高原の便り(No.68)

 会員の皆さん,平素はすっかり御無沙汰致し申し訳ありません。この夏は如何お過ごしでしたでしょうか。連日の真夏日,熱帯夜,さぞかし大変な越夏であったことと思います。

 しかし,当地薮原高原は全くの暑さ知らず,あっというまに秋を迎えて,もはや一抹の淋しささえ覚えています。これはぜいたくというものでしょうか。子供の頃から格別自然に親しみ,夏といえば毎日真っ黒になって飛び回った私にとっては,海や川のあの灼熱の暑さこそが季節のもたらす何よりの恩恵として,今も忘れることができません。

 今日,八月も終わりに近付き,久しぶりに夏を求めて近くの池のほとりを歩いてみましたが,黄や白に咲くオミナエシ,オトコエシの叢にカンタンの鳴音がル・ル・ル……と静かに流れるのみで,夏は既にその名残すらとどめておりません。そんな中で,この夏に気付いたことの二,三をお知らせしたいと思います。


○小鳥の巣立ち

 私の家では山小舎の回りに10個ばかりの巣箱を掛けております。そのほとんどはカラ類のためのものですが,例年その7割は利用されているようです。しかし,何日巣作りが始まり,何日巣立ちが行われたかはほとんど判っていません。これは私の観察の熱意不足によるものでありましょうが,反面それ程小鳥達の警戒心が優れていることにもよりましょう。人の気配を感じる限り不用意には巣箱には近づかぬのを信条としているようです。いつものことながら,生育したヒナ鳥の鳴き声によってそれと気付くことが多いほどです。 この夏こそはぜひその巣立ちの様子を目の当たりにしたいものと心掛けていましたが,ついに失敗でした。私はこれまで小鳥の巣立ちというものは,大体親鳥の鳴き声にさそわれて一羽ずつ巣から飛び出し,しばらくは巣の近くで親鳥から保育を受けて一人前の飛翔力を身につけるものと考えていました。これはこれまで身近に見たスズメやツバメの観察にもとづく類推です。しかし,当地におけるカラ類,シジュウカラ,ヒガラ,ヤマガラは,それとはいささか趣を異にするようです。私は例年のこととして,これらの鳥達の営巣を眺めてきましたが,未だかつてその巣立ちの現場や巣立ちビナの姿を見たことがありません。

 私は前々よりこのことに少なからず疑問をもっていましたが,この夏にはそれを確かめる絶好の機会に恵まれました。それは一組のヤマガラが居間から丸見えの渡り廊下の巣箱に巣作りをしたからです。前を通る度にピイピイとヒナの鳴き声が聞かれましたが,その声が日毎に高まり,今日あたりはいよいよ巣立ちかと思われました。その日私は朝から気を付けていましたが,ちょっと席を離れた間に急に声を立てなくなりました。不思議に思い調べてみますと,巣箱は既にもぬけの空です。いつの間に巣立ったものか,全く不思議というより外ありません。台所にいた家内にこのことを告げますと,先程あなたがちょっと席をはずした間に巣立っていったと,いとも簡単に断言します。改めて尋ねますと,私が席を立つと同時に親鳥が飛来し,常にない鳴き声を立てるとその瞬間中のヒナが一斉に飛び出し,あっという間にどこかへ翔んでいったとのことです。

 私は一昨年の春,これはカラ類ではありませんが,偶然の機会にミソサザイの巣立ちを目の当たりにしたことがあります。その時,ヒナ達は一団となって巣から飛び出し,あっという間もなく私の目の前を翔んでゆきました。

 私はそれまで,こうした巣立ちはよほど特殊の例と考えてきましたが,実はそうではなく山の小鳥達にとってはこれが通常の巣立ちの姿ではないかと考え始めています。巣の中で充分に飛翔力を身につけた上で飛び出すのが,天敵の多い山の小鳥達にとっては最も賢明な策と考えられるからです。

 巣立ちの現場や巣立ちビナの姿がなかなか目につかないのもけだし当然のことと思われてきました。


○迫真の展示

 この夏,六月中旬より七月上旬にかけて渡米,古くから在米する妹宅に厄介になり,あちこちを見て回りました。聞きしに勝る彼の地の地形,事物の広さ大きさにはいささか驚かされましたが,中でも私が最も感動させられました事柄の一つを土産話として紹介させて頂きます。

 北米西海岸の北端の都市シアトルから船でカナダの入口に位置する湾港の観光都市ビクトリアを訪れた時のことです。妹の案内でとあるミーデアム(催会場)を見学し,そのビルの三階に作られた常設展示場に足を踏み入れたとき,たまたまその展示物に出会いました。

 一言もってすればそれは,それぞれの生息環境をバックにして前面に配置された動物の真に迫る実物大の模型に過ぎませんが,その迫真力は正に圧倒的でとても筆舌に尽くせるものではありません。

 展示された動物はいずれも巨大動物の代表であるマンモス,ゾウアザラシ,グーズリー(灰色熊)の三種でした。それらはまるで生きている如く,それぞれの生息環境を示す自然の大景観をバックとして,それぞれの生息場所である現実(?)の砂礫まじりの草地,貝殻や流木の流れ着いた砂浜の岩礁,苔むした倒木や落葉の堆積地にいずれも見事なポーズのもとに配置されているのですが,遠近観,立体観が完全に一体となってとけ込み,いくら目をこらして眺めても,どこまでが造形物でありどこからが絵画であるのか全く判りません。

 私は,私の足元から始まる砂浜に印せられた動物の足跡が,そのまま真っ直ぐに延びて海の中に消えてゆくのをただ呆然と見つめるのみでした。

 私は昔アラスカを旅した時,とある売店で体長2mもあろうかと思われる灰色熊が大きく口を開いて立ち上がり,両手を上げて4mとも思われる高さから人に襲いかかるようなポーズに作られた剥製を見て仰天した記憶を残していますが,今回の感動はその程度のものではありませんでした。

 ミステリーの世界に迷い込んだような頭の混乱の中で,様々な想いにかられて立ちすくみ,家内にうながされるまでは自分の存在すら忘れる程でした。

 私は寡聞にしてこうした展示物がわが国にもあるのかどうかは知りませんが,アメリカにはこれ以上のものもあるとのことです。これは一体どれほどの日時と費用をかけて作り上げたものでしょうか。いずれにしても自然に対するアメリカ人の関心の深さをまざまざと見せつけられた出来事であり展示物でした。

平成7年10月 『三光鳥便り』第68号


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