲にのみは軽く塵たち紅きもの聊かひらめきて一村の緑に映じたり 中略 笛の調子は高く歌は低くして側にあれども聞き難し、日は傾きて風吹き酔ひて人を呼ぶ声の声も淋しく女は笑ひ児は走れども猶旅愁を奈何ともする能わざり」と。
そこに見られる旅愁とは旅人に於いてのみが気付きうる哀愁の心であり自然である。茶髪の若者達が淋しいだけで何も無いこの高原の山路にえた或る種の感動、それは喧噪につかれた都会人に於いてのみ初めて知り得た哀愁の心であったかも知れない。が、同時にそれは今日のあわただしい日常の中で、私共自然愛好者すらが気付かざるまま忘れかけていた哀愁の自然美の存在を改めて想い出させてくれた。
○不思議なコンサート
コンサートは三日三晩夜を徹して行われ参加者の総員は三○○○人を越えた由である。参加者は数名の主催者を除き全員野宿とのことであった。野外音楽堂周辺の林はテントで埋め尽くされ、一部の者は寝袋のまま草原にゴロ寝をしていた由である。かくして、この村始まって以来の大イベント大集合は新聞のニュースにもならず殆どの村民の気付かぬままに盛り上がり消えていった。村の当事者すらがことの次第を知らなかったようである。唯、正式の要請に基づき音楽堂と駐車場を貸しただけで、その内容については尋ねることもなく、せいぜい数十名程度の集合と考えていたようである。それも無理のない話である。およそ如何なる趣味の団体といえどもこの何も無い唯淋しいだけの山の中に、野宿を前提としてこれ程の多人数を集めうるとは何人にも考え及ばないことであるからである。私は元よりこのコンサートの仕組み内容については知る由もないが、いずれにしてもその主催者の見事な動員力、統率力には唯々感嘆するのみであった。
参加者に接することの出来た僅かな村民はいずれも彼等に好感を抱いたようである。彼等もまた初めて体験するこの何も無い心淋しいだけの高原の自然に接して、或る種の感動を覚え好感を残して立ち去ったようである。コンサートは成功裡に終わったものと確信する。私はこの一大イベントが単なる都会のドームやミュージアムではなく、こうした人里離れたこの地で行われたことを改めて大きな意義を感じ主催者の炯眼に心からなる敬意を表した次第である。
私は現代音楽というものに何の知識もなく元よりその良さを知る由もなく、単なる現代社会の歓楽を表すその極限の音楽といった程度の認識しかないが、ここにきて改めてまたその魅力の根源について考えさせられている。
私は常々この現代物質文明というものが、その頂点に於いて行き詰まったとき、人間社会を救済するものは新しい精神文明の復活であると信じている。そしてその復活の原点になるものこそは哀愁を知る人間の感性、愛の心をおいて外にないと考えている。同時に、考えてもどうにもならない矛盾だらけの現代社会の在り方を肌で感じ身体で表現しようとしているのが現代音楽そのものではなかろうかと思われる。だとすれば現代音楽に没頭しうる茶髪の若者達の方が人生の在り方として我々よりもより真面目であり積極的な生き様に思えてならない。歓楽尽きて哀愁深し。かく考えるとき現代音楽の魅力とは、無意識的に人生のより深い哀愁を求めての最終の音楽的快楽ではなかろうかと思えてならない。
私は今、この不思議なコンサートに様々な想いを巡らし、今改めてこの哀愁の自然を前にして秘められた自然美の意義を考えさせられている。
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平成10年『三光鳥』第45号
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