高原の便り(No.69)

【山の珍しい出来事】

 山に住んで,日頃野鳥や小動物,山草などを友として暮らしていると,折りにふれてこれらの生物に関する珍しい出来事を目にし耳にすることは決して珍しいことではない。しかしこの秋に体験したそれは,いずれも私共がこちらに移住して初めて体験した珍しい出来事であり,忘れ得ぬ想い出として述べてみたい。


○庭先での仔熊との出会い

 九月半ばのある日,私はその数日前,村の自然同好会より届けられた珍しい山草「ミソガワソウ」の種を蒔くため,玄関にほど近い沢に面した陽当たりのよい場所を選んで,堆積した落葉を取り除いていた。するとその時,私のすぐ後ろでガサガサという物音がして何物かが近づく気配がした。私は犬でも近づいたことと思い,何気なく後ろを振り向くと,その瞬間,何ものとも知れぬ物体が私の背後をすり抜け,私の足元より沢をまたいで倒れかかった松の倒木の上をかけぬけるのが目にとまった。それは正に一瞬の後ろ姿であったが,その真っ黒い丸々としたお尻によって仔熊そのものと直感できた。夏頃,この辺りで仔熊の姿を見掛けたという住民の噂は本当であった。仔熊とはいえ,野生の熊を我が家の庭で見掛けるとは思いもかけない幸運であった。私はただ呆然として秋の素晴らしい陽光の中に佇み,大きな感動の中に暫くこの仔熊の逃げ込んだ辺りを見つめていた。

 私は何とかして,この可愛らしい動物を餌付けしたいものと思い,その後数日の間私なりの考えを実行に移したが,これは失敗に終わった。仔熊は再びこの同じ場所には姿を見せなかったことと思われる。


○庭先を訪れた猿の群れ

 10月も半ばを過ぎたある朝,正確には7時を少し回っていたとのことであるが,台所に立った家内が常とは異なる庭の気配に気付き,ふと目を庭に移すと,そこに思いもかけぬ光景が目に入った。何とそこには数匹の猿が遊んでおり,あるものは庭石の上を飛び移り,あるものは落葉をかいて何かを探し,またあるものは椎木のほだ木に登って手を伸ばし,小枝の木の実を口に運んでいる姿であった。思いもよらぬ光景にしばし見とれた後,ふと目を移すと,何と目の先3mとは離れぬ小鳥の餌台として利用している松の切り株の上に,ボスとも思われる大きな猿がどっかりと腰をおろし,するどい目付きでこちらをにらんでいたそうである。一瞬ぎょっとして息を呑んだものの考えてみるとガラスの窓越しのことでもあり,まさか飛びかかってくることもあるまいと,そ知らぬ顔をしてそのまま猿の群を眺めていたそうである。やがて猿共は遊びにあきたのか,一匹そして一匹と沢を飛び越えて隣の林に姿を消し,最後にその大猿ものっそりと去って行ったとのことであった。この猿は恐らく群れを守って終始家内の様子を伺っていたものと思われる。猿の群は親猿4匹,仔猿2匹の計6匹であったとのこと,朝の遅い私が台所に顔を出したときには全てが後の祭りであった。

 この朝の我が家の林の美しさは年間を通じての最高で,地面は赤,黄さまざまな落葉に敷き詰められ,散り残った樹々の紅葉黄葉と共に朝日を受けて輝く様は,誠にこの世のものとは思われない眺めであった。私はその中で飛び回る猿の姿を一幅の錦画として頭の中に描いていた。


○ガラス戸に激突したハイタカ

 11月6日,快晴の真昼時,食事中の私共は耳元でひびくバーンという大音響に驚いて思わず箸を置いた。外を眺めるとガラス戸の外の廊下に,カケス程もある一羽の鳥が仰向けになってもがいているのが目に入った。改めて見るまでもなくその鳥は,腹部の細かい横縞,大きく開かれた尾の見事な鷹斑によって,この辺りを縄張りとするハイタカと判明した。

 直ぐさま立ち上がって手捕りせんとする家内を制し,私は後ろの棚に置いた鮎のタモ網を手にしてガラス戸を開いた。その間十秒余り,ハイタカはそのままの姿で横たわっている。私はもう100%捕らえたものと確信してハイタカの上にタモ網を差し延べた。すると,その瞬間,ハイタカはその姿勢のまま起きあがることもなくはばたき,あっという間もなく林の中に消え去った。それはとてものことに信じられない一瞬の出来事であった。

 「手で触れたかった」という家内に対し,もしそんなことをしていたら逆に握り返され大怪我をするところであった,と告げるのが精一杯の感動で胸のときめきを抑えきれなかった。後に残ったのは,長いやや厚手の板ガラスの下の部分に斜めに走った一筋のヒビ割れであった。このハイタカは,恐らく我が家から程遠からぬところに営巣していた一羽であり,部屋を通り抜けんとしてガラス戸に激突したものと思われる。もし板ガラスの中央部に当たっていたらどうなっていたことであろうか。ガラスのヒビ割れはセロテープで止め,当分は感動の名残を味わいたいものと考えている。

 それにしても見事なハイタカであり,それにふさわしい身のこなしであった。

平成8年1月 『三光鳥便り』第69号


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