高原の便り(No.72)

○キノコ中毒騒動記

 皆さんお変わりありませんか。今年もまたあっという間に短い高原の夏が過ぎ去りました。半袖姿を楽しんだのもほんの10日余り,夏といえばすぐ子供の頃のあの手足にまつわってひからびた水垢の匂いや,灼熱の海岸の海の香りを想い出す私にとって,高原の夏はあまりにも頼りなく,新聞やテレビで報じられる35度を越える各地の猛暑をかえって懐かしんでおりました。

 そんな私にとってこの夏は,特にお便りする出来事もなく,この紙面を汚すことをためらっていましたが,9月に入って思いもかけぬまるで悪夢のような珍事に出会い,急に筆をとりました。

 去る9月5日の夕,乱れ咲く秋の草花を訪ねて散歩に出た私は,家の近くの路傍の草むらに一株4〜5本の株立ちになったハタケシメジを発見,これ幸いとただちに採取して帰宅,塩,コショウ,バター炒めとして夕食のビールの肴としました。

 このキノコは歯切れよく極めて美味,さすがハタケシメジと満足しておりましたところ,食後20分程して身体が何となく汗ばんできましたが,特に気にすることなく入浴,入浴後常になく身体の乾きの遅いのを不思議に思いながらも,そのままシャツを着てテレビを見ておりました。その後30分を経過するも湯上がりのまま汗ばんで身体が乾かず今一度入浴,肌着を全部改めて床につくことにしました。

 この頃より発汗のいささか異常なることに気付き,家内を呼んでキノコに当たったらしいと告げました。最初少し馬鹿にしていた家内も,全身汗にまみれている私を見ると,最早肌着の交換では間に合わぬと直感,あわてて家中のバスタオル,タオルケットの動員を始めました。

 山と積まれたそれらのものを前に,私は丸裸にされると頭の先から足の先まで手足を延ばしたままそれらのもので覆い巻きにされて,布団の上にころがされることになりました。身動き一つ出来ず上向きに寝ころんでいる私を見て,家内のヤツはまるで生きているミイラだなどと言って楽しんでいる様子ですが,当の私はそれどころか,冷や汗に悪寒が加わり,ミイラの上に布団を重ねた中でガタガタふるえているばかりでした。そんな呑気なことを言っていられたのも,実はその間,家内の手によって呼吸,血圧,脈拍,血糖値など精密に計られていましたが,いずれも正常,ただ多少下痢気味の気配はするものの,腹痛,嘔吐などといったキノコ中毒特有の症状が全く見られなかったからです。ただ,発汗だけは止まるところなく,程もなくタオルを交換してもすぐにぐっしょりとなる始末で,これには参りました。

 夜半に至りいささか発汗のおとろえを感じましたので,改めてタオルをすっかり取り替え,灯りを消していよいよ眠らんとしますがなかなか寝つかれません。身動きならぬまま,目をとじて毒キノコについての僅かな知識,20種あまりの姿,名前を次々と思い浮かべ,あれこれ考えている内に幸い,深い睡魔におそわれ朝までぐっすりと寝込んでしまいました。

 朝の寝覚めは爽快でした。昨夜のことがまるで嘘のように,台風一過の青空を望むような寝覚めでした。

 私はこれまで,キノコの食,毒には少なからぬ興味をもち,若い頃には食,毒不明のものについては敢えてその少量を進んで試食してみたこともありますが,今まで一度として中毒らしい経験もなく,それだけに今回のことは正に青天のへきれきというべき体験でした。毒茸としてよく知られるアセタケのもつ毒性分ムスカリンの中毒症状はこれと同じかどうか知りたいものです。

 それにしても不思議なキノコであり中毒症状でありました。私は今でも食べたのはハタケシメジそのものと考えていますが,料理をした家内によると,ヒダの付き方がホテイシメジに似た垂生であったとのことです。学会未知の毒キノコの発見とすればこれも一興でありましょうが,今一度現物を確かめたいものです。自戒と共にキノコ中毒の一例として後日のために詳細を記してお便りとします。

平成8年10月 『三光鳥便り』第72号


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