野の鳥の想い出
第七話 死を迎えた小鳥達の話
私共は常日頃、季節毎に生まれ元気に飛び回っている多くの小鳥達を見ております。併しその死んだ姿を見かけることは殆どありません。これは一体どんな理由でしょうか。
その理由として、多くの書物が一様に書いております。小鳥達には天敵が多く、病気の鳥やその死体は一早く始末されてしまうからだ…と。果してそうでしょうか。元よりそれも真実でありましょう。併し私にはそれ以上にもっと大きな理由のあることを子供の頃より考えて来ました。今回はそのことについて書いてみたいと思います。
小学校に入学すると間もなく街中から郊外の田舎に移り住んだ私は、そこで鳥や魚や虫に就ての様々な不思議に出会い、今でも忘れることのできぬ大きな感動を味わいました。特に私の野の鳥達に対するそれは、自然の生き物の好きな父が移転後間もなく庭先に大きな禽舎を作ってくれたことによって一層その機会に恵まれることになりました。大きいといいましてもたかだか一辺一・五米程の四角の小屋でありましたが、そこには常に数種の小鳥が二十羽程も入れられていました。常連としましては、ホオジロ、アトリ、アオジ、カシラダカ、カワラヒワ等何れも粒餌で飼うことの出来るものばかりでしたが、時には極く珍しいものも入っていました。これらの鳥達は何れも霞網を趣味とした父の友人の贈り物でした。何分にも野の生物が今よりは格段に多かった大正末期のことでもありますので、この禽舎を巡って次から次へと色んな事件もおこり、その想い出はつきるところがありません。
管理をまかされた私は、朝に夕に餌と水を与え乍ら小鳥達を眺め楽しむと同時に、野外を飛び回る小鳥達にも少なからぬ関心を深めていました。
この禽舎は高さ一米程の台の上に作られており、床には土を入れて箱庭のように小さな山と水浴び用の池、塒としての多少の樹木も植えてありましたので、小鳥達にとってもこの上ない快適な暮らしのように私には思えました。にもかかわらず、管理をまかされた私が愛情をそそいで世話をしましても、年に二、三羽程は原因も不明のまま死なせてしまいました。所詮は捕われの身であることの生活の不自然さ、或はその多くが渡り鳥であったためでしょうか。今にして思いますと可哀相なことをしたものと思います。
それまで何事もなくとび回っていた鳥が或る日突然に元気を失い、唯一羽しょんぼり木の技にとまっているのを見るのはつらいことでした。その内に枝にとまる力も失うのでしょうか、床の地面に降りて羽をふくらせ翼ををたれて唯ピョンピョンと力なく移動するようになります。これはもう疑いもなく小鳥達が死期を迎えた姿です。
この段階を迎えると小鳥達はそれまでには見られなかった不思議な行動をみせ始めました。それは、それまで私に全く無関心を示していた鳥が、求めて私に近づき回りを歩く私の動きに合せて禽舎の中を移動し乍ら、何事かを求め訴えるようにつきまとい、輝きを失ってしょんぼりした目でじっと私をみつめることでした。こうした姿をみることは子供心にもあわれでならず、なんとか外に出してせめて最後は自由の身にしてやりたいものと入口の扉を開放しても外に出ようとはせず、新しい水を入れた皿を手にして差し出しても飲もうともせず、指先二〇糎程のところで立ち止まり唯じっとしている丈です。もうこうなると子供の私にはどうすることも出来ません。
日暮れになって家の中に入った後も頭の中はこの小鳥のことばかりで仲々寝つかれず、夜明けと共に禽舎にかけつけるのですが、その時はもうその鳥の姿はどこにもありません。申し遅れましたがこの禽舎を作ったとき、私はいたずら半分から山の部分に経一〇糎、長さ四〇糎程のトンネルを作っておきました。このトンネルは間もなく一方の入口が崩れ丁度小さな洞くつのような型になっていました。昨日の小鳥がその穴の中で死んでいることはもう間違いありません。私は何時ものこととして先のまがった針金をそっと穴の中に差し入れ、足を延して固くなっている小鳥を静かに引き出すのでした。
これでお判り頂けましたでしょうか。どうやら小鳥達は死期を迎えるとどの鳥も皆このように、何ものにも煩わされることのない暗い場所を求めて自ら姿をかくす習性があるようです。このやるせない出来事も、この禽舎ができてから数年後ある嵐の夜に吹き倒されて取り払われることによって終わりを告げました。その頃には私ももう中学生になっていましたが、長い間の小鳥の世話から解放されて内心ほっとしたことを今でも忘れることが出来ません。
|
平成1年『三光鳥』第36号
|
|