野の鳥の想い出
第九話 コアジサシと鎌イタチの話
私の子供の頃、私共の住む地方にはあちこちに大小様々な用水池が残されていました。特に私の子供の頃とことわりましたのは、それらの池は私が中学に進学する昭和の始め頃には、その殆んどがあっという間に埋め立てられて姿を消したからです。それは新道の開通、市電の延長、住宅地の開発などというあらゆる開発が、一度に束となって私共の住む都市郊外の田舎に押し寄せて来たからです。そこに見られた自然の変貌は誠にすさまじい限りでした。
今にして思いますと、私の幼年の頃から始った野の鳥の想い出が、小学四、五年の頃を境としてばったりと途絶えてしまったのは、私の年令が、余りにも子供っぽい自然の生物に対する興味を失わせたせいばかりではなく、こうした自然破壊が身の回りのあちこちに起っていたことも否定できないと思います。
これまで私は、野原や小川や沼等、色々な自然にふれて野の鳥の想い出を書いてきましたが、これらの池に就ては殆んどふれておりません。その理由は、これらの池は近づいて野の友との交遊を親しむ対象としては余り適当ではなかったからです。古い昔に用水池として作られたこれらの池は回りが切り立っており、その上見捨てられたまま草がおい茂っておりましたので、たまさかに何か珍らしい鳥や生物の姿、出来事を期待して池に近付き眺めるのがせいぜいでした。
特にその中の一つには奇妙な噂がささやかれていました。それは、その池には古くより鎌イタチが住んでいるという噂です。イタチと言う名がつくからには、それに似た動物であろうかと思われますが、勿論誰もその姿を見た者もなく、またそうした動物の実在を信じていたわけでもありませんが、兎に角、風の強い日特に日が暮れてからは、その池の一角だけは通ってはならない、必ず鎌イタチに襲われると信じられていました。現に何人もの村人がその被害にあっていると、まことしやかに伝えられていました。被害というのは外でもなく、顔とか手足とか素肌の現れているところを鎌で切ったように傷つけられるというのです。勿論、傷ロからは血も流れますが、其時には一向に気付かず、家に帰って初めてそのことに気付き、大騒ぎになるのだそうです。
そういえば、家の近くの農家では台風が近づくとあわてて長い竹竿の先に鎌をゆわえ、屋根よりも高く固定する習慣が見られましたが、これも鎌イタチから家を守る呪いとして知られていました。一体、鎌イタチとは何であったのでしょうか。これらの噂も呪いも池の埋立と共にあっけなく消えてなくなりました。
唯、この池に就ては今でも私のまぶたの中に残っている鮮明な想い出があります。それはこの池で初めてそれまで考えてもみなかった珍らしい鳥を見たことです。それはツバメを二回りも大きくした真白な鳥で、長い翼を軽やかに動かし乍ら、十数羽の群をつくつ池の上をすいすいと飛び回っていました。これらの鳥は、一羽、二羽と交る交る池の中に飛び込んでは舞い上っていましたが、それも初めて見る鳥の動作であり、世の中には妙な鳥もいるものよと小さな胸をときめかして見入っていました。それがコアジサシであると知ったのは、元よりずっと後になってからのことでした。
第十話 カワウソを探してウズラを見た話
これらの池に就ては今一つ忘れられない想い出があります。それは私の長い野の鳥との交遊の中で、最初にして最後にもなった野生ウズラとの出会いであり、今以て理解出来ない不思議な事柄についてです。
私の家より二キロ程も離れた川沿いに周り四百メートル程もある細長い池がありました。不思議なことにこの池に限り岸辺の一部が巨大な水蓮の葉によってとざされていました。直径およそ一メートル以上もある葉を持つ鬼蓮と呼ばれる植物は、私共の地方でもこの池だけに見られたもので、それだけでも何かこう薄気味悪い神秘的な雰囲気をたヾよわせていましたが、そのせいかこの池には古くよりカッパが棲みついているという噂が流れていました。
その頃、村人がカッパにいたずらされたという噂は、狐や狸に化かされた話と共にさ程珍しいことではなく、さもありそうなこととして信じられていました。私の父も当時としては物事を科学的に考える方であったと思いますが、そうした話には頗る興味を示し、或はまだカワウソでもいるのかも知れないなどと言っていました。
確か小学三年の頃の秋のことと思いますが、私ほ父の言葉に引かれ、仲間の二、三人と共にこの池の探索に出掛けました。草の生い茂った池の囲りを一回りしてみましたが、それらしい痕跡は何もなく唯やたらと牛蛙が多く、次々に大きな音をたて岸から池の中に飛び込むのを目撃しました。当時の田舎ではまだ牛蛙の存在が広くは知られておらず、その物凄い鳴声が一部に妖怪視されていた頃でしたから、この池のカッパの噂もこの牛蛙の誤認に尾びれがついて広まったものかも知れません。
唯、私共はここで実に奇妙なものを目にしました。それは前に述べました鬼蓮の岸辺に近づきました時、岸から水面に向って二、三メートル、赤土がむき出しのまゝ三、四十センチの巾で、つるつるの状態で池の中に真直に落ち込んでいるのを見つけたことです。これは一体何の跡であろうかと子供心にもいぶかり乍ら話合いましたが、終に判らず終いで深く考えることもなく、そのまま帰って終いました。
後日、そのことがどうにも気にかかり、その年の秋も終りに近い或る日、今度は一人で出掛けました。急いでめざす辺りを探し回りましたが、どうしてもその場所が見つかりません、こんな筈はないとは思うものゝ長居も出来ませんのでまた急いで引き返すことにしました。
この時にはもう初冬の夕日も大分、傾き始めていましたので細いまわりくねった田舎路を遠回りする心の余裕もなく、通りなれた川ぞいの草原を馳けぬけることにしました。ものゝ数十メートルも踏み込んだ時でした、突然足元からグワーグワーと云った鳴声と共に、数羽の茶色ぽい鳥が飛び立ちました。それらの鳥は、ずんぐりとしたからだに短い翼を力強くばたつかせると、それでも可成りの速さで草原をすれすれにとび去り百メートル程も先の草叢に着地しました。私は急いでその場所に馳け寄り今一度その姿を求めましたが、その鳥達は再びとその姿を現しませんでした。勿論初めて見る鳥ではありましたが、私はそれがウズラであることを一早く直感しておりました。何故なれば私はかねてより其の辺りにウズラが居るときかされており、現に其処で捕えられて飼われている一羽を見ておりましたから。いずれにしてもそれは感動の出合いでした。珍らしい鳥を初めて野外でみたその喜びは、その帰りの道すがら、何かの寄合いの帰りでしょうか、ほヽかむりをした農家の主婦が二人三人と寒そうに肩を寄せ合い乍ら、広い野面の道を思い思いの方向に帰って行くのを見送ったことゝ共に、まるで昨日のことのように想い出されてなりません。
終編 大正ロマンというもの
私はこれまで、私の幼少年時代の野の鳥に関する出会いの記憶を「野の鳥の想い出」として会の会誌、会報の上に何回となく発表して来ました。それは私自身の懐しい記憶の掘り起しであったことゝ共に、今ではもう古い過去のことゝして知る人もなくなった大正末期から昭和の初めにかけてのこの国の一地方のそれも名古屋という都市郊外の自然と自然生物の実態を会員の皆さんに少しでも知って頂ければと考えたからに外なりません。
併し、それもぼつぼつ種切れになり、もうそろそろ終りにしたいと思い乍ら、会報第四十六号に「流浪の冬鳥連雀の話」を発表しました直後、会員の一人であるYさんより「会長の野の鳥の想い出」は大正ロマンそのものである」との指摘の言葉を頂き、実は内心ハッとさせられるものがありました。そう言われてみますと、成程私の胸の中には野の鳥の想い出と共に、子供心にも感じられたあの今日大正ロマンと呼ばれている何とも不思議な時代の雰囲気が、今も尚ひしひしと生き続けていることを否定できないからです。
大正ロマンと云いましても、大正の末期に幼年時代を過しただけの私には、元よりその多くを語る資格はなく唯それに続く昭和の初期を、自然と生物の好きな多感な一少年として、当時の身の周りに起った自然の激変と生活の変化を通じてそっと垣間見た程度に過ぎません。
それにしても不思議な時代でした。押し寄せる近代文明という嵐の前の静けさの中に花咲いた一つの精神文化といヽうるものであったかと思います。物質的には、現在と較べて全く比較にならぬ程貪しく恵れない生活の中にあり乍ら、それでも尚自然の美しさや淋しさの中に身を投じて、即ち一言以てすれば、花の美しさを眺めてはため息をつき、月の明るさを眺めては涙を流す心の余裕を残していました。同時に人々は、自らの生活の淋しさやるせなさを自然のそれに重ね合せ、詩や歌に托して気をまぎらわせ一時のやすらぎをえていました。なればこそ当時のそれの中には、子供の童謡は元より大人の歌謡曲、流行歌におきましても、自然の淋しさ就中日暮れ時の淋しさを織り込んだものが圧倒的に多数を占めていました。
今こゝで一寸取り上げてみる丈でも、童謡の夕焼け小焼け、あの町この町日が暮れる、菜の花畑に入日薄れ、叱られて叱られ、笛や太鼓にさそわれて、等々が。歌謡曲では、更けゆく秋の夜、夕空晴れて秋風吹き、砂漠に日は落ちて、月の砂漠、流浪の旅等々、流行歌では、宵闇せまれば悩みは果てなし等が、余りにも卒直な表現として想い浮べることが出来ます。なればこそ野口雨情の「枯れすヽき」や竹久夢二の「宵待草」がそれらの詩情を代表するものとして、燎原の火の如く全国的に広がったことも理解出来ると思います。何しろ詩人とは云い乍ら大の大人が、自ら涙香だとか、泣董などヽいう雅名をつけて何のこだわりもなく活躍した時代ですから、国民総詩人とも言ってもあながちに過言ではない時代でした。
私はそこにこそ人間として心があり、大正ロマンの本質があったことと思います。
昭和に入ってその心を無気力退廃的なものとして退け物欲のとりことなって物質文明に突入したところに我国否人類としての悲劇が始まったのだと思われてなりません。人間の真の幸福というものは未開の中にあり、人間の真の平和というものは心の中にあることを改めて反省したいと思います。
いずれにしましても、私の野の鳥の想い出も、あの時代的背景がなければ大分に変ったものになっていたことと思います。何しろ幼少年の私が、暇さえあれば日がな一日野の友を求めて野原や小川のほとりをほっつき歩くことが出来たということを別にしましても、野の鳥との初めての出会いの感動と共にその折々の自然の情景までも、今でも昨日の出来事の如くありありと想い出すことが出来ますのは、やはりあの大正ロマンというものを子供心にも無意識の内に取り込んでいたからだと思われてなりません。
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平成4年『三光鳥』第39号
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