野の鳥の想ひ出(3)
最近、アメリカあたりでも精神的な救いを、禅の研究に求め、亦レジャーの活用を真剣に考え始めて居ると聞く。それも結構である。併し、本質的には、先づ科学の、機械文明の独走をあたかも人類社会の向上であるかの如くもてはやすことを止めるべきである。そして冷静な人間性を反省すると共に、生物としての人類と大自然の関係を単なる打算ではなく虚心に再検討することこそ必要である。
現代人はすべからく自然にかえるべきである。かゝるときに、現代の子供達が、既に子供の内から自然を離れ遠ざかる傾向にあることは何としても容易ならぬことと考えられる。
これは、一ナチュラリスト、私の単なるきゆうに過ぎないのであろうか。
少なくとも次代を背負う子供達が、積極的に自然を友とし、自然を愛し、自然美を探求することに誇りを感じつつ長ずることが出来るような教育が必要であることを痛感する。
あまねき月の光に人の世の平等を感じ、秋に散る一葉の枯葉に人の世の美しさを語り、鳥の囀りを求めて山野を渡ることが、少し変って居るなどと思わせる世の中が正常であるとは考えられない。
私の幼少の頃の野の鳥の想い出記も、この意味に於て何らかの参考になれば特に幸と思うものである。
夕焼と五位鷺
小学一年の春、一家と共に郊外の新居に移った私にとって、雑木林と小川に囲まれた村里の生活は実に素晴らしいものであった。およそ陽のある内は、家を忘れ、自然を友として飛びまわったものである。
そんな私にとっても、町中とは異なる日暮れ時の淋しさ、たよりなさは亦格別で、父は帰らず、母も亦夕餉の仕度に忙しい一時、何時も門辺に立って西の山と暮れゆく空の色を眺めて時をすごした。「夕焼け小焼け」や「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」等といった歌を姉と共に声を合せて歌ったのも日暮れ時のわびしさをまぎらわすためであったのであろうか。
山の端に沈む大きな太陽、真赤な夕焼、そして消えかかる残照の内に輝き出す宵の明星、それらすべて子供の心を引きつけずにはおかぬ美しい自然現象であったが、尚亦別の大きな楽しみもあった。
夕空を渡る鳥の群を見ることである。
珍しい鳥は極くたまさかのことであったが、東の山の塒に帰るカラスの一族と、西の田圃に餌を求めるゴイサギの一群を見るのは常のことであった。
カラスの一族が、お互いに鳴きかわし乍らも、われ先にと急ぐのに較べ、ゴイサギの群が常に列をつくって整然と翔ぶのは面白い見物であった。クワ!クワ!と二声づゝ区切って、鳴き乍ら、このゴイサギの一群れが近づくと私達は声をそろえて、
『ガンガン竿になれ鍵になれ、後のガンが先になれ』とはやし立てた。その頃の子供達はこの鳥がガンではなくゴイサギであることは充分知って居たのであるが、ついにガンガンで通してしまった。つまりはその方がゴロがよかったからにちがいない。それにしても子供の声に合せたかのように、折々ゴイサギが後先き入れ替るのは妙であった。
或る秋の午後、私は一人近くの川辺に遊びに出かけ背丈よりも高い葦原の小道を歩いて居たときのことであった。ほんの五、六米先からパッと飛び立った大きな鳥が、ダン!とゆう一発の銃声と共にそのまゝふわっと横に傾き目の前に落ちて来たのである。私は突然の出来事にとまどひ乍ら立ちすくんだのであるが、すぐ葦をかき分けて獲物を拾いに来た男は、意外の場所に子供を見つけて一層驚いたことゝと思う。びっくりして立ちどまると、暫くは声も立てずに私と鳥とを眺めて居たのであるが、無言のまゝ近寄ると腰をかゞめて鳥を拾い上げ首をにぎってブラリと下げた。
その鳥は、私が夏の間、山の沼でひそかに眺めて楽しんだゴイサギに似てはいるが、少し違って居るようにもみえた。私は勇気を出すと、おそるおそる「その鳥はゴイサギであるか」と尋ねてみた。男は小さな子供からまともな質問を受けて、意外と言った顔付をしたが、
「そうだゴイサギだ。未だ子供だから体の色がちがうのだ」といゝ乍ら、まだらになった腹の当りを示して私にさわらせると、がさがさと葦をかき分けて立ち去った。
私の小学二年の秋の暮れと記憶している。
そんな私であったから、ガンガンとはやし立てる私達のの声をきいて、たまさかに親切な大人が、あれはガンではないゴイサギであると教えてくれると、かえって妙な気がすると同時に、未だ見たことのないガンに就て、色々と空想してみるのであった。
北風が吹き始めて、夕べの遊びにも興を失った或る日のこと、全く偶然の機会であったが、今迄に一度もみたことのないとても首の長い大きな鳥が、一列の横隊を作って私達の頭上を渡った。随分と高い空であったが、コキコキコキと翼の音がきこえて来るような荘重な感じがして、皆我を忘れて見送った。
「あれは何だ!ガンかな、ツルかな」「ガンにちがいない」うそ寒い初冬の夕暮れであったが、始めて見るこの大きな鳥との見参に、胸をふくらませ、ほゝを赤めて家路を急いだのであった。
これは正しくガンであった。以来、今日迄、かくの如き見事なこの鳥の横列を見ることがない。
木枯と連雀
梢に取り残されて、目白やヒヨドリを喜ばせて居た真赤な柿の実が、熟し切って落ちてしまうと、村里は急に冬ざれて来る。
ザワザワと櫟の枯葉をならして居た風も、いつしかヒューヒューと音をたてゝ吹き始める。木枯しである。私は木枯しの音をきくと今でも子供の頃のタコ上げと、レンジャクの群を想い出す。
当時の私達の田舎では、ほとんどの子供が自分でタコを作った。セミダコである。
このタコは、すごく大きいものか、或いは小さいものを作るのがむつかしく亦自慢であった。小さいものは安定が悪く、余程上手に作ってもくるくる廻って上らないからである。
子供の中には実に器用な者も居って、鎌一丁をつかって美しく艶のある煤竹をけづり、炭火でたわめて、実に形の良いよく上るタコを作った。
さゞんかが咲きウグイスの地鳴きする農家の庭先で、この見事なセミダコを見せつけられ、うらやましくて泣きたい程であったことを想い出す。
学校から帰ると子供達は、それぞれに自作のタコを持ち出し、西日の当る稲塚の日溜に北風をさけてタコを上げた。背中につける弓型のウナリの弦には専ら、平ゴムか麻の皮をうすくはいでつけたように記憶して居る。父にせがんで買ってもらった三尺に近いセミダコは、とてものことに幼い私の手には負えなかったが、鯨のヒゲのウナリが妙らしく、年かさの近所の子供が交る交る訪れては、私を誘い出した。
この木枯しの吹き初める頃、きまって庭の桜の木を訪れる珍らしい一群の鳥があった。レンジャクである。
私がこの鳥の名前を知ったのは、勿論ずっと後のことではあるが、その奇妙な習性と鳴声が印象にのこり、四季を通じてこの季節のそれもほんの二、三日の滞在に過ぎなかったのではあるが、その頃特有のあたりの物淋しい風物と共に忘れられない。
この鳥の庭への訪れは、必ずその鳴声で知ることが出来た。かぼそくしかしよく澄んだこの鳥のリーリーリーリーと鳴きかわす声をきくと私は何を置いてもそっと縁に出て、ガラス越しに桜の梢を眺めるのを楽しみにして居た。この鳥は必ず十数羽の一群で訪れ、例外なく全部が桜の一木にとまった。
逆立った頭の羽毛と細そりと良くしまった体形をもつこの鳥はほとんど枝移りをすることがなかったので、少し離れてみると、枯木についた大きなみの虫のようにも思えてならなかった。
木枯しにゆれる桜の梢は、いづれにしても、長い休養には適さぬのであろう。群を促すように一羽飛び立っては戻り、二羽三羽こぼれるように舞ひ上がっては戻る内に、やがて総立ちになって何処ともなく去って行くのを常として居た。
寒々とした桜の梢に初雪のちらつくのも間近い頃のことであった。
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昭和36年『三光鳥』第9号
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