樹木(きぎ)に吹く風秋めきし晝すぎを遠山かけて渡りゆく鳥
群がりてきらめきつつゆく白鷺は茜(あかね)の雲の生るるあたりへ
雨あとの西空やくる静けさか五位鷺怪異なる声をひびかす
遠空の横雲やけて静かなり越冬つばめその中にきゆ
計り知れぬは人の心となげく夜を近山にして慈悲心鳥なく
稔りの秋も何時しか過ぎ、紅に染むる山々の眺めも束の間に、早や富士の山頂に降雪の見え始め、峯々も白衣に包まれんとする頃深山に棲をしていたミソサザイも人里近く小川の岸や薮の茂みに、物置小屋の薄暗いところにまで飛び廻り可愛い上半身を上下に尾を挙げて何かをついばむ彼らの動作は至って敏捷で殆ど静止する遑がない。雪の積る中で南天の実にたわむれる姿を見せてくれた。
この鳥も再び若葉も芽生える季節ともなればボツボツ啼き始めた哥を山麓に残しながら登上を始め初夏の頃には富士山二三合目附近の森林中で山や谷に響き渡る。彼らの姿にもない大声で哥い暮しハイカーの旅情を慰めてくれる。
路傍の大樹の奥深い場所で構巣するこの寫真もその時の作である。
何時の間にか抱卵から巣立ち間近い雛となり懐中電灯の閃きに驚いた為か五羽の雛は残らず巣外に飛び出して草むらに姿をかくした。そのあと幾度か巣に戻してやったが結局不可能であった。漸くのことで親鳥が舞戻って其の様子に当惑する風情をカメラと共に見守り続けた。草むらの雛を一羽づゝ寫真の示す様に樹上に誘導させて四時間半後元の巣に全部帰ったのは夕刻近くであった。
かくしてさしもに長い日もシッポリ暮れた。(完)
京都野鳥の会は昭和29年度の事業として昨年5月10日愛鳥週間の佳き日を卜して川村先生の古希をお祝いするため比叡山中に先生の記念哥碑を建立しました。
先生には古来稀れとされた70才を越えられて今も猶お元気に私達を指導して頂いていることは誠に慶ばしい次第であります。
記念哥碑の建立については先生は極力反対されましたが私達の意とするところを御了承して頂いて、やっと昭和28年末に発起して会員の皆様を始め全国に先生の教を受けた諸兄姉にこの趣を伝えましたところ多大の御賛同を得て予期せぬ多額の資金が集まり薫風かほる5月10日の除幕式当日は天気晴朗に恵まれ比叡山釈迦堂前にて午前10時から先生を始め遠く全国より多数の御来会と御祝詞・御祝電を頂き百余名の参列を得て盛大に挙行されました。
時ならぬ椿の花をよろこびて
目白友よぶ山かげの寺 多実二
と高さ四尺余の自然石にくっきりときざまれた御直筆の哥はいかにも先生のお徳をしたう自然界の生物凡ての和やかさが表現されているようでさぞかし先生も心からお喜び頂いたことと私達は信じています。
比叡山の在る限り、この哥碑は永久に比叡の小鳥達を訪ねる幾多の人達に温かい何ものかを与えることと思います。私達もこの事を念願として哥碑の裏文も特に“比叡の小鳥に代わりて京都野鳥の会建之”と記して置きました。
比叡山と川村先生。これは小鳥達と川村先生と同じように切れない縁にあるのです。
この比叡山で先生の教を受けた人達は無慮千人を越えることと思います。これに反して比叡の小鳥達が年毎に少なくなることは誠に悲しむべきことです。
戦前に四明頂上に数千燭光の記念灯を設置する計画があった時に小鳥達の生活をおびやかすものとして絶対反対されて中止のやむなきに到ったことも、比叡山の遊覧客に売る鴬笛が比叡の鴬の鳴声が悪くなると案じられて販売禁止を叫ばれたことどもを思い浮かべると懐かしい思い出です。
ともあれ私達は予期せぬ各方面からの御協力はとりもなおさず凡てが先生のお徳の致すところとひとしほ感激しています。
先生の哥碑に苔がむし、さびが出て比叡山にも戦前の頃のように小鳥達の囀がにぎやかに聞ける頃まで益々御元気な先生を比叡山にお迎えしていついつまでも先生のお話しがお伺い出来るように私達一同心から念じています。
公私共に御多端な先生のこと故充分に御自愛下さいますことを、これも比叡の小鳥に代ってお祈り申上ます。御協力頂いた皆々様に厚くお礼を申上げて擱筆します。
山々の百鳥こゝにつどい来て君がいさほをたたへ歌はん
延暦の鐘よりひろく君が名はときはかいはになりひびきゆく
上二首 野鳥の会 津山支部 森本慶三氏
わかみどり比叡の山をどよもせるほぎ哥きこゆあづまぢにまで
上 東京支部 太田八重子氏
尚当日建碑式に参列せられた京都市の谷田太市郎氏(滋賀県大教官)は次の二首をものせられその内山の堂の哥は今秋彦根地区各省公庁リクリエーション大会和哥部会にて第一位賞を受けられた。
山の堂土しめりたる広前に時にせきれい来り小走る
釈迦堂の木立にしげき鳥の声大人(うし)がいしぶみたたふるらしき
若葉薫る愛鳥週間のこのよき日、京都野鳥の会の御発起によって挙げられました川村先生の記念哥碑除幕式に参列させて頂く光栄に浴しましたことを心より感謝いたします。小鳥たちと川村先生、川村先生と叡山、そしてここに哥碑の建立、何というふさわしいことでございましょう。先生の御故郷にあやかる私たちは幾度かこの山を訪れよとお誘いに預かったのですが、今日まで果たしませず、又しても先生に遠路御足労願ってまいりました今、この古き都辺の山頂にたって今日を迎えることが出来ましたことはただ感激のほかありません。
学園をあとに山に野に鳥の哥に親しまれ、鳥達を愛しぬかれる先生のお心はいついつまでもこの哥碑のもとにたたづむ人達の心に通うことを信じて疑いません。
碑に刻まれた哥のことばのそれのように、私たちもまた友と呼びあってこの国に囀りつづける小鳥達を愛してゆきたいと存じます。この企に御骨折頂きました多くの方々に厚く御礼を申上げますと共に、先生には益々御健かにおくらしなさいますよう、この山に巣くう鳥たちの哥がいよいよ晴れやかに人々の心に明るさと温かさとを与えてくれますよう祈って祝辞といたします。
日本野鳥の会 津山岡山代表 井上 立
梅散りぬ庭のびんずい松が枝にのぼりて鳴けり去(い)ぬ日を近み河原鶸の古名と方言(1) 籾山徳太郎
鳴きつれてめじろは過ぎぬ美しき庵主がひとり眺めをる庭(洛北某寺)
めじろ群るゝ椿の林水桶をかしらにのせてくる島乙女(伊豆大島)
三光鳥法明院の杉むらに降りきて鳴きてやがて去にけり(三井寺)
春といへど今津の湖(うみ)は波高く呼びかはしとぶ旅のあぢさし
芹川の並木に鴬の実を食(は)むとことしも来ゐるれんぢゃくの群
朝涼の唐招提寺空晴れてひわ鳴くこゑす松の梢に
あをばづく南大門の喬松(たかまつ)に木瘤(きこぶ)とまがひ日ねもすねむる
夢のごと安土の塔はうかびをり小鷺むれとぶ青田の上に
川岸の柳にいこひ白鷺の日照雨(そばえ)浴(あ)びをる近江野の夏
越の国泊(とまり)のみなと山を近みあまつばめ飛ぶ夏のあかつき
山にかへるみさごの影を見つけたり親不知の海まなかひにして
小舟して十二の橋をくぐりゆけばさきがけて飛ぶかはせみの影(汐来)
秋なれや木犀かほるわが庭にけさしも見たりもずの姿を
秋晴に光る大湖(おおうみ)白髭(しらひげ)のみぎはをあゆむせぐろせきれい
じょうびたき今日(けふ)も籬(まがき)に来て鳴けり敷蓆(しきむしろ)して籾乾す家の
欄干(おばしま)に手拭干して見おろせば山鳩あゆむ湯の宿の庭
びんずいの刈田さまよふ冬は来ぬ小溝の蓼の花散りうせて
ほほじろは櫟(くぬぎ)の山をおりけらし霜田のあぜにちちと声する
ゆりかもめ来島(くるしま)瀬戸の渦汐(うずしほ)にむれて餌(え)あさる冬の暁
これは主としてコカワラヒワの方言であるが、大小で分けて居るものや、北海道以北で蕃殖するものには異亜種も混じっておるであろう。判きり区別し得られるものには小符を付けて置くことゝとしよう。
以上の方言(古名も勿論)は出処から分けて載せる。地方は成るべく詳細を記した。
【1】棲息地の環境より導来したもの
カワラヒワ(札幌市中、山形県飽海(アクミ)郡、川越市、所沢市、埼玉県入間郡・北足立郡・南埼玉郡越ヶ谷町及び大沢町・北葛飾郡、東京都旧郡部、横浜市、山梨県南都雷(?)郡河口村三ツ峠、沼津市、静岡市、静岡県駿東郡須走(スバシリ)村、長野県上水内(カミミノチ)郡戸隠村・南安曇郡・東筑摩郡・西筑摩郡)
カワラヒバ(新潟県下、神奈川県中郡)
カワラヒヤ(秋田県下)
カァラビヤ(高知県下)
カァラピヤ(栃木県安蘇郡依野町)
カワラッビワ(埼玉県入間郡高麗村)
カワラシワ(富山県氷見郡)
カワラシバ(香川県三豊郡常盤村、西條市氷見町)
カワラフィワ(鳥取県西伯郡手間(テマ)村)
カラヒワ(青森県旧南部領、八戸市、盛岡市、岩手県岩手郡、宮城県玉造郡一栗(ヒトツクリ)村・亘理郡、茨城県筑波郡高道祖(たかさい)村、川口市鳩ヶ谷町、松戸市、千葉県東葛飾郡・印旛郡・千葉郡特橋(コテハシ)村附近、神奈川県愛甲郡・高座郡・三浦郡・中郡・足柄下郡、富山県上新川(カミニイカワ)郡、岩手・静岡・福井各県下)
カラヒバ(千葉県長生郡・安房郡、神奈川県中郡、新潟・佐賀・熊本各県下)
カラヒヤ(青森県旧南部領、岩手県岩手郡、秋田県鹿角(カズノ)郡、千葉・神奈川両県下)
カラッピヤ(栃木県安蘇郡依野村)
カラシワ(神奈川県高座郡相模原町、富山県下新川郡魚津町・婦負郡八尾(ハツヲ)町)
カナヒワ(滋賀県高島郡饗庭(アイバ)村及び新儀村)
カナヒバリ(福岡県筑紫地方)
カワラヒバリ(千葉県君津郡、神奈川県相模川沿岸−−後者は稀に)
カワラスズメ(岩手県九戸(クノヘ)郡、岡山県阿哲郡本郷村)
カワラシジメ(山形県飽海郡南遊依村)
カワラゴ(新潟県東蒲原郡、郡山市付近)
カァラゴ(郡山市付近、福島県安積(アサカ)郡河内村付近・田村郡岩江村)
コゥラ(山口県阿武(アブ)郡依々並地方)
ハマスズメ(岡山県浅口郡=セキレイ類にわあらざるか)
ハタケヒワ(兵庫県美方(ミカタ)郡)
ウネドリ(愛媛県下)
ドロヒワ(埼玉県北葛飾郡幸手(サッテ)町付近)
ドビヤ(秋田県仙北(センボク)郡)
マツメジロ(壱岐島初山村)
マツメ(松戸市)
河原に降りておる鶸の類と解釈しても誤っていないと思う。“カワラ”が“カラ”に変化するのは常に見る処で、更に此れの語頭が“カナ”に変るのも同一筆法である。
“カナヒバリ”は、河原の雲雀でわなく、前のカナヒバの終りに不要音が一字添付し、それが別の鳥の名と同じ音となるために如何にもヒバリの名を付けたかのように思はれるけれども其れは当っていない。
次の河原雀、これは“カナヒバリ”とは大分に相違して、単に河原に居る雀と素直に受入れて好い。“カワラシジメ”その訛音。
“カワラゴ”“カァラゴ”、共に河原に居るものの意。山口県の“コウラ”も多分同じ意味であろう。
ハタケヒワ=畑鶸、ウネドリ=畦鳥、ドロヒワ=泥鶸、ドビヤ=土鶸 等は地上に降ているものに、マツメジロ=松目白、マツメ=松奴(或は松目白の省略?)は樹上のものに指したものと覚える。
【2】食性より導来せるもの
タデヒワ(『大和本草』)
タテヒワ(『本朝群禽和名分類』)
タテヒバ(福岡県田川郡彦山村・筑前地方)
アサヒキ(『本朝群禽和名分類』。福岡県田川郡・朝倉郡・三井郡・浮羽郡並びに八米(ヤメ)郡、長崎県西彼杵(ニシソノキ)郡時津村、大分・熊本・鹿児島各県下)
アサドリ(奈良県添上郡・生駒郡)
オノミドリ(奈良県安依郡)
オノミジョ(新居浜市、愛媛県宇摩郡寒川(サンガワ)村・新居郡泉川町附近)
アゾ(栃木県下)
アワズ(富士吉田市、山梨県南都留郡河口村・西湖(サイコ)村並びに中野村、静岡県駿東郡須走村・富士郡上井手村)
ナタネヒワ(宮城県栗原郡若柳町、新潟県北蒲原郡福島潟・長岡地方)
ナタネドリ(三鷹市、愛媛県西宇和郡三崎村)
ナタネクイ(和哥山県下)
オタネヒロイ(宮城県栗原郡若柳町)
オダネヒロイ(秋田県仙北郡角館(カクノダテ)町)
オタネヒロイ(宮城県下)
オタネヒワ(宮城県栗原郡若柳町、新潟県北蒲原郡福島潟・長岡地方)
オダネヒワ(青森県津軽地方)
ダイコヒワ(川越市、浦和市附近)
ダイコヒバ(新潟市)
ダイコンヒバ( 〃 )
ダイコンヒハ( 〃 )
タイコテ(奈良県山辺郡丹波市町(タンバイチ)地方)
ディコクラィ(八丈島大賀郷(オゝカゴオ)村)
ティコクレィ( 〃 )
ディコクレィメ( 〃 )
ディコダネクレィ(八丈島三根村・大賀郷村並びに中之郷村)
ディコダネクレィメ(八丈島三根村・大賀郷村並びに中之郷村)
ドィヤアコダネクリヤアメ(八丈島中之郷村)
ドィヤアコクリャァメ(八丈島中之郷村)
総べて食餌として摂取するものの名(若しくは其の草本の名称)を付けて呼ぶことが多い。
タデ…蓼(蓼科は色々の種類が含まれている)。アサ=オノミ…麻・大麻・苧実(菷(?)麻(イラクサ)科に属する)。
ナタネ…菜種(油菜科の諸種が含まれる)。ダイコン…大根(これも同種ばかりでわない)。アワ…粟。
これから名付けられたもので説明の要るものには少々付け加へよう。
麻引き、これは麻の種子(即ち苧実)を苗圃に播くとこの鳥が群来して加害する。即ち“麻引き”その態を云う。麻鳥・苧実鳥(オノミドリ)・苧実じよ(所?)等 これに準ずる。
“アワズ”は粟雀から来たものであろう。
菜種喰ひ・御種拾ひ・大根種子喰らい。何の種類と云うのでわない、油菜科の中の黄色い花は菜種であり、白い花は大根であることに大雑把にきめて(これも花の無い時や、根の細い時には分らないが)いるが此れは此れでよい。“ダイコヒワ”“ディコクラィ”“ディコクレィ”“ドィャアコクリャァメ”等は総べて大根の種子とあるべき処の、その種子と云う言葉が略されている。
【3】鳴声より導来したるもの
コロヒワ(宮城県宮城郡高砂村蒲生、千葉県千葉郡幕張(マクハリ)町・市原郡市原村惣社・市西(シサイ)村・東海(トウカイ)村並びに海上(ウナカミ)村)
コロコロヒワ(宮城県遠田郡及び宮城郡、川口市鳩ヶ谷付近)
コロコロ(宮城県志田郡松山町、山形市)
コロコロジィ(山形県西田川郡温海(アツミ)村)
コロコロシ(?)( 〃 )
コロコロアオジ(新潟県北蒲原郡)
コロリン(滋賀県犬上郡高宮町)
ゴロリン(滋賀県坂田郡長浜町)
コロリコ(宮城県遠田郡)
コロコロ(山形市付近)
キロキロ(宮城県下)
キョロヒワ(千葉県市原郡)
キョロキョロ(岩手県下閉伊郡)
ケロケロ(青森県旧南部領)
キリキリ(長野県松本平・木曽谷並に伊那谷地方)
キリッコ( 〃 ・ 〃 )
キリスズメ(隠岐列島周吉(ヒキ)郡中村附近)
キリシマ(和歌山県下)
ミイン(茨城県猿島(サシマ)郡古河町付近)
ミィミィ( 〃 )
ミイ(茨城県猿島郡古河町付近)
コママワシ(松江市)
コマドリ(対馬)
大体に於て鳴声そのものに似せているのであるから詳しい説明の必要もない。只“コママワシ”と云うのは、例の屑屋の呼声のような鳴き方を、独楽を廻す時の音に似通へると聞做して。従って“コマドリ”は即ち独楽鳥でなければならない。“キリシマ”も矢張り鳴声から出たものと認めて置く。(以下次号)
今年は鴨の渡りが特に多いそうである。
先頃の新聞に依ると東北地方の一部では、近年にない数百羽の大群に稲田を荒らされて大閉口の由である。お百姓さんには誠に気の毒であるが、我々にとっては実に朗報である。正直の処、やれやれよくぞ御無事でとも言いたい気持である。
鴨と云へば、京都とは凡そ縁遠いように思はれる向もあるが、決してそうではない。厳に鴨川と云う名の立派な川が市の中央を流れて居ることに依ってもわかる通り、その昔は特に縁が深かったことゝ考へられる。尤も、その「カモ」は鴨でなく加茂であると云う説もあるが。むつかしい詮議はさて置き、冬の夕暮れ時、よく市の上空を数羽の群で翔んで居る鴨を見掛ける。恐らくは大宮御所の池を休息所とする鴨の一部であらう。小鴨らしい翔び方である。市電の終点から数丁も離れない深泥池で数組もの鴨が蕃殖して居ることは、会員一同がこの夏確認した通りである。これは軽鴨である。
或るハンターの話によると、終戦後、特に近郊の山間部の小池に降りる鴨が増えたそうである。雪の朝など、この鴨を専門にねらうて歩くハンターのある由、事実とすれば、戦后になって解禁された琵琶湖の湖面銃猟の結果でもあろうかと考へられる。
私は、郷里が知多半島の海岸であるので、鴨とは特に馴染みが深い。冬の内は毎朝、伊勢湾に浮ぶ鈴鴨やキンクロハジロの群をプラットフォームから眺め乍ら通勤電車を待ったものである。終戦の年の冬、往々にして海岸の叢で鴨を手捕りにすることが出来た。調べて見ると全部が飛翔不能である。対岸木曽川尻に於ける米兵の銃猟に傷ついた一部が北西の風に流されこちらの海岸迄たどりつき、叢の中に隠れていたのであらう。何れ助からぬ鴨なので涙をふるって締めて食べた。食料極端に逼迫し、薩馬藷の蔓にすがって生きていた頃なので、これは実にうまかった。家族一同舌鼓を打って賞味したことであった。
私の家から小一里の処に、有名な鵜の池がある。日本的に知られる旭村の鵜の集団蕃殖地である。周囲三丁程の池をはさんだ小山の松林に営巣しているのであるが、辺り一面の松は糞のためにすっかり枯死し、雪景色さながらの眺めである。この糞が良い肥料になるので組合組織で採集して居り、一般人は立入り禁止、勿論禁猟区の指定を受けている。そのためにこの鵜の池は、冬には鴨にとっても絶好の休息所になる。私のよく訪れた終戦の冬には、何日行っても小鴨の大群を見ることが出来た。如何にして栄養を保つべきかと我々等しく苦慮して居った当時のことでもあり、この大群を前にしてなんとかならないものかと真剣に考へたものである。
夏の間に、こっそりと鴨池にしておいたら、これはきっと面白い成果が挙るにちがいないと、いさゝか泥縄式考へに苦笑したこともある。
偖而、本題であるこの鴨池であるが、これは鴨を捕える施設であり、日本独特の鴨の猟法であり、且鴨の習性を利用した極めて興味深い猟法である。以下簡単に説明すれば……。
十月頃、越冬のため、内地に渡って来た鴨は大体その土地に留り、夜間は田圃や小川に現われて採餌のため盛んに活動するが、晝間は安全な湖や池で静に浮び乍ら休息する……と云った習性がある。そこで鴨の渡来する土地に池を作り、周囲を薮や塀で囲んで、静寂の領するまゝにしておくと、鴨の群れは群れを呼び、大へんな数になってこの池に休息するやうになる。これをあらかじめ訓練しておいた家鴨を使って引堀に誘導し、次に述べるような具合に捉えるのである。
本来がこの引堀に、仕掛があるのであってこの引堀は池の周りに放射状に数本作られるのが普通である。巾2m、長さ15m程もあらうか。一端は袋路になって居り、こゝに家鴨を誘ふ餌撒き穴と覗き窓のついた小屋が設けられる。「覗き小屋」と云うのである。引堀と池との間は、鴨が入って来たなれば何時でも遮断出来るようになって居る。
さて覗き小屋で、コンコンと音を立てると餌をもらう可、池で遊んで居た家鴨は引堀に入って来る。仲間の家鴨が移動し始めたことに気付いた鴨は、何事ならんと好奇心?にかられて家鴨に従って引堀に入って来るのである。折をはかって引堀の出口を急に遮断する。引堀の深さは1m以上もあって、巾は2m程しかない。びっくり仰天した鴨は、あわてゝ遁逃しようとするが、小鳥と違ってそうは敏捷に逃げることは出来ない。うろたへてバタバタと舞い上る奴を、あらかじめ引堀の両側に大きなサデ網を持って隠れて居った人間がやにわに躍り出て捗ひ捕えるのである。
鴨にとっては誠に気の毒であるが、人間にとってはこんな愉快なことはないそうである。それに鴨は食べて美味い。売れば高い。
うまくゆくと一シーズンに数百羽もとれるそうである。それかあらぬか、昔の大名は各地にこの鴨池を作り、江戸市中丈でも随分とあったやうである。戦前迄は関東に数ヶ所、関西にも一、二ヶ所あったやうに聞くが、多くは戦時中に廃却或は埋め立てられて、現在では宮内省管理のものが関東に一、二ヶ所残って居る丈である。
この鴨池は現在では非常に貴重な存在であり、宮中に於て内外の賓客を招待される場合にのみ使用されるとのことである。この日本独特の鴨猟には、外国人は大いに驚き、且つ喜ぶそうである。尚且、現場に於てはこれ又結構な鴨料理の宴が催される由であるから、外国人ならずとも喜ぶのは当然と考へられる。
偖而、こんなわけで、非常に結構ではあるが我々とは一寸縁のない話しと考へていたところ、この春の探鳥会の座談に、会員のU大人から、「京都に鴨池を作ったら……」と云う話があった。以来折にふれて、その可能性と価値について考へてみるのであるが、早急の実施は兎も角大いに研究してみる価値は充分にあるやうである。
社会的には、もっと緊急且つ必要な救済事業が山程ある世の中ではあるが、一面愚にもつかぬことに数百万円が投ぜられて、それが不思議でない時代でもある。この鴨池こそ、成功の暁には、唯に京都の観光施設と云ふ丈に止まらず、日本的なものとして万世に問い、後世に誇りうるところと考へられる。
これは単なる思い付でなく、U大人始め多くの識者が秘に考へて居られる処である。敢て積極的に動けないのは相手が鴨であるからである。鴨の鴨になったと笑われることは識者たらずとも閉口である。然し権威ある鳥学者内田博士も戦前の随筆、鴨池の末尾に、京都の観光当局の一考をうながしたいと結んで居られる。敢て会誌「三光鳥」をかりて駄筆を重ねる所以である。
鴨池はせいぜい一丁四方の広さもあれば充分である。京都のような地勢では、山間の渓流を堰き止めて適当な池を作ることも考へられる。池の周りは、鴨の居る期間、一を寄せぬため塀をめぐらす必要があるからついでにこの区域を徹底した野鳥の養護区にするのも面白い。巣箱、給餌台、水浴台等を備へて多数の野鳥を誘致し「小鳥の楽園」にするのである。
尚又、場所によっては、池で虹鱒等の養魚も可能であろう。夏の間、ごく自然的な環境のもとで、爽快な鱒釣りが出来るとなればその観光的価値は一段と光彩を放つものと考へられる。これらのものこそ、山紫水明の都市京都にふさわしい施設ではなからうか。京都及びその将来の観光のために敢て一筆啓上する次第である。
以上題して鴨池閑談、関係方面の諸氏に是非一読お推めを乞う。(以上)
1月 新年会(京都ホテル)
2月 宇治川ラインのオシドリ生態観察
3月 鳥談会(京都ホテル)
4月 川村先生の外国産鳥類に関する講話(京都ホテルに於て)
5月 川村先生古稀記念歌碑除幕式(叡山釈迦堂前)
6月 叡山探鳥会
7月 深泥ヶ池付近にヒクヒナ、タマシギをきく
8月 鳥談会(京都ホテル)
9月 嵯峨野の虫をきく会
10月 平安京の鳥を探る
11月 洛北貴船より芹生峠捕鳥場見学
12月 琵琶湖畔に水鳥観察(兼忘年会)
京洛内外の鳥名を冠した地名その他を、都名所図絵から拾ってみることにした。
今は昔、何れもそれぞれの鳥に因んで命名されたのであろうが、その大部分のいはれは、すでに知る由もない。然し、今では只地名として残っている場所にも、案外昔は鷺のコロニーがあったり、白鳥が渡来したのであろうと、想像してみるだけでも、野鳥ファンにとっては結構楽しいものである。
鳥に縁なき衆生からみれば、実に御苦労千万な話であるに違いないが。
鵠 坂(クグイザカ) 追分の東、今平地にして坂なし、神無の森の北にあり。
鵺(ヌエ)の森 下岡崎南の端西一丁計り、田畑の中にあり。一堆の丘上にして、上に樹木なし。
白鳥越(シラトリゴエ) 狸谷不動の東にあり。上古の往還道にして、叡山、東坂本、穴太村へ出る。
鷺の森 曼珠院の西にあり、平林にして中に社あり。祭神鬚□(シュダ)天王。
千鳥渕 嵐山小督桜の西二丁ばかりに巌あり。
鳥辺山 北は清水坂、南は小松谷につゞき、昔より諸宗の墓所あり。
鴬の池 永観堂の中にあり。
鷹が峯 洛北にあり。
鳩の峯 八幡にあり。
鴬の滝 瓶原(ミカノハラ)の郷中西村の入口にあり。
鵜飼瀬 宇治浮舟嶋(橋より二丁ばかり川上)より半丁程南をゆう。
鷲峯山(ジブセン)
久世鷺坂 宇治田原の西也。此処はいにしえの大和街道にして、久世村は広野新田の南にあり。
隼 社(ハヤブサノヤシロ) 四条坊門千本通の東、圃(ハタケ)の中にあり。古へは社頭巍々たり。今小祠となる。
鷲 尾 古へ鷲尾中納言隆良卿の山荘。今の高台寺の地にありし也。かゝる故に高台寺の山号を鷲峯山とゆう。
更雀寺(キョウジャクジ) 四条通大宮の西にあり、浄土宗、中将藤原実方朝臣勅をうけて、哥枕の為に吾妻に趣き、陸奥に於て卒す。其霊、雀となって此寺の森に棲むと、住主観知法印の夢に見る。故に雀の森とも称す。
(註:実方終身蔵人頭に補せられざるを怨み、死後雀となりて殿上の小台盤を喰ひたる事、今鏡に見ゆ。これより入内雀の名称がおこったとゆうから、更雀寺は入内雀発祥の地?といえよう。)
雌鳥(メンドリ)社 出谷村の北にあり。古へ惟喬(コレタカ)親王、田○し給う時、寵愛の雌鳥(註:鶏でなく蒼鷹(オゝタカ)のことであろう)此処にて斃し也。故にこゝに祠を建しとゆう。
鴛鴦(オシドリ)池 此地は衣笠の山を覆ひ、南は遙にひらけて、一陽来復より温気めぐること早し。池の面には水鳥あつまり、玄冬の眺をなす。是を竜安寺の鴛鴦として名に高し。
附 記
水鶏橋(クイナバシ) 伏見区竹田の鴨川に架す。昭和29年8月27日午前10時より渡初め式があった。(産業経済新聞所載)
松虫や星ちりばめし嵯峨野にて
嵯峨面をひさぐ店あり桔梗そへ
送られつ交はす言葉も虫の闇
松虫や松影しるくふみながら
去来の墓
虫すだく籬めぐりてまかりゆく
私がアオマツムシを京都ではじめて聞いたのは昭和11年の秋、処は若王子の疏水端であった。サクラの梢の上で、ルイ、ルイ、ルイと金属性の声をはりあげてなく虫、それはアオマツムシより外にはない。たまたま京都へお出になった大町文衛さんにお話したら「さてはもう箱根山を越えて西下しましたかな」とのお答え。
この虫は中支、南支、南洋のものだが、松村松年氏によって学名を与えられたのは東京産の標本によって大正6年のことであった。しかし日本への渡来は更に古く、明治42年に東京島津邸の庭で鳴いていたものが捕えられて飼育されたことがあったというのがおそらく日本での一番古い記録だと思う。大正の間に関東地方には既に相当広くひろがったが、まだ日本の虫として取扱はれる程ではなかった。昭和7年刊の日本昆虫図鑑第1版や昭和14年刊の原色日本昆虫図説というような日本の代表的な昆虫図鑑にもこの虫が収録されていないのはこれを物語っているといえよう。
昭和18年に満州での軍隊生活から解放されて五年ぶりに京都の秋を迎へた私はアオマツムシの意外のひろがりぶりにおどろいた。北白川、銀閣寺、金閣寺、嵐山、御所、山科、山崎とほとんど全市にひろがっている。一般のコオロギ科の虫が石の下や土の中の穴に住んでいるのと異り、樹上生活でしかも翅でとぶことのできるのが分布を広めるのにあづかって力があるらしく思われる。その他日本の気候風土が彼に適していること、おそらく天敵のいないことなどがこの大繁殖の原因をなしているのだろう。
終戦後の京洛でのふえ方はいよいよめざましく此頃ではいささかもてあまし気味である。九月中頃の夕ぐれ時、省線新京阪の天王山あたりの山ぞひ、また嵐電の車折あたり、わだちの音ももぎれず満員電車の車窓の中にまでひびいてくるのはこの虫の音ばかりである。広沢、大沢から嵐山あたりの嵯峨野の虫もその声量に於いてアオマツムシが第一位、彼に匹敵しうるものはクツワムシのガチャガチャ位のものであらう。
「嵯峨の虫いにしへ人になりて聞く 野風呂」
しかしその声は虫めづる姫ぎみや虫えらみの殿上人の聞いたそのまゝのものではない。私にはこの虫の音が江戸っ子の巻舌の江戸なまりのように思われてならない。しかし十月も半ばすぎて夜寒の頃になるとその音は丸味をおびて鳴き盛りの頃とはまるで別の虫を思わせるような落ちついた調子をおびてくる。アオマツムシもまたすてがたいと思うのはこんな折である。
大阪近郊千里山、箕面あたりへ入りこんだのも大体京都と同じ頃であった。現在まだこの虫をみない処女地の一つは南大阪である。北畠から帝塚山あたり、彼らのすみかとして恰好のサクラ並木やアオギリなどの立木のある庭園があるにもかゝわらず、私はその付近で秋の日を暮しても、いまだかつてその音をきかない。しかしやがて現れるのもこゝ数年のうちであらう。私は期待と関心をよせて年毎の秋を迎えている。
アオマツムシはアメリカザリガニやウシガエルとちがって害らしい害もしないのでその繁殖は大した問題にならぬまゝに今なお盛んにひろがりつつある。私はこの新来者をスズムシ、マツムシなどと共に日本の秋の虫として心よく受入れて、その喨々として秋の夜の空気をふるわす哥声を愛でたい。
今まで自宅付近で観察し得た野鳥の記録を昭和14年6月「野鳥」に発表したのと重複する点もあるが、まとめて見る事にした。場所は下鴨南野々神町の自宅から宝池、深泥池一帯の、畑地、水田、山の雑木林、沼等である。はじめて鳥に興味を持った中学校上級の頃から始まりその后東京に学生生活を送ったり、軍隊に行ったり、その后も継続観察は行って居らず、記録は大へんに断片的である。第二号の安達寛氏の記録には及ぶべくもないが、私なりに具体的な記録を拾ってみた。
○水辺の鳥
コチドリ 松ヶ崎配水池の南側の湿地を埋立てた砂礫地やその付近の水田に時々見られる。加茂川北大路橋付近で鳴声を聞くこともあった。
カワセミ 深泥池・宝池・その他の北の方の小川等で見かける事もあるが、数は割合少い様である。
ヒクイナ 昭和11年9月9日夜10時頃、自宅の室内に飛び込んで来たのを捕獲した。動物園に持って行かうかと思っていたが、翌日学校から帰ってみると死んで居たので、剥製にして今でも持ってゐる。
タマシギ 軍隊から帰った翌年(21年)の初夏から夜間コーコーと鳴く声に気が付いていた。或はタマシギではないかと思って、その後になって鴨沂高校定時制の生徒によく野鳥観察の指導をして居られた正垣氏に聞いてみたが「さあタマシギなら珍しいよ」との御返事。25年であったか、青竜寺で野鳥の会の方々にお会ひした時、西京極付近でタマシギが鳴くとの事を聞いて、宅の付近のも或はタマシギかも知れないと思った。今年5月30日に日没頃江州の真野へ行き、畑地や苗代の付近でコーコーと鳴いてゐる鳥の形態や飛んでゐる鳥をタマシギと確認し得て、いよいよ確かなものとなった。ちょうどその5月30日には、晝頃自宅の横で伊藤氏にお会いし今そこでタマシギとコチドリを見た、とお聞きした。その后又安達氏からも、宝池の東北の方でタマシギを聞いたとのお話もあった。
なお今年タマシギの鳴声を最后に聞いたのは8月17日である。
シラサギ 今までは余り見なかったが、最近シラサギの増加と共に、この付近でもちょいちょい見る様になった。特に今年5月27日には深泥池で20羽内外の群を見た。よくわからないが、チュウサギではないかと思う。
アヲサギ 21年の4・5月頃深泥池でよく見かけた。
バン これも21年の5月初旬深泥池で観察した。水草の新緑を背影にした黒い体と赤い嘴とが印象に残る。
オホバン 13年1月27日、深泥池の東北隅で水面を滑走してゐた黒い鳥、白い額板が目立ってゐたからオホバンに違いない。
マガモ 21年4・5月には深泥池で2回、自宅の上空を飛んで居たのを1回、最后には7月3日に松ヶ崎配水池の南側湿地で採餌しているのを目撃した。恐らく繁殖してはいないであらう。
キンクロハジロ 宝池で11年の3月のはじめに単独で浮いていたカモと、22年の3月31日8羽群れて浮いていたカモは確かにキンクロハジロである。昨年12月の例会の時、びわ湖で観察したのと同じであった。
ウミアイサ 本年6月20日、宝池に単独で居た見慣れない大きな鴨、飛び立つ時見れば嘴と脚が淡紅色であった事、頭部が緑と黒の中間色であったこと、それに羽冠がないと思ったので、カワアイサだらうと思っていた。所が安達氏と同じ頃観察して居られて、確かに羽冠があったからウミアイサであるとのお話であった。
タシギ 松ヶ崎配水池の南側の水田等で見られる。
○樹林の鳥
コゲラ 11年の3月末に松ヶ崎配水池の山で一度目撃した事があるだけである。
カケス 秋冬の候に鳴声を聞くことがある。春夏の間は居ない。
クワクコウ 以前はこの付近では稀にしか鳴声を聞かなかったが、今年等6月頃母によると晝間殆んど毎日鳴いてゐると言う。
ツツドリ 今年6月深泥池附近の山で鳴声を聞いた。13年の4月にも宝池の北の方で聞いたことがある。
ホトトギス 近年6月頃早暁、偶然目が覚めて居る時、毎年一回程鳴き乍ら飛び過ぎ行くのをきく。
サシバ 4月頃付近の山林で目撃する事がある。
ルリビタキ 11年2月6日、京都では稀な大雪の日宝ヶ池の北の方の雑木林で一度見付けた事がある。雪の中で見るるり色の背部と脇腹の橙々色は美しいものであった。
キクイタダキ 以前は冬期よく見かけたが最近見かけない様である。
コジュケイ 小生が中学生の頃は滅多に鳴声を聞かなかったが、その后大へん殖えたと見えて、終戦の翌年等春から夏へかけて、盛んに鳴いた。処がその翌年から急に少くなったが、それでも屡々鳴声が聞える。
○渡りの時期と思われる事
コシアカツバメは此の付近では8月中旬以降によく見受ける。はじめて気が付いたのは、10月31日に宅の付近に群れ飛んでいた時であった。今年も8月31日に宝池の上空に推定5・600羽が群れて居り次第に東の方へ移動して行った。9月19日にも自宅の東の畑地に少数が群れてゐた。渡りの前の集合でもあらうか。
ノビタキ 12年4月1日 東幡枝の東の方の小川の堤防で単独のを目撃した。渡りの途中であらう。
レンジャク 11年の3月中旬には自宅の付近畑地で、22年の4月3日には、府立一中の校庭でレンジャクの群れを見たが、キレンジャク、ヒレンジャクの何れとも区別し得なかった。
此の外、11年と12年の秋には自宅の直ぐ傍らの木立(今はなくなった)で野性化したブンチョウの群に出会った。季節によって移動するものかどうか、興味のありそうな事である。
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以上26種の外、ゴイサギ、サゝゴイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カイツブリ、ヒヨドリ、シジュウカラ、エナガ、アヲバヅク、ホホジロ、ツグミ、ウグヒス、モズ、ジョウビタキ、スズメ、ヒバリ、トビ、ツバメ、があるが、別に特記する事もない。
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此の小生の記録には、鳴禽類の中で当然見られるべきものが含まれていないのもある。特に冬鳥として此の付近に出現すべきものの観察が出来ていない。此の点は今后皆様の御指導によって勉強致したいと思います。
去る1月15日、京都ホテルの例会席上、幹事の伊藤さんから、最近、御所の同志社側の森の樹上に数十羽のオシドリが群れているのを見かけたという報告をきいて、そのときはまさかとは思ったが、伊藤さんの言葉には間違いはなかろうし、といって京都市内の真中で然も余り水も無い所にオシドリがいるということは、木に拠りて魚を求むるにも似た事柄だが、よく考へてみると、御所の中にもオシドリが棲息できるような池が全くないこともない。例えば旧九条邸趾の池があるが、これは余りに人の往来がはげしくて問題にならない。そのほかに考へられる場所は大宮御所(仙洞御所)の中にある池である。続・京都周辺の鳥 安達 寛
こゝならば全くの安全地帯で、オシドリが晝間ゆっくりと休息できることは確かだらうと想像してみたが、何よりも第一に事実を確かめなければ問題にならないし、翌日は幸い快晴に恵まれた日曜でもあったので、午后2時頃一人で観察に出かけてみた。
先づ、堺町御門から入り、一応九条邸趾の池をしらべたが、こゝは案の通りカワセミ一羽を見ただけの淋しさであった。それより橋を渡り、建礼門に向って歩き乍ら、その間にビンヅイの声に耳を傾けつゝ東に向って行こうとすると、突然、大宮御所の高い松の梢をかすめて、少くみても、3〜40羽のオシドリが盛んに飛翔しているではないか。
やがて5・6回の旋回の后、その群は大宮御所の中に降りて仕舞った。
これで一応予想通り大宮御所の中に棲みついているということは確実に証明されたが、伊藤さんの観察された地点も念のため確かめておこうと思って、さらに歩をのばして、明治天皇御生湯の井戸である祐の井の付近をしらべてみたが、キジバトが一羽飛立ったきりで、大木の梢は至って静かなものであった。
而し、ふとこゝで気付いたことは、この辺りに樫の木の非常に多いことである。
オシドリは一名カシガモと呼ばれる様に、その食餌として樫の実を大へん好むものであるから、伊藤さんが見られたときは丁度採食の時間であったのかも知れない。
すると、地面にはきっと樫の実が相当落ちているだろうと考へて、付近の樫の木の下をさがしてみると、またゝく間に十数個の実が集ったので、これを拾って証拠物件としてポケットに収めた。
これでとにかくオシドリの食と住の問題は解決したわけである。衣の方の問題は彼等にとっては人間程切実ではない代りに絶えず住居の安全性ということを求めている。
この点でもオシドリは人間よりも大分賢かった様な気がする。一般人の立入できぬ禁苑の地、この様な安全な場所が京都市内にもないと云うことを先刻すでに承知していたのである。こゝでゆっくり晝寝をむさぼり、空腹をおぼえると、晝間なら人の立入らぬ今出川附近の森の中で樫の実を食べ、夜間ならば遠慮なく御苑内のどこえでも行けるのだから、一冬中余り遠出しなくても食料の心配もなく過すことができるわけである。
オシドリも生きんがためには我々人間以上に真剣である。京都の野鳥の会員が今年になってはじめて御所にオシドリを発見して驚いている馬鹿さ加減を、彼等は多分今頃笑っていることだらうし、案外古くから毎冬渡来していたのかもしれない。
兎に角、彼等は実に良い越冬地を発見したものだと、誰に話す相手もなく独りで感心し乍ら、再び帰りには同じコースをとってみたが、すでに大宮御所の中は只松風の音ばかり、定めし今頃はオシドリ達の午睡の時間かなと思うにつけても、正門では真正面に西風を受けて立番する皇宮警察官の姿を見ては、オシドリも人間を交替で警戒に立て乍ら晝寝するとは、仲々横着なことをするものだと感心すると共に、不知不識の間に一冬中オシドリのために護衛していてくれる皇宮警察官に対し野鳥の会員を代表して心中深く謝意を表しつつ我家へと向った。
「三光鳥」2号に掲載した京都周辺の鳥の分布表は、予めお断りしたように、京都産の全鳥類を網羅したものではなく、京都付近の最も一般的な地域の鳥のみを短期間に整理掲載したゝめ、記載もれの鳥も多く、その上春秋の渡りの絶好の観察地たる京都北山地域を含まぬため、種類に於て甚だもの足りぬものとなったが、この地域は、その広大さに於ても充分な観察結果を発表するには猶時期尚早と思へるので、とりあへず前記の表に記載もれの分のみを追加しておく。
《追加》
比叡山
〈雀科〉ホゝアカ、マヒワ、イスカ
〈鶫科〉コマドリ
〈岩○科〉カヤクグリ
〈鷲鷹科〉ハチクマ
〈鷺科〉コサギ(山麓)
京都市街地
〈椋鳥科〉コムクドリ
〈四十雀科〉キクイタゞキ
〈燕科〉セウドウツバメ
〈鷲鷹科〉ハイタカ
〈雁鴨科〉ヲシドリ、コガモ
京都近郊
〈椋鳥科〉コムクドリ
〈雀科〉ホゝアカ、マヒワ
〈鶲科〉ノビタキ
〈鷲鷹科〉ハイタカ
〈千鳥科〉ケリ、タゲリ、ムナグロ
〈鷸科〉タマシギ、クサシギ
《訂正》
△2号本文中、伏原氏報「ベニバラウソ」とあるのは「アカマシコ」の誤り。
△比叡山に於て繁殖する鳥に次のものを追加する。
キセキレイ、ヤマガラ、エナガ、ヤマシギ
《雑記》
2号の分布表中、例へばコムクドリ…秋等とあるのは、秋にしか見られぬと云う意味ではなく、筆者自身の記録しか持たぬ意味で、記録に忠実すぎる余り、間の抜けた感じがないでもないが、誤解のないようお願いしたい。
× ×
終りに、2号、及び本号の諸鳥のなかから珍しいものを拾って、皆様の観察の手引にしたい。
△ケリ この鳥については、伏原氏が「野鳥」に報告されているので多言を要しないが、昨年冬洛南巨椋池干拓田に於て記録されたもので、筆者の観察では久世郡御牧村付近よりも干拓田にかけて4・50羽の滞留を認めてゐる。これが越冬地かどうかは今后の観察に待たねばならぬが、本年は2月末日現在その姿を認めていない。(最も充分な観察回数をもたないので断言は出来ない)
△タゲリ やはり上と混群して見られるもので、これは今年も昨年11月末より現在までに多数渡来している。地域は御牧村から大久保方面を中心として、少数は東の宇治木幡方面にまで拡がってゐる。本年2月17日に御牧村村野付近でその一群を望遠レンズで捉へたものを後で調べたら80羽の姿が認められたが、この時同時に更に多数の別の二群が、宛ら蚊柱の立ったやうに黒い塊となって中空に舞っていたことから察すると、この付近に於て少くとも3・400羽のタゲリが越冬するものと思われる。
△タマシギ 洛北松ヶ崎水源地南麓の水田に於て昨年度は春から夏にかけて三番ひの声を記録、同じく岩倉方面の水田でやはり同数の鳴声を確認したが、一度その姿を認め得ただけで卵巣は未だ見てゐない。昨年7月の例会に参加された皆様はその鳴声を充分にお聞きになった筈である。
△ヒクヒナ 上加茂深泥ヶ池にて、初夏の候鳴声を聞く。昨年7月の例会の折にも筆者はその一声を耳にしたが、6・7月の頃、朝か夕方独りか二三人で出掛けられたら間違いなくその声を楽しめよう。
△オシドリ 本号伏原氏の記事にある如く、京都御所に冬期滞留する。その数は30羽内外と思はれるが、或はもう少し居るかもしれない。
△ハチクマ 昨年7月7日叡山青竜寺上の墓地上空で一個体目撃、叡山でこの季節に認めたのは初めてで、珍しくもその鳴声を聞けたのは幸ひであった。
△ウミアイサ 昨年6月初旬より同25日午前まで宝池に1羽♂飛来、余り人怖ぢもせず、25日午后、高田氏と同氏のコレレと望遠を煩して出掛けたが、午前中まで居たらしいが既に飛去った后で、以来姿を見なかった。時期的に珍しく思ったものの一つである。
△2号記載表中、市内でコノハヅクとあるのは、実は20年9月8日、自宅(当時川端丸太町東入)の庭で聞いたもので、当日は曇時間は午前2時38分頃加茂川方面より鳴き乍ら飛来して同45分頃再び同方面へ飛び去ったもので、庭へ来た時は約3秒間隔に鳴き続けていたもので、この時期にこの場所での見聞としては珍しいものであった。
猶当時は終戦直后のことゝて、街全体が非常に昏く静かで、殆ど灯火管制の延長のような状態であった事を附加へておく。
木も山も雪にうづもれている。ウスリーの冬も4月に入ると、吹雪く日も少なくなり、寒さも多少ゆるみ、日当りでは積雪の表面も溶け出し、目には春の気配を感ずるものはないが、なにか太陽にあたたかみを身辺に、おぼえる様になって来る。
三名ないし五名のグループ毎に別れ、原始林から分け入り、見上ぐるような大木を、伐採する作業に従事するわれわれにとって、200瓦の黒パンと塩鱒一きれで、焚火を囲みながらの晝食が一番たのしい時である。
焚火の火でまわりの雪もとけ、こゝろよい暖かさにまどろむごとく、伐り倒した木幹に凭れかゝり体を休めていると、「チチッ、チチッ」と鋭い声をだしながら、青色で胸の黄褐色の小鳥が温い火を慕うかのようにやって来て、延ばしている足先やら、仆された木の樹肌を啄んだりしている。手を延ばしてつかまへようとすると、敏捷にころがるおうに逃げ、二三回おへどもわずかに位置をかへるのみでたち去ろうとはしない。人をおそれる様子はなくかへって人なつこいように感ぜられ、子犬を相手にしているようなものである。ひょこひょこと逆立ちするような姿勢であちらこちらと止まり、容易に立ち去らうとしない。
樹肌のあいだにひそんでいる虫を、啄いばみにやって来るのだろう?まこと可愛いゝものである。
北鮮平壌郊外三合里ヶ丘のゑんゑん数里にわたる塹壕の構築作業をはじめとし、遠く西の果て、中央アジア、カラ、クームと称せられる大砂漠での晝夜をわかたぬ運河施設作業の数年、吹雪と厳寒に斗いながらの原始林にいどむ伐採作業等々。流離幾年、荒さぶ心にもうるほいが湧いて来る。ふと故郷に還へりをまつ妻子の顔が、つぎつぎと呼びかけるようにうかんでくる。必ず丈夫な体で帰国をせねばならない決意をあらたにするのである。それから毎日毎日のきびしいノルマに追はれる生活にも希望が持たれ、小鳥の姿をみていると、妻子がすぐそばで励ましてくれているように思はれる。
小鳥との生活が幾日かつゞき4月も下旬になると、急に暖かくなり何ヶ月ぶりでの雨も降り、一面を包んでいた雪も消え、山野が甦へる春のおとづれとともに小鳥も我々からいつしかはなれて行った。
- 本号は当初29年秋に発行を予定していたところ、編集者の健康上の理由や其の他の事情により思はぬ遅延を来し、早くから寄稿せられた方や本号を待ちわびてをられた会員諸氏に対して、改めて深くお詫びします。従って中には季節はづれの作品もありますが、以上の理由を御明察の上、御寛容の程おねがいします。
- 本文にも紹介したやうに、昨年春のバードウィークを期して川村多実二先生の古稀記念哥碑除幕式が在洛の会員知名の士をはじめ全国より遠路入洛せられた同好の士百余名の参集を得て、比叡山釈迦堂前広場で盛大に挙行せられ、この途に生涯の学究を傾けられた先生の御感慨はもとより、師弟その処と想ひを一つにしての山上の集ひは、爽やかな新緑の饗宴に相応しい美しい叙情の一コマでもあった。
- 巻頭に、今回も高田氏の貴重な生態写真を飾ることが出来たが、本紙が謄写刷りなのが幸ひして反ってナマの印画新鮮さを楽しめるのは喜ばしいことであり、今后もこの欄の生態写真掲載を続ける予定をしている。此の外、会員の手による作品も追々追加してをり、巨椋池干拓田のタゲリや御所のオシドリ等も既にネガに収められている故、追って発表出来ることであらう。
- 又、籾山徳太郎氏より特別の御寄稿を頂いたが、紙面の都合上二回に分載せざるを得なかったのは残念であった。氏の細密な採集に敬意を表すると共に次号を楽しみにしたい。