京都野鳥の会/資料室 1

『三光鳥』  第1号(昭和28年11月20日発行)
発刊に際して

 最近に於ける「日本野鳥の会」の新会員の増加、新支部の誕生及びその行事、運動は、実にめざましいものがあり誠に同慶至極と申さねばなりません。
 野鳥の研究と愛護をモットーとする本会がかくも現代の凡ゆる階層に迎えられ且喜ばれて居ることは、一つは趣味としてのこの会の本来の良さに依るもの乍ら、中西名誉会長以下会員諸兄姉一人一人の逐年の努力と熱意に基くものであることは申す迄もありません。
 本会の最も古い支部である「京都野鳥の会」におきましても、最近ようやくその行事運動が軌道に乗りたるが如く、毎月の行事はさて置き今春の比叡山探鳥会には延1,000名近くの人々を案内したのであります。これらの人々は幼時より「森の小鳥」だとか「春の小鳥の囀り」と云った言葉を限りなく耳にして居られるのでありますが、実地にその囀りをきかれるのは始めての方が多く、何れも今更乍らそのすばらしさに心を打たれて帰られるのであります。
 今一歩進めて、その小鳥達の名前を知り、生態が判ってくるやうになればその喜びは亦格別のものがあります。そこには自から愛鳥思想が湧き起り、引いては真のヒューマニズムが生れて来るのであります。それのお手引きをするのが会の使命であります。
 会が将来発展の一途を辿ることは信じて疑いませぬが、それには会員一人一人の自覚と熱意にまつところ大であります。何卒会の為積極的なる御支援を望んで止みません。
 創刊号発刊の言葉にかえて、会員諸兄姉に御願いします。(I)

京の鳥   川村多実二

京の山若葉の森にきびたきの帰りきて啼く春となりにけり

蘚寺の庭に人無き春の晝もずさえづれりめじろを真似て

桃山のみささぎ道の椎の木にめじろ高鳴く春は来にけり

春されば若鮎のぼる木津川の空に来て飛ぶこあぢさしかも

つばめ飛ぶ宇治大橋の三の間に白雲あふぐ初夏の朝

小魚(さな)捕るとかはせみ池の面打ちて映れる堂の影を乱しぬ

朝の茶をすすりてあれば窓の外にさんくわうてう啼く黒谷の寺

時ならぬ椿の花をよろこびてめじろ友よぶやまかげの寺

冬来りぬ法然院の薮かげの路に落葉をしろはらの掻く

目を閉ぢて日ねもす鳥をききておはす瑠璃の御堂(みだう)のおんほとけかも

日本の鳥の良さ   伏原春男

 吾々京都人は京都に生れ、京都に育ち、京都に生活し乍ら、とかく京都の良さに就て忘れ勝ちになっている。
 私も時偶地方に旅行に出て見るが、一時的には変った風物に感心はしても、所詮は京都の良さが思い較べられて、急いで京都の土地に帰りたくなるのが常である。
 この様に京都の良さといふものも、他の土地と比較して見てはじめて知られるものではなからうか。
 このことは鳥に就ても考へられることで、日本の鳥の良さを知るには、先づ日本以外の国の鳥に就て知ることである。
 然し全世界の鳥に就て知るなどいふことは、我々アマチュアーにとっては、とても時間的にも経済的にも許されぬ事だから、せめて日本の鳥類と最も関係の深い旧北区の鳥類について概略的な知識を得ておくことも無駄ではなからう。
 私は本来旧北区系の鳥類に対して限りなき愛着を感じてゐるものの一人である。
 なる程熱帯地方には絢爛眼も欺く様な美しい鳥や又珍稀な種類も少くはないが、結局は飽きの来るもので、四季の変化に富んだ国土に生れ、多少とも物のあはれを感ずる様に習慣づけられた我々日本人にとっては、いくら美しいとはいへ所謂味のない熱帯性の鳥ばかり見ていることは到底堪え得られたものではないであらう。
 このことは私も親しく経験したことであって、満州滞在当時ソ満国境附近(旧北区)の鳥類を思ふ存分に観察、採集し得る我が生涯にとって最良の年があった。日本では冬鳥としてしか見られぬジャウビタキ、シロハラ、ミヤマホゝジロ等の囀りを自然の環境で聞き、今迄比較的馴染の薄かった冬鳥達に対する親愛感が急に増して来て、その思出はなつかしく又清浄なものとして私の脳裡を消え去ることがない。然し南支那に移ってからは今迄縁の遠かった東洋区系の鳥類が次々と目の前に現はれて来た時は全く驚きと喜びに満ち、その種名判定の出来兼ねるときなどは宿題の数学の難問が解き得ぬ際の様な気持で苦しまされたのも今となっては却ってよい思い出となっている。
 その当時最初珍しく思はれた南支の鳥類も段々日の経つにつれて飽きの来ることが判って来た。特に知目鳥科の鳥の騒音や白頭(ペタコ)の雑音にはほとほと閉口して了い、丁度朝から晩迄脂濃い中華料理を無理矢理に食べさゝれている様な気がして、その時程日本の鳥の声に対し郷愁を感じたことはなかった。その気持は丁度中華料理のあとに一杯の茶漬の味を求めるそれにも似ていて、最も聞きたく思ったのはホウジロとヒヨドリの声であり、そも日本にゐては最もありふれた鳥であるが故に一歩故国を出てみると却ってなつかしく感ぜられたのであらう。
 近頃私は欧州の鳥の本を読んでみて気付いたことは、共に旧北区に属した東西の陸続きでは余り驚くほどの鳥相の変化のないのは当然だが、その中でも同じく旧大陸の両端に位する島国の日本と英国との類似点の多いのに驚いた。特にカケス、エナガ等が著名な例である。しかし英国には亜種は別として特有種はほとんど無く大部分の鳥がヨーロッパ大陸と共通なのに反し、日本の鳥には特有の種の大へん多いことであって、代表的なものにキジ、ヤマドリ、小鳥の類ではアカハラ、アオバト、コマドリ、ノジコ、コムクドリ、アオゲラ等々。純日本特産でなくても世界的に有名なタンテウ、オシドリ、トキ等が日本の鳥を代表している。又英国では鶴類はクロヅル一種に対し日本では三種、カハセミ類一種に対し三種、杜鵑科は英国ではカッコウだけの淋しさに対し日本では四種も産するなど仲々種類にも恵まれている。その上英国では全然見られないメジロ科ヒヨドリ科サンセウクヒ科の鳥類迄産し種類だけは仲々多彩なのであるが個体数の少いこと、人馴れしていないことなど全くお恥しい次第である。日本にはこれだけ有名な特産鳥や世界的な銘鳥を持ち乍ら、その有難味を知らず、その上彼等に対する取扱方が余りにもお粗末すぎはしないだらうか。
 この際我々の視野をも少し広くして、も一度日本の鳥の良さというものを見直すべきであらう。(昭28.10.5稿)

自然を愛する心   伊藤正美

 折角の創刊号故、今よりずっと野の鳥の多かった私の少年時代−−緋水鶏や胸黒千鳥が子供達の遊び友達であった頃の思い出をとも思いましたが、最近の世状を見るにつけても自然愛好者の一人として、この際、日頃の所信の一端を述べてみたく、不遜を省みず筆を取りました。字数に制限あり、論旨飛躍の点は宜敷御賢察の程。


 今年の春、私はある親しい会合の席上話が偶々探鳥会のことに及んだので、ついで乍ら、「最近の野鳥蕃殖地の破壊と野鳥の減少」を嘆じその対策の必要を力説した処、友人某の曰くには「そりゃ君無駄だよ、今の世の中は人間自体の問題で一杯なのだ。小鳥の啼き声や自然の風致は、生活の綾として考へるべきで文明文化の進歩が人間生活をより高度化する為に自然を破壊するのは止むを得んではないか。多少手加減してみた処で時期の問題だよ。何しろ原子力時代だからね」と言う挨拶である。
 誠に御尤であり、どうも現実はそんなふうに進んでいるやうだ。併し我々が自然を愛し、亡び行く自然を惜しむのは単なる趣味や感傷からであらうか。私はここで一席弁じやうかと思ったが止めた。未だに腹ふくるる感のなきにしも非ず。且その後も、そのやうな考え方が大体に於て自然に対する即直且代表的な考へ方であり、自然愛好者の内にも満ち足りぬままに肯定して居られるやうな向も多々見受けますので敢て筆を取りました。
 一体、自然と人間の結び付はどのやうなものであらうか。
 申す迄もなく人間は自然の所産であり、本来動物以外の何者でもない筈である。ところが物質文明の著しい進歩と人間智能の発達は、人間をして動物以上のものであるとの錯覚を起させて居るらしい。そしてこのことは、現代人をして自然の軽視と同時に人間性(動物本能としての)の軽視を引き起して居るのだ。
 私が自然の軽視を惧れ、且人間生活と自然との結び付に再考の必要を痛感するのは実にこの点にあるのだ。
 人間性の軽視とその研究不足が如何に現代社会に各種の矛盾を引き起して居るかを一寸考えてみたい。私は現代人が最も誇りとする物質文明が、人間性の改善が不可能としても、その善導をすら念頭に置かずして独走したところでそれが人間生活の真、善、美となり、或は、幸福するとはどうしても考え得ない。只人間生活を安易にするだけである。
 現代人には原子力等不必要ではなからうか?我々は今それの管理に頭を悩す前に、狂人に名刀を持たした愚を深刻に反省してみる必要があるやうだ。
 亦人間性軽視の弊害は現代人の物の考へ方の面に於て特に著しいやうに思ふ。私はここで一寸「戦争と平和」の問題にふれてみたい。
 一体動物として自己の平和と安全を求めぬものがあらうか。それは数億年前から綿々として受けついだ動物の本能である。人間に対してお前は平和を求めよ等と説くことは愚である。我々が真に平和を希望するなれば、他人に平和をおしつける前にもっと人間性を掘り下げて研究すべきだ。動物は自己の平和と安全を擁護するために危害に対する逃避と攻撃を手段としてもつ。この手段が第二次的本能として発達していることは万人衆知の処、人間とてもその例外ではない。
 一体我々は今迄に人間の有する攻撃本能に注意を払ひ、且これが対策を研究してみたことがあるだらうか。現代社会はこの人間の有する攻撃本能を軽視することによって徹底且本質的な打撃を受けて居ると云って過言ではあるまい。この本能は善導されることなく満たされることなきままに無意識的に蓄積されて行く。パチンコや競輪やジャズがその排口である内は問題でないのであるが。
 私は思想の対立が即戦争であるとは考へぬ。併し一つの大きな要因であることは疑ふべくもない。何故なれば人間はこの攻撃本能を利用せられ一つの方向に乗握指導せられると意外な行動を起すからである。ことは過去の事例を引く迄もあるまい。大衆の心を統一することは攻撃本能を利用するのが一番賢明であり或る種の指導者は常にこの手で成功して居る。近頃流行のデモなどは攻撃本能の集団的発散である意味に於て戦争と異らぬ。竹槍を擁し棍棒を振ひ乍ら戦争反対を叫ぶなどは笑止である。
 人間性の改善指導それは容易なことではあるまいが、それには先づ振出しにもどって自然にかへることである。そして謙虚なる気持で大自然を見つめ、一動物としての人間の立場を反省する処に人間性善導の案外の糸口が見い出されるのでなからうか。少くとも人間攻撃本能の指導丈でも現代人間社会の喫緊の要件と考へられる。それには国家的事業として組織的に且健康的に攻撃本能の自然の排口をみつけてやらねばなるまい。自然愛好者の我田引水が許されるなれば、それは大自然を対象とした一つのリクリエーション的な運動が適切と考へられる。現代の日本にその適切な指導者はないものだらうか。若しありとすれば私はその先棒をかつぐことにやぶさかなるものではない。
 どの面から考へてみても将来超高度化された物質文明にしいたげられた人間を救ふものは、人間の生みの親である大自然であらうとしみじみ痛感する。ことは今や生活の綾などではなく最も切実な内照であり、私は声を大にして自然に帰れ、自然を愛せよと叫びたい。自然の擁護!これこそ現代人にかせられた最も重要な責務ではなからうか。

幼き日の想ひ出   橋本英一

 昔の話と言えば何だか老人じみた言葉になりますが、私の小学生時代の今を去ること三十年前の頃の私達の周囲の野鳥を想い出してみると子供心に一番印象に残っているのは雁の渡りの姿だと思います。当時の小学生は洋服姿は珍しく中流家庭の子どもで絣の着物に小倉の袴、中流以下の子供は袴なしで前垂れ姿で鞄を肩からかけて雪駄ばきで通学していた頃です。雁の春秋の渡りのシーズンなどと言う知識もなく何時ごろだったか季節の観念もなく毎年たくさんの雁が夕方になると西山の方から美しい列を作って啼き乍ら家の上を過ぎて大文字山にすれすれにとんでゆくのを見た事ははっきりと覚えています。
 雁の姿なんかはとうに忘れられていた頃の昭和十五年から兵隊生活を北満に過ごした頃には、渡りのシーズンには毎日のように雁、鶴の美しい渡りの姿をみましたが、その頃の京都では雁の姿なんてやっと動物園で見る位だったものです。幼い当時の子供達が口ずさんだ「雁、雁渡れ、竿になれ、鍵になれ…」と唱った歌も現代の子供達には全く信じられないお伽噺じみた夢物語のようです。
 私の子供時代は野鳥に恵まれた市内東北部の吉田山で過ごしました。私の伯父に小鳥好きがいて霞網を持って来て家の庭に張って四十雀、山雀、柄長などをたくさん捕っていました。囮は全く使わずに勝手に小鳥が網に掛かるのが不思議でした。中学生の頃には小鳥に興味を持って何故囮なしで捕れるのだらうかと研究してみると、四十雀の群に山雀、柄長、菊戴が混成した一群で毎日同じ時間にきまって私の庭にやってくるのです。この現象を調べてみると吉田山から谷をへだてた真如堂、黒谷附近にかけてがこの一群のテリトリーで毎日同じ経路を辿って循環しているので、丁度私の家の庭がその通路に当たっているのでした。伯父はこの事を知っていて通路に網を張って捕っていたのです。
 冬になると裏山の芒原に頬白がチキチンチンと啼きながらたくさん終日餌を探していましたし、便追がチョコチョコとこきざみに忙しそうに歩き廻ってチィーチィーと鳴いている姿も毎日見られました。あとり、まひわが群れてくる頃には高はごと称するとりもちを高い木の頂上に取りつけてヒヨヒヨヒヨと口笛を吹くと上空をとんでいた群が急に高はご目ざして降下してとりもちについてブランブランと脚を上にぶら下がって捕れるのを見るのも愉しい遊びの一つでした。庭の南天の実が真赤になって雪が積もる頃に紋つき鳥(当時私達はじょうびたきの雄をこう呼んでいました)がきて胸を張って体を前後に動かしながらヒッヒッカッカッと啼いて人が近寄っても余り逃げない人なつこい鳥でした。
 梅花の頃には目白が群れで来て梅の花をたんねんにつついているのを見たことがあります。春天には鶯(うそ)が稲荷神社の桜のつぼみをついばんでいたことと、雀より大型の頭に冠の有る鳥が群れで来ては落葉した椋の木の上に鈴なりに止って何とも想い出せない声で啼いていたのを今に思うと連雀だったと思います。
 後一条天皇の御陵地内の下生の中をかっちん(白腹鶫)がツゥーツゥーカッカッと鳴いて地上の虫を探している姿が想い浮かんで来ます。三月頃になると決ったように鶯が一羽美しい声で囀り出します。母がこの鶯は毎年同じ調子の同じ声で啼くからきっと毎年来る鶯は同じ鳥だよと教えてくれました。
 初夏の頃には御陵の森に五位鷺が幾百羽と集って夕方になるとグァグァグァグァと騒しい位だった事も想い出の鳥の一つです。こんな想い出の中にも、ほととぎす、かっこう、などの鳴声は一度も聞かなかったようですがこれも鳴声の知識がない頃の事で啼いていても知らなかったのだらうと思います。その頃から三十年経た今は吉田山も人家が建って住宅地となり、緑の木々も荒れ果てて下生の一本もない淋しい状態に変りました。凡てが遠い昔しの夢のような事です。文化の発展に伴う自然の破壊はどうにもならないことなのです。

◆28年度行事回顧   

1月 鳥談会(明治喫茶店)
2月 宇治川のオシドリを見る会
3月 満州の鳥を研究する会(幹事伏原氏宅)
4月 NHK録音比叡山の鳥のテープレコードを聴く会(河道屋喫茶店)
5月 比叡山探鳥会
6月 鳥談会(京都ホテル)
7月 木曽薮原探鳥会
8月 英国の鳥のレコードを聴く会(京都ホテル)
9月 嵯峨野の虫を聞く会
10月 大台ケ原の鳥のテープレコードを聴く会(京都ホテル)
11月 琵琶湖に鴨を尋ねて(予定)
12月 洛北貴船にて忘年会(予定)
秋の断想   安達 寛

 富士の兵さんこと、高田兵太郎翁の物故された時の話である。「兵さんの墓は、毎年四十雀の巣喰ってくれるやうな墓にしたいね。穴のぽつぽつあいた石の墓に……」新墓を訪れた白秋はさう述懐したさうである。さうださうだと、同行の中西悟堂氏は賛意をこめて評してをられたやうに記憶する。故人への詩人たちのさゝやかな思慕の情を伝へる美しいエピソードでもあらう。
 が、正直のところ、私はこの話をきいて些か辟易するのである。仮令死者はもの云はないにしても、故人のひたすらな眠りを三者の凝りすぎた趣向で妨るやうな真似はどんなものであらう。死は最早生の続きにはなく、残されたもののレクイエムは先立つものを呼びもどしはしない。
 堀辰雄の作品の一節に、軽井沢の山荘か何処かで、絶へず死の影に対合ふ厳しい氏の思考のまはりに啼きさはぐ赤腹の声に「暫く静かにしてもらへないものか……」と希ふ氏の弱々しい横顔を浮上らせる底のものがあったやうに記憶する。かうした実感の方が時に私を素直に肯かせるのである。
 その堀さんは、終戦の少し前から浅間山麓の追分村に移り住んで、多恵子夫人のみとりで孤独な闘病生活を続けて居られた。その頃私もそれとなく病状を気遣いながら毎年その美しい村を訪れるのを例としていた。
 夏もすぎ、避暑客の人影も消へて山荘の窓が板で固く釘付けされる頃になると、その村は婚礼の厚化粧を洗ひ落した新妻のやうに新しい息吹きをとりもどす。
 乱れ咲く松虫草や桔梗などの花々と、山羊と、荷車と、傾いた家並みと、火山灰の小径と、白樺の木蔭と、とほく東へたなびく火の山の噴煙、そして紺碧の空にせり合ふ木々の色どりと……、それらをのせて唯ひたすら村の秋は深まってゆく。
 起きぬけ、一夜にして純白に装ひを凝らした浅間を見出すのもこの頃である。すべてが余りにも整って美しすぎるこの季節に、私は軽い妬みを覚へることすらあった。
 二年前の丁度その頃、宿の主人との問はず語りに鳥の話が出て、中西さんも隣の星野温泉までは時々お越しになるが、あすこよりもっともっと鳥にめぐまれたこの村へは余りお見へにならないと云う。その内僕が中西さんにかはって追分の鳥のことでも書いて、病床のつれづれに堀さんにお見せしますよ……。この村に余り人の入りこむことを好まない私も、その場は冗談ともつかず笑ってすませたが、その機会もないままに、立原道造が夢よりも美しいと唄い、リルケの愛したシャトオ・ド・ミュットをとり囲むスイスの寒村にも似ていると云ふ、明るいがどことなく冷たく澄んだ高原の微風に祝福されながら、堀さんはこの春四十八年の異常に浄化された生涯の幕を閉ぢられた。
 想へばその秋が、堀さんとの最後の出合ひであり、その時頂いた著書の扉に記された「一身憔悴対花眠」の一句が痛々しく胸に甦るのだ。「自然なんぞが、本当に美しいと思へるのは、死んで行かうとする者の眼にだけだ」とも云はれた堀さんの想ひと、この一句を考へ合せるとき、火の山をめぐる信濃の風景が、その頃氏の脳裡に如何ばかり美しく映っていたことだらう。その時こそは、新緑の野辺に啼き暮れる赤腹の唄声も、氏が好んで人に書き与へたボードレールの詩の一句

      Sois belle, Sois triste. (美しかれ、悲しかれ)

 いまはみまかる人の枕辺にさう響いたかも知れない気がするのだが………。

比叡山   大中行々子
啄木鳥のこだまを霧が蔽ひゆく

鴬や霧のはれたる梅の芽に

筒鳥や桧山をわたる夏の霧

筒鳥や青葉若葉の水の邃さ

笹原に朝風ふけば日雀なく

青竜寺
夜鷹なく桧山残照をさへぎれる


小さな話二題   久保忠夫
○ホトトギス
 それは6月9日の事である。夜9時半頃突然ホトトギスの甲高い啼声が聞こえてきた。四、五声聞いただけだったが、声の移動から考へて御所から同志社のあたりを北へ飛びながら鳴いているように思われた。以前から市内でも時々ホトトギスの鳴声に接する事があるとは聞いていたが、実際に家に居ながら聞いたのは初めてであった。ところがその翌日夜十一時半頃、またしてもホトトギスを聞く事が出来た。この日も前日と同様に北に向って飛びながら今度は十声ばかり鳴いたのである。
 6月の中頃であるから渡りの途中とも思われないので、或いは比叡山あたりから夜の京都を観光と洒落たのかも知れない。騒々しい市内の真中でしかも二日続けてホトトギスを聞くのは、ちょっと珍らしいと思ったのであるが、野鳥を愛し野鳥に親しまれている方ばかりであるから、もう何度も市内で聞かれているに相違ないと、フトそんな気がしたのでそれを思うと何だか証文の出しおくれみたいな気がしないでもない。

○ナイチンゲールの音楽
 さる八月の例会で川村先生から英国野鳥を録音した秘蔵のレコードを聴かせて頂いた。その時ブラックバード、ミソサザイなどと共に有名なナイチンゲールの囀りを聴いたのである。その声は女性的な優しいものではなく、張りのある勇壮なものであったが、やはり美しい声の歌い手であると感じた。
 ところがその後ナイチンゲールの囀りを採り入れた音楽をラジオで聴いた。それはイタリアのレスピーギが1924年に作曲した交響詩「ローマの松」で、その第三の場面「ジャニコーロの松」の終り近くにナイチンゲールを録音で聴かせるのである。満月の月光に映える丘の松の梢でナイチンゲールが盛んに歌っていると云った情景で、目を閉ぢていると本当にその光景が思い浮かべられるように感じる。このナイチンゲールの囀りは川村先生に聴かせて頂いたのと同じような鳴き方であったから真実のナイチンゲールであらう。
 ベートーヴェンの田園交響曲などのように鳥の鳴声を楽器の中に用いたものは可成りあるけれど、この「ローマの松」のように本当の鳥の囀りを音楽に利用したのは確かに珍らしい。もし吾々が手近かにナイチンゲールの鳴声に接しようと思えば、この曲のレコードによるよりほかはなからうと思われる。

後 記


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