京都野鳥の会/資料室4

『三光鳥』  第4号(昭和31年5月10日発行)
仙洞御所のをしどり   北島瑠璃子

をしどりが二声しづかになきつげりしぐるる御苑に吐く息白く

をしどりの舞ひ降りる松のしぐれたり御苑はすでにふかきくれいろ

わがのぞく望遠レンズにうつりゐるは愛しつがひの冬のをしどり

仙洞御所の池畔をめぐる一升石並うつくしくしぐれて静か

貫之が愛でしと言ふ古木生きつぎて梢に黒しむくどりの群

河原鶸の古名と方言   籾山徳太郎
《4》羽色より導来したもの
アオドリ(広島県豊田郡大崎上島)
アオジ(仙台附近、宮城県宮城郡七ヶ浜(シチガハマ)村、新潟県北蒲原郡福島潟、鳥取県西伯郡境町、日野郡石見(イワミ)村)
アオジコ(宮城県栗原郡)
アオンチョ(香川県下)
アオンジョ(奈良県宇智郡(?)、徳島県三好地方)
アオンジョオ(広島市、広島県佐伯郡)
アオショオト(岡山県阿哲郡本郷村、広島県沼隈郡及び世羅郡)
アオジナ(山口県阿武郡佐々並地方)
アオス(栃木県下)
アオシトト(仙台附近、山形県西置賜郡)
アオシトド(秋田県下)
アオシトコ(秋田県仙北郡)
アオストト(岩手県西岩井郡)
アオスドト(宮城県下)
アオシドリ(秋田県仙北郡)
アオシドリコ(秋田県仙北郡)
アオカシラ(宮城県下)
キロンチョ(奈良県生駒郡)
キイロコ(宮城県桃生(モノフ)郡前谷地(マエヤチ)村)
キショロコ(宮城県桃生郡大谷地村)
モンツキドリ(滋賀県神崎(カンザキ)郡山上村、蒲生郡市原村)
ジャノメ(横須賀市)
テリカワラヒワ(地名不詳【大】)
テリカワラ(地名不詳【大】)
 この方言の中で頭に“アオ”の附くくのわ、アオジ(青鵐)から出たものが多く、現在でも同じ鳥だと見て居る人さえある。
 黄色な鳥であるから“キロンチョ”や“キイロコ”があり、更に黄な衣裳を着けて居る意味から“キショロコ”がある。
 紋付鳥と蛇の目とわ、この鳥が飛ぶ時に美しい黄色い翼紋を顕はすので名附けられている。(前者はジョオビタキとブッポウソオとに、後者はヨシコイにも同名がある。)
 “テリカワラヒワ”又は“テリカワラ”と云うのわ、オオカワラヒワの事で、古い飼鳥書に「カワラヒワに似て形一ト廻り大きく、輝ありて美し」(要録)とある。筆者は特に美しいとわ思っていないが、一体に淡色であり、大型であることわ確かである。それに此の飼鳥書が何であったか今記憶にない。併し其の名の出処は何づれかの山元であろう。

《5》大小を表現したるもの
オオカワラヒワ(標準和名。「百千鳥」)
オオカワラ(「喚子鳥下」。静岡市【大】)
オオガラヒワ(盛岡市附近【大】=稀に)
オオガラ(盛岡市附近【大】)
オガワラ(京都市【大】)
オオアゾ(栃木県塩谷(シオヤ)郡栗山村、上都賀群今市町【大】)
オオニュウ(長野県東筑摩郡及び南安曇郡【大】)
ボタガワラ(米沢市【大】)
ホダガワラ(兵庫県下【大】=前者の誤り?)
チュウカワラヒワ(標準和名)
チュウカワラ(静岡市【中】)
チュウアゾ(栃木県塩谷郡栗山村、上都賀郡今市町【中】)
コカワラヒワ(標準和名。「百千鳥」)
コガワラヒワ(誤称)
コカワラ(「喚子鳥下」。静岡市)
コガラヒワ(盛岡市附近【小】=稀に)
コガラ(盛岡市附近【小】)
コアゾ(栃木県塩谷郡栗山村、上都賀郡今市町【小】)
アズキアゾ(栃木県塩谷郡栗山村、上都賀郡今市町【小】)

《6》人名に起源するもの
クザイモン(小笠原諸島、硫黄列島北硫黄島及び硫黄島【オ】)
クゼエモン(八丈島大賀郷村−甚稀に)
クゼエモ(八丈島三根村、青ヶ島)
クゼエモドリ(八丈島三根村)
シンゾオドリ(八丈島樫立村)
サブロジロドリ(八丈島中之郷村)
 初出の【オ】とある分だけわオガサワラカワラヒワである。
 八丈島に於てわチュウカワラヒワとコカワラヒワとお混称する事が多い。併し該亜種は冬鳥であって、コカワラヒワわ四時留棲。
 九左衛門・新蔵・三郎次郎の三名の呼込まれて居ることわ確かであるが、それが如何ゆう人達であるか其れ以上の事は分らない。

《7》形態を他物に形容したもの
ヒワスズメ(松山市、愛姫県温泉郡)
ヒワガラ(長崎県東彼杵(ヒガシソノキ)郡折尾瀬(オリオセ)村)
ヒワゴロ(平戸島平戸町)
トノサマヒバリ(長崎県南高来(ミナミタカギ)郡小浜(オハマ)町)
 “ヒワスズメ”とわ、ヒワ(こゝでわマヒワお指す)でもなし、スズメでもなし、或はヒワにも似ておるし、スズメの様でもあるしと云う処でもある。そこで鶸雀(ヒワスズメ)とわなったものでわない歟(これは本当に筆者の想像である。)。“ヒワガラ”、これも矢張り同一筆法で、ヒワにも似て又カラ類にも似ると云う点から。次の“ヒワゴロ”も其れの訛り(コレ少し騒々し過ぎる)。
 “トノサマヒバリ”、綺麗な鳥が歩いている、多分御殿様の雲雀だろう。

《8》誤りて附せられた名称
シトト(秋田県仙北郡角館地方=アオジと混称、御蔵島(ミクラジマ)=本種のみに、頬白は“ハチマキシトト”と云う)
ヒワ(郡山市、群馬県下、山梨県甲府地方、奈良県山辺郡丹波市地方、磯城(シキ)郡、南葛城郡、吉野郡下市町地方、岡山県美作地方、愛姫県新居郡大保木(オオフキ)村、南宇和郡、福井、佐賀両県下)
ヒバ(岐阜県下、大阪府下、奈良県添上郡、北葛城郡、香川県下)
ヒワドリ(松山市、愛姫県温泉郡)
 ヒワ以下は誤りでなく、この種の方が“ヒワ”であり“ヒバ”であり“ヒワドリ”である地が含まれてあるかも知れない。即ち此の方が“ヒワ”であって、彼の方が“マヒワ”或は其れに関連した名前で呼ばれて居ることもあろう歟。この問題についてわ箇々に当面して改めて筆を執ろう。

《9》地名を読込みあるもの
イワテヒワ(岩手県下閉伊郡岩泉町乙茂(オトモ))
シチトオカワラヒワ(異名【中】【小】)
カラフトカワラヒワ(異名【中】=異名とせられあるも別亜種ならん?)

《10》習性より導来したるもの
ヤシヤンボオトリ(静岡県下)
 “ヤシヤンボオトリ”即ち賎ン坊鳥。こちらの畠の作物から追へば彼方の畠にと飛んで行く、その動作が如何にも卑気に見える処からつけられたものであろう。

《11》出処が詳かでないもの
ヨコヒワ(千葉県市原郡市西村及び海上村)
ヒマゴロ(?)(平戸島平戸町)
タメジ(静岡県下)
ヒバチヤ(新居浜市、愛姫県宇摩郡妻鳥(メンドリ)村及び土居村、新居郡多喜浜村、垣生村(ハブ)、神郷(カミザト)村、船木(フナキ)村、泉川町並びに角野(スミノ)町)
        1954.2.20 稿 了
        1954.3.22 補 筆 

野鳥の想ひ出   高田俊雄
 春が来ると想い出すのは、富士山麓の鳥である。此の地方も今は、陸上自衛隊富士学校が設立され各地に演習場が開けたり、又最近では地元民の猛反対にも関はらず初公開されたオネストジョン問題の展開など一昔以前とは様子を全く一変してしまったがしかし五月ともなれば野も山も一斉に春の躍動を見せはじめ名も知らぬ草木によって色とりどりの花盛りと化す。
 毎年御殿場駅に下車するのは早朝で、此処からバスに乗り替へ約三四十分町や村を一望に目的地へ到着する。
 村の突当りの浅間神社の黒々とした森の上に、銀色燦然たる富士が慄然として聳立してゐる。神社の四囲の闊葉樹の緑と村の両側の藁屋根とは其の前景として誠に調和よく真黒な火山礫を踏み固めた街道と軒端を流れる小川の水は、此の村の変らぬ美しい清らかさを物語ってゐる。

雉の巣と卵
ホホジロのテリトリーソング

 此処S村は、実に海抜800mの高原地なのである。
 山桜と蓮華躑躅の丈は漸く2、3尺位なのに一方に霊峰を望んだ広い昿野は恰も白い布と赤毛せんを敷きつめたような美しさ、香り高い野薔薇は黄アゲハ蝶が戯れ或ひは又、蜜蜂の群がる羽音に驚かされることもある。
 S村は、このような大自然に恵まれた地勢のためか、野鳥の数も百十数種を越え、その上個体の多いことで愛好の人々に古くから知られ、終日鳥の歌に明けくれ丁度祝祭日でもあるかの如き賑やかさである。
 毎年同じ場所で春を迎えている雉も、一昨年時期が遅かったので已に巣立ち後であった。昨年丁度よい頃と思って訪ねて見たら、産卵8個で抱卵中であった。鳥は自個の居住する領域をそれぞれに持って居て、少々の迫害に痛みつけられても、やがて其の所に帰ってくる習性をもってゐる。10月上旬、連れ立って遠く南国の島々へ越冬に行った小鳥たちも、春ともなればおおむね雄のみ1〜2週間早く帰還し、村落に住むもの渓谷の鳥、高原の鳥森林を住家にするものなどそれぞれ営巣及び摂食の地区を定め種々様々の音律で帰って来たのを知らせるかのように朗々と鳴きつゞける。もしも此の場合他の雄が縄張内に侵入したならば猛烈な争ひが行なはれ、しばしば二羽絡み合ひながら地上に落下し、尚も闘争し続けているのを見受けることがある。争ひに勝った雄はその場所を占有し一日中高らかに、テリトリーソングを歌ひ雌の飛来を待つ、やがて雌が飛来すると、雄は雌の止っている枝の側や囲りを鳴きながら30糎もある美しい尾をヒラヒラさせ羽搏きしつゝ水平の方向にクルクル廻って、デスプレーをやる。三光鳥など特に美しいものに数へられている。
コサメビタキの巣と卵
サンコウチョウ♂の抱卵

 暫時して構巣にかゝりますが、通風、日当り他動物等の危害を受け難き場所に巣材を運び数日を費やして出来上るのが常であるが、中には二三日位で完了するものもありその上に“ウメキゴケ”等を巧みに付着させ保護色に到る迄、注意深く造り上げる。
 産卵は毎早朝一個づゝ産下し四五個になると雌雄協同で十分から四五十分位交互に抱卵し抱卵後の片親は、巣の周辺を警戒に専念し、雌のみ抱卵を続けるものは雄が飼料を口移し卵は14日を経て孵化する。孵化後も給餌及び抱雛を殆ど雌雄交互に行ひ、雛が日増しに成長すると共に、親鳥の日常生活は労働を愛情の極致に盡きる如く四五羽の雛の為に二三分間に一回の割合で餌を運び、一時間に30疋位の昆虫類を捕へて来るのであるが此の為一日十二時間の労働を雛が巣立ちする約二週間繰り返すので、その為五千から六千疋に上る害虫が一羽の親鳥に退治されることになる。これら雛達は餌を食べると同時に脱糞する。或者はすばやく呑み込むものもあり又遠く銜えて運び去るものもある。その周辺の清掃にも、親鳥が犠牲的な奉仕でやり遂げる。又、その間には水溜りなどにて水浴もなし、寸時を梢の陽ざしで唄うもあり羽並を整へる様は吾々の生活と比較したき心持にさせられる。総べて鳥類は、子を育てる為に盡す献身さに於いて最も美しい。
トラツグミ♂の哺育

 チドリ、シギ、鴨等地上に産卵して雛を育てるが雛が居る巣に人が近付くと、親鳥は突然ばたばたと羽ばたいて巣の周囲を駆け回りまるで羽か足が傷ついてよろける様な恰好を続けて飛び立とうとはせず人間がその姿に気を引かれている間に雛は逃げかくれし最早雛が見えなくなると親鳥は、大きく羽ばたいて飛び去ってしまふ。子を救ふために負傷を装って乱入者の気を奪う行為を吾々は擬傷と呼んでゐる。都会の周辺に棲む鳥は、この擬傷が仲々上手なのに引替へ高原地方の鳥達は案外下手なのにも考へさせられると共に無防備の彼等は、危害を蒙り易いため孵化後直ぐ歩行可能なるものと、そうでないものも四五日を経過すれば殆どが歩行容易であり、万一親鳥が危険を感じた場合は、暫くの期間住み慣れた場所から移動する。
 此の防衛法と必死の母性愛は見るものを非常な感動におとし入れる。
 丁度、此の鳥達と同じ頃渡来する珍客がある。その鳥の不思議なことには、卵を自身で抱かずに他の鳥の巣に一個づゝ産下して抱卵及び育雛させることである。

 ホトトギスはウグイスに託し、テッペンカケタカとせっぱ詰った様な声で、夜中に至るも飛びながら鳴き明かすことがある。カッコウもホオジロ、アオヂ、ビンズイ、アカモズ等の巣中に産卵し抱卵哺育を委せる。この鳥は南北アメリカを除く全世界に分布してゐるので、あの有名なカッコウワルツの一部を想ひ出させる様な声で唄ひ、新緑の野原を飛び廻ってゐる我が国でも信州方面では車窓より聞かれ、旅愁を慰めてくれる。
 ツツドリはセンダイムシクイ、ヤブサメ、メヂロ、サンコウチョウ、メボソ、モズ、アオジ、ビンズイ等に委せ、自身は同様風変りな声で、“ポウポウポポポポウ”と鳴く為一度で聞き分けることも容易である。
 ジュウイチ(一名慈悲心鳥)はコルリ、キビタキ、ビンズイ等に卵を託して蕃殖させ鳴声はジュウイチの鳴声から出たものらしく、ヂュイチ、ヂュイチ、と続けながら機敏に鳴き廻る。
 これら卵を託された小鳥達の巣の中に、一極大きい卵があれば先づ委託卵と考へて良く、又面白いのは大てい託される卵を、自身の卵色が稍同色なのには驚かされ、神秘的な感に打たれると共に、より以上観察を続けたくなり日の暮れるのも忘れて、ブラインドの中で過ごして終い、暗い山道を宿へ帰る日も多くなる。
 先づ仮親は熱心に抱卵にかゝる、幸か不幸か大きい託卵の方がどの場合も、早く孵化される。孵化した雛は間もなく一緒に巣の中にある仮親の卵を肩にのせては、巣外に押し出してしまふ。これは全く本能であって試みに巣の中へ小石でも入れて見ると体にふれるものは皆巣外に押し出し結局は巣を独占してしまふのである。そして仮親鳥は、吾が子を殺されたとも知らぬのか只一羽の雛の為に一生懸命哺育を続ける愚かさとも不憫とも云ひようがないが、雛は見る見る内に親より大きくなり巣立ち近くなれば餌を運ぶ親鳥に飲み込まれるかと何度もためらういぢらしさそして十分発育し独り立ち出来る様になれば無言で生みの親の許に戻り、初秋の頃ともなれば共に常夏の南国へ旅立つのである。渡り行く海原の平安なることを祈りつゝ前提を擱筆する。

野鳥雑詠(旅中偶作)   川村多実二
大杉にこかはらひわの声しげし弘仁佛のならぶ古寺(会津勝常寺)

秋ふかき鳥居峠の朝霧に鳴きかはしゆくまひわべにひわ

裏磐梯林はいまだ冬なるにびんずい松の秀(ほ)にさへづれり

奥多摩の御獄(みたけ)の宮の石径(いしみち)に降りて餌あさるごじふから二羽

大名の墓案内(あない)する雛僧(すうそう)の声に和し啼く杉のしじふから(高野山)

豚の子があひると遊ぶ村の道おうちゅう一羽屋根棟に鳴く(台北郊外)

信濃なる伊那のよしきり芦を無み竹藪に巣くひ竹の秀(ほ)に鳴く(飯田市附近)

会津野はくろつぐみ啼く春となりぬ飯豊山(いひでやま)なほ雪に光れど

春日照る鵜戸(うど)の社(やしろ)の大岩にいそひよ巣くひひねもす啼くも(日向鵜戸神宮)

戦場が原のびたき啼けど雲垂れて雨せまれればひた走り過ぐ(日光の奥)

星月夜大雪山の黒岳の偃松の秀(ほ)に高鳴くのごま(北海道)

裏山にこぶし花咲き滝の辺にみそさざい啼く山の湯の春(会津東山温泉)

湖岸(うみぎし)の岩飛びうつり倒木(たふれぎ)をこえて去(い)にけりかはがらす一羽(赤城山大沼)

人皆がいまだねむれる山の湯の空どよもしていはつばめ飛ぶ(山形県白布高湯)

密雲ははや大山(だいせん)をおほひたり見よ疾風にあまつばめ飛ぶ(伯耆船上山)

雨やみて須走の夜は明けそめぬ志ふいちの声やがて絶ゆべし

五月闇吉野の奥の御陵とおぼしき方ゆこのはづくの声

はやぶさ来て砂丘の松をこえゆきぬ汐(うしほ)遠鳴る九十九里浜

またたくは汐来(いたこ)の灯(ひ)とや大利根の岸に舟待てばごゐの声空に

片山津潟にに並(な)み立つ古杭の一つ一つにゐるゆりかもめ


闇夜の渡り鳥   伏原春男
 渡り鳥は月夜の晩によく渡ると言はれているが実に不思議なことに、最近、月明かりもない闇に乗じて、然も全く渡りの経路を無視して、太平洋を乗りこえ、東支那海をうち渡って、色々の鳥が日本列島に渡ってくるとゆう珍現象がおこりつつある。
 この鳥を称して迷鳥と云いたいところだが、実際には銘鳥とよぶ方がふさわしいのかも知れない。
 この渡りの異常現象は、気象の異変とか、鳥自身の自由意思による天然現象ではなく、あくまで船と人とゆうものを介して行はれる人工現象であるとゆう点が、その特異とするところであろう。
 又、これらの渡り鳥は、日本の野外で採集することが、まず困難と思ってよい。
 只、エスケープしたものが、野外で多少は採集される可能性がないこともないが、それは極めて稀なことであらう。
 この渡り鳥は、只、小鳥屋の店頭で散弾は使はずに札弾さえぶっ放せば、いくらでも生きた儘で、然も篭まで添えて採集できる至極便利なものであってその際、採集人の腕前次第で、ある程度まで札弾は節約できることは勿論である。
 こう書けば、皆さん方も大体お判りになったことと思うが、終戦后に輸入された外国産鳥類のうちで私が直接京都の小鳥屋の店頭で見たものを、二、三紹介してみたいと思う。
 こゝで大きく輸入といったが、国民全体の食う米すら足りなくて、年々多量の外米を輸入している現状では、生活必要品でもない小鳥にドルの割り当てなどあろうとは、誰しも常識的には考えられない。終戦直后はG、Iの横流れ、その后は外国航路船員のアルバイト、又は密輸入、即ち、闇鳥引による闇鳥であって、題目の如く、闇夜の渡り鳥とゆう名称がおこる所以でもある。
 前置きはこれ位にして、終戦后最初に私は、G、Iがシンガポールから持って来たとゆう、カワラヒワを見たことがあった。
 日本では、飼鳥として市場価値もない小鳥を、わざわざ遠方から持って来るとは、余程鳥の知識のない馬鹿な人間の仕業と可笑しく思ったが、今になって、その時一羽買っておけばよかったと後悔している。それが若し、基亜種のペキンカワラヒワであったならば、標本として価値があったからである。
 その后、台湾から小鳥が入った時代があって、加令(カーレン)・白眉(ホイビイ)・白頭(ペタコ)、ヒメマルハシ、タイワンキンパラ等がよく店頭に見られた。
 台湾の小鳥も仲々面白いものだが、一般向きがせないと見えて、余り売行きの良いものではなかった。私は、昭和27年の暮、店ざらしの加令(カーレン)を一羽手に入れて、現在も飼育しているが、これは白眉(ホイビー)と一緒に入って来たことから考へて、支那産亜種の叭叭鳥(ハハチョウ)ではなく、台湾産亜種の加令(カーレン)であることは明らかである。
 私は今でも在支那時代のなつかしい思出を、この鳥によって追憶し乍ら、独りで楽しんでいる。
 それと前后して、中共との国交が恢復もせないのに、親善使節として、小鳥だけが先行してして来た。それは相思(ソウシ)鳥である。この鳥は、湖北、湖南、福建、広東、広西省辺りの原産であるが、恐らく香港経由で入って来るのであろう。
 昔、小鳥屋の店先に極く普通に見られ、一羽二円位で買えたものだが、今では一羽二千円とは、実に相思鳥も銘鳥化したものである。
 その他、九官鳥もぼつぼつ入って来ている。
 金腹科の鳥では、紅雀が割合普通に見られる様になったが、マレー半島辺から入るのであろう。珍しいものでは、キンセイ鳥、ギンバシ、イッコウ鳥、カエデ鳥など、オーストラリヤ、印度、アフリカなどを原産地とする小鳥が、どの様な経路で入って来たのか全く驚きの外はない。
 インコ類もずい分色々と入って来ているが、余り興味もないので省略するとして、珍しい鳥にアカメヒメガラスがある。
 これは椋鳥科の鳥で、マレー半島の原産、恐らくG、Iの横流れらしく、京都動物園の鳴禽室に今尚健在である。
 今ではもう外国の鳥ではないが、奄美大島が日本に復帰して以来、アカヒゲがどっと入って来た。京都のどこの小鳥屋にも、十羽位の単位で入荷しているのは、実にあきれた次第。
 分布のせまい世界的なこの珍鳥を、いくら愛玩様とはいえ、こうも多数捕獲している現状を見ては、全く冷汗三斗の想いがせぬでもない。
 最近、飼鳥もますます汎世界的になり、ある店では南米ブラジル産の紅冠鳥とキンノジコを見た。紅冠鳥は、皆様方の中でも、映画『緑の魔境』の中でよく注意して居られた方はその姿を見られた筈である。これも移民船の船員のアルバイトの賜であろう。
 闇夜もいつまでも続くものではない。
 やがて、十五夜の満月になれば、各国の珍鳥が象牙の舟に銀の櫂でどしどし日本に押し渡って来て、吾々の眼を驚かす日も決して遠くはあるまい。(昭和30年12月25日稿)

思いでの比叡の鳥   日向富士雄
 五月、六月の土曜日はよく叡山黒谷の青龍寺に泊まって翌朝その附近の鳥を観察した。私個人のことも橋本さんや伏原さんとのことも又野鳥の会の皆様とのこともあった。殆んど歩くこともなく電車とケーブルがそこまで運んでくれてあの多くの鳥が観察できるのだから最もめぐまれた処だった。
 その頃私は京大農学部で農業経済の勉強をしていたのであったが、この美しい多くの叡山の小鳥達に魅せられてその勉強がおろそかになりついに小鳥達への愛情に燃え暇さへあれば山々を歩き関係書の読書にふけってしまったそして本来の道からついに脱線してしまった。それ程であるので叡山の小鳥達も又そこの同好の人々も忘れることのできぬことごとです。それは昭和10,11,12年と今からふた昔も前のことだ。その間私は南支那に二年、ビルマに六年と十年近く外地にあったのでそれ程遠い昔とも思はれず夏鳥が渡ってくる年毎にその地その友が思い出されてならない。ケーブルを降りた駅の天井につくられたコシアカツバメの巣、根本中堂の庭で巣材の土を集めているぎこちない姿などもう十年もその姿は見たことはないがはっきり思い出される。青龍寺の精進料理、暗いランプの灯の下での皆の語らい、茶室露香台で聞く、ホトゝギス、ヒガラ、キビタキ、サンコウチョウ、ヤブサメ、サンショウクイ、アオゲラ、アカゲラなどの声はどこの山で聞く声よりもよい。老杉に囲まれた釈迦堂の屋根や石垣などにみられるキセキレイは他のどこで見たキセキレイよりも環境によく合った清楚な姿であり声であって忘れることの出来ないものである。その後二十年の間一度も叡山を訪れたことはない。幸い町は戦災からまぬがれて変わらないが山はどうだろう、会の皆様の熱情は強くても町に近いこの山は他の例にもれず開けゆき小鳥達の棲家は狭められその生活はおびやかされていることであらう。叡山鳥類繁殖地という天然記念物もその制度の上に何か漠然とした欠陥を感ずる。直接は京都野鳥の会の発展することの方が叡山の小鳥達は安心できる早道であると思う。この会の発展を願ってやまない。(31.3.25、稿)

鴨川畔の越冬燕について   橋本英一
 昭和26年11月26日に初めて京都市内の鴨川畔(左京区川端丸太町下る)附近で燕のとぶ姿を発見したので観察すると昼間は鴨川の上を低くとび乍ら採餌しているらしく、その数は約30羽位が認められた。
 休憩場所としては同附近にある市水道局量水器工作所の疏水端の電線に止り、寒さと風の強い時は同所建物の南向の日当りの良い庇の下に一列に集まって寒さを除けているように見受けられた。夜間の状態は昼間と異り庇の下に十羽位が折重なって一団となって泊っているので下から見上げると黒い円型の固りのように見られ、この状態は桂川畔の越冬燕の一列に止る形とは異っていた。
 十二月に入り一夜寒気のため翌朝二羽の斃死鳥を発見したので暖房設備の工作等も考慮したが場所柄で如何様にも手の盡しようがなく、ただ安全地帯として騒がさずに静かに安心して止宿出来るようにしたが追々と数が少くなり十二月中旬には僅かに十羽位が毎日元気に姿を見せていたので現場で越冬するものと思われていたが翌年1月3日以来姿が見られなくなり越冬燕の確認が出来ず誠に残念に思っていた。これ以来毎年11月上旬には決った如く2〜30羽の燕の姿が見受けられるがこれも1月上旬には不思議に姿が見られなくなるのでこの状態は桂川畔の越冬燕が毎年変はりなく来ているので、その一部が鴨川まで採餌に来るものと推定していたが本年は例年に異なり2月に入っても十羽位が姿を見せていたのでこの儘で3月まで続くようなれば越冬燕の確認地として報告できるものと愉しみにしていたが果して2月下旬からすっかり姿が見られなくなり確認出来ないのが何より残念である。
 本年の状況を観察すると桂川畔のものが一部採餌に来て比較的に暖かい日は夜は桂川畔まで帰るらしく夜間は姿が見られない時があり、昼間寒気が厳しい夜は決まったように止宿しているので断定的には本年までの観察では桂川畔の越冬燕の一部であると推定すべきものである。

「ファウナ・ヤポニカ」の鳥の止り木   佐藤磐根
 「バード・オブ・アメリカ」の鳥は画面の中で羽根をととのえ、羽ばたき、飛び、叫び、羽根の下のシラミを取っている。これに反して「ファウナ・ヤポニカ」の鳥には静的ポーズのものが多い。これは前著がオージュボンの天才の賜物ということの外に、彼が鳥と共に生きて当時のアメリカの荒野の中にすむそのまゝの鳥の姿態を描くことができたのに反して、後者はライデン博物館の戸棚の中に収蔵されていたシーボルトの収集品をシュレーゲルが研究した産物という事情によるといわなければならない。描いた人は一度もその生きた姿をみていないのである。その上世間的には寛容なテミンク館長が若輩の部下シュレーゲルに対しては甚だ苛酷で、彼が日本の鳥をまとめる際に必要な材料をしらべるにあたっても、虫がつくからとの理由からテミンク館長は標本を厳重に仕舞ひこんで不充分な材料一つづつしか渡してくれなかったというシュレーゲルの悲しい述懐がある。このように異国の悪条件のもとで假剥製から描かれたものであるから、中には図だけでは何鳥かの判定に苦しむようなものさえある。ウグイスメジロなど小鳥の図が甚だしく不出来に思われるのは、私達が生きた姿をよく知っているためか、または假剥製から生きた姿態を復原しにくいというような事情があるのか。しかしこれに反してコノハズク、ノスリ、クマタカなど大形の鳥の図が私達素人目には立派に思われるのは、恐らく欧州にすむその近縁種の知識を活用して図が描かれたことによるものであらうか。オージュボンの図がその鳥の巣場所、餌のみならず広い生活環境をたくみに背景に取り入れているのに対してヤポニカの画家はさぞかし困却したことであろう。矢張鳥の図には止り木がないと恰好がつかないらしい。岩上において事すむ鳥や水鳥は比較的無難に描かれている。日本ではウグイスはウメに止ることにきまっているが、この本ではセンダイムシクイがウメに止り、ウグイスの図の二葉の中の一はヨシに、他の一葉はタデ(?)に止っている。鳥との組み合わせはさておいて止り木の植物だけを通算すると半ばは特徴の示されていない曖昧なものが多いが、中には植物分類学者がその種名をぴたりと指摘してくれたものもある。たとえばクマタカのヒメコマツ、キウシウフクロウのシダレヤナギ、センダイムシクイのウメ、マミチャジナイのネズ、ビンズイのイワガラミ、シロハラのヤマハンノキ、キウシウコゲラのカシワ、カケスのカシワ、ヒレンジャクのカラマツ、ホオアカのハクウンボクなどなど。これはシーボルトが動物標本のみならず○葉標本も持ち帰ってそれを主として研究したツカリニとの共著で「フロラ、ヤポニカ」なる書がなされていることを思えばあえて不思議はなからう。鳥の図の多くはシュレーゲル自身の筆になったものといわれているが、内15枚にはウオルフの署名が入っている。私はこの画家について書かれたものを知らない。しかしこの画工の作には風景描写が念入りで中々面白いものが多い。チョウゲンボウの背景には妙義山とおぼしき岩山と不可思議な姿の富士山がそびえている。トビの背景には水辺、森そこには三重の塔さえ書き加えてある。センダイムシクイを満開の梅にとまらせたのも彼である。季節はずれのこの奇妙なとり合せもそれが描かれた時と所を思えば、画面に異国調がしのばれて面白い。私は日本のこの鳥の古典を繙くたびごとに、シュレーゲルアオガエルの和名で私達にはなじみ深い彼の百年前の苦慮をしのばずにはおられない。

ウ  ソ   浜畷嘉樹勇
    先日岩湧山へスキーのトレーニングを兼ねて友達と二人で探鳥に行った。頂上近くには雪が2〜3寸程も積り、ズック靴をはいて行ったので濡れて冷たかった。南海高野線の三日市駅で下車して山へ入ったのであるが、谷間で上から下りて来た猟師に逢って「今日は山で猪を追ひ出してるから気をつけてくれよ」と云はれ顔見合せて「ギョッ」
 それからと云ふものは猪、猪でノイローゼ気味で「オイ、向ふから猪奴来よったらどうする?」「俺やったらパット体を横に開いて、猪が通り過ぎる時に後足をグッと掴んでグルグルッと振り廻して、ボテンと木にブッつけたる」とか何んとか、もう探鳥なんてそっちのけで、「生け捕ったらその金で登山靴が買へる」の、「死んでしまったら今晩猪汁にしよう」のと当るべからざる勢ひ。これこそ捕らぬ猪の皮算用と云ふ奴で、ワイワイ云ひ乍らとに角頂上まで出合ふことなく登ってしまった。雪の上には猪の足跡らしいものがよく見られた。
 晝食後、紀見峠駅へ出ようと快足を利してどんどん下った。と下の杉の植林帯のあたりで、「フィー、フィー」とかすかにウソの声が続けて聞こえて来た。「オッ、ウソだ」と時刻とその名前を手帖に書き込んだ。谷近くの杉林の中で犬を連れた四人連れの猟師に出逢った。「取れましたか?」、「インヤ。今大きな奴が飛び出して上の方へ逃げたから皆を集めてるとこだ」。「あんた達、降りて来る方へ行ったと思ふが見なかったかね」と云ふ。僕達は見なかった。しきりに左手の林の中でウソの声がする。続けてよく啼くので「おかしいなァ」と思ってゐた。「オーイ。もうエーぞうっ」と一人が怒鳴るとその声は止んだ。ウソの声と聞いたのは猟師達の合図の笛だった。「オイオイ。野鳥の会のセンセー、しっかりしてや」とすかさず云はれて頭を掻いた。本年最初の失敗の巻である。「とうとう登山靴買ひ損こねたなあ」。形勢不利と見て話題を変へたが彼はゴマ化されなかった。
 靴は流れ、笛にはダマサレルし。だが比較的収穫はあった。
 谷川沿ひの道を歩いてゐた時、水の少し淀んだ所で十数羽のエナガが水浴してゐるのを見た。其の日は寒く川の縁の濡れた木や岩は凍って、氷柱が下ってゐた。が小鳥達は寒さも何んのその敢然と水に入り翼をふるはせて、終れば近くの枯木に止まり身だしなみを整へてゐる。或る種類の人間より彼らの方が遙かに清潔好きである。と思ふ。(了)

随想 大陸の野鳥あれこれ   松本貞輔
 壮志を抱いて、波荒い玄界の灘を越えたのは、その印象が強いままに、ついこの間の様に思はれても、指を折って数えるとはや十六年が経ってゐる。
 その当時の満州は、日本の覇道に四族が靡いて、東亜の盟主国民としての誇りが心に強いそのままに、単独一銃を提げると、よく偏境の満人部落に一泊の宿を求めて出た私は、終日を其の地其の村で狩り暮したものであった。
 戦争が愈々苛烈の度を加えて、満州でさえも魚肉に事欠いて来るにつれて、数多い社員に営養資源の供給がその直接の目的ではあったものの、広漠千里、無限の草海に、果しを知らぬその湿原に、或は沼湖に林海に、多種多様無数の羽族に相見える楽しさは、故あって行う心なき殺伐の間にあって尚、大きく心のときめく豊かな喜びを覚えるのであった。
 とりわけて、ハシビロ、オナガ、アカツクシ、オカヨシ、ヒドリ、アジ、キンクロ等々……雑多な鴨族と、マガン、ヒシクイ、オオヒシクイ、ハイイロ等の雁の類の見事なその翔態に、雪の冬山を背影に、夜空に眺める曳光弾さながらに、一群幾十羽の浮き出た高麗雉が、次から次へ描く抛物線の幾条の見事さに、桃の花咲く丘陵では、鈴を振った山鶉の翔ちに出会うかと思えば、山麓の耕地では沙鶏の一群に巡り逢い、部落の近くではヤツガシラの幾羽かを近々と目撃し、
 さては……ヒバリシギよりホウロクに至る大小様々なシギ類の渡りを楽しむ前面の小沼には、オオバンの大群がビッシリと浮いて、内地に見られぬそのスケールの大きさに、感歎これを久しくしたものであった。
 丹頂、ナベヅル、オオハクチョウ、○(ノガン)と、入れかわり立ちかわり、出る度毎に親接の機を掴み得た満州の天地こそは、まこと、鳥に心引かるる輩には、宝庫を越えた天の楽園であったのである。
 たしか十月の初旬であったが、幾百千のアカアシチョウゲンボウの環翔しつつ南への渡りを目撃して、そのあしの真紅のあざやかさに見惚れたのは、奉天を南に六里、兆千戸屯の山嶺で、出猟ひとときの憩ひの時であった。
 終戦の年の七月末に、現地召集で羅南の兵舎に這入った私は、鮮満国境地帯の汽車の窓近々と見た雛雉の姿にも、未だに忘れ得ない親しい片々が心に残ってゐるのである。
   征く汽車の窓近々ととぶ鳥は
   羽ととのはぬ雉の雛なり
   襲いくる敵機をさけし裏山に
   今日も又鳴く黄鳥の雛
 空に帰した当時の手帳に、たしかこんな鳥の幾首かを書きとめてゐた様に思う。私には、あのソ連参戦当時の凄絶を越えたそのさなかにあって、尚野鳥に抱く関心を捨て去ることは出来なかったのであろう。
 戦後、平壌より奉天の自宅に舞い戻った私は、家族共々に引揚迄の一年間を、共に相擁して明日の生命におびえたあの満州の地に於て、尚未だに懐かしい豊かな思出に浸り得る私には、まこと野鳥に満ち溢れたあの地を恋うる断ち切れぬ野鳥に結ぶなつかしさのなせるわざではあろう。
 柳の篭を手に持って、オオバン、カルガモ、アカハジロガモの卵をとり歩いてゐた当時のショウハイ連も、今では一人前の中国青年に成長してゐることであろうが、渉り歩いた私の行動範囲の野の鳥達の後裔についても、有縁の人達同様にその後の幸福を人知れず祈ってゐる私に、再びあの地を訪れて見る機会が恵れるものであろうか。
 運河の氷が流れ初めると雁がわたり、菖蒲の伸びた湿地にはカルがゐついた。年々歳々相変らぬであろうあの地のあれこれを、思う心の切なるままここにこの才稿を記して、重而大陸の鳥達の其の後の幸を祈るのです。

保護さるべき京都の千鳥   伊藤正美
 昨年の五月、会員と共に鴨の河原で卵を温める千鳥を見ることが出来た。
 三条大橋と程遠からぬ河原である。
 これはイカルチドリ、普通に川千鳥と云って、少し大きな河川の中上流には普通に見られる千鳥でありさして妙しい鳥ではない。併し鴨川に抱卵する千鳥ともなれば別に考へたい。
 と云ふのは、このイカルチドリこそは古来鴨川千鳥として詩歌にうたわれ、京都の自然情緒の一点景として京都とは切っても切れぬ所謂縁浅からぬ仲であるばかりでなく、一般には既に姿を消したと考へられて居る過去の鳥であるからである。
 そしてこの一組こそは近々、他の河川から移住したものでなく、恐らく平安の昔からこの地に住みついて来た最後の一組と考へられるからである。
 これは誠に貴重な存在であり、かけがへない京都の自然美と云ひ得る。心から無事巣立ちをしてくることを念願したのであるが、旬日を出でずして卵はなくなったそうである。そこは雑魚取りの少年が頻繁に往き交ふ河原であり恐らく見付けられたか、踏みつぶされたものと思ふ。誠に残念なことであった。
 私はその折、これは広く人に紹介し、何とか手を打ちたいと考へてもみたのであるが、思ひ迷ふところもあって見過ごしたのである。千鳥にとっては誠に申訳ないことであった。
 果して今年は如何であらうか。恐くは期待出来ぬところであるが、幸ひにして再び営巣が発見されたなれば、暫くの間でもこの地域方五十米の立ち入りを止め、皆で可愛らしい雛が巣立つのをほほへましく見守ってやりたいものである。これは亡び行く鴨川千鳥の最後の一組に対する京都市民のせめてものはなむけであり義務ではなからうか。
 偖而、今、茲に、この鴨川千鳥とは別に、京都としてどうしても保護存続せしめたい今一種の千鳥がある。
 それはケリ(鳧と書く)と云ふ日本的珍鳥である。同じ千鳥科に属するこの鳥は、元来北支、蒙古の草原に蕃殖し、冬期南支に渡る大陸の鳥であるが、往年の日本の原野にも随分沢山居たものらしい。大名の鷹狩の獲物としては最も普通の鳥であり、多数に採れたときはそのまゝ塩漬けとして保存したと記るされて居る。それが減りも減ったり、現在では東北の一部でそれも少数蕃殖すると知られる丈で、全く我々の目の前から姿を消してしまったのである。私杯も幼少から鳥好きで、凡そ珍しい鳥はたとへそれがどんな忙しい旅先であらうとも見逃すことはないつもりであるが、ついぞ最近迄は全く出会ひの機会はなかったのである。
 それが所もあらうに、京都市の南辺巨椋の開拓田には今も尚多数に蕃殖して居ることが最近になって判明したのである。
 何れ蕃殖状況の調査明細は、今年当り発表出来ることになると思ふが近年妙しいニュースである。
 こゝで少しこの鳥を紹介すると−−大きさは凡そ鳩大、静止の折は灰色の地味な色彩で地上では完全な保護色をして居るが、翔び立つと途端に白、黒二色の極めて鮮明な体色になる。鳴声は一寸他鳥に類を見ぬ金属音でキ、キ、キ、キーリ、キーリときしるやうに喧噪に鳴き立てる。真冬を除いては大体この開拓田に定住し、水田の昆虫、小動物を採餌して居るものと考へられる。
 兎角珍しい鳥である。
 こゝで私が特に考へさせられるのは、土地の農夫の話によれば、この土地に広大なる巨椋池のあったずっと昔より多数に定住蕃殖して居たと信ぜられるこの特色ある大型の鳥が今迄、多くの探鳥家に知られることもなく、亦このかくれようもない都会近くの広坦な土地に奇しくも存続してきたことである。
 これこそ大自然の片隅であり、大自然の盲点とも云ふべきであらうか。先の鴨川に抱卵する千鳥にしてもそうであるが、自然界にはかゝることがよくあるものである。
 幸ひこの種の自然美は絵画的に眺めた丈ではその真価判らないまゝに見過ごされて居るのである。
 私はこれを自然美に対する無関心の賜と考へたい。
 土地の猟師や農夫には絶えず密猟の危険に曝され、蕃殖時期には、その卵は見付け次第取り上げられ乍ら、兎にも角にも存続を許されて来たことは、
 「何だ、馬鹿鳥のことかあー、去年食べたらよー、香(コウバ)しかったあー」
とかたづけられるその無関心の賜と考へられよう。
 自然美に関する限り、この無知と無関心、一見同意語とも思はれるこの二つの言葉程、全く裏腹の作用をするものはない。
 自然美は無関心によって存続を許され、無知によって破壊されると云っても決して過言ではあるまい。
 私は持論として、人類が近い将来、大自然との結び付、それもゆきづまった人間性の慰安と改善の場所として自然を現代以上に必要とする時期が必ず来ることゝ確信して居る。そのためにも自然美の保護は現代に生きる我々の義務と信じて疑わない。
 にも不拘、この矛盾せる現実の前に如何に多くの自然愛好者が自然美の紹介に頭を悩まして来たことであらうか。
 私は今、この自然美−珍鳥ケリ−の紹介に際して甚心迷ふものがある。然し乍ら、この儘に放置して置いたとしても、今迄は兎も角、野鳥の昨今に於ける急激なる減少はこの鳥をのみ例外にするとは考へられない。そして無関心による存続、無知による破壊を乗り越えて有知による愛護へ導く積極的なる努力こそ我々野鳥の会員の責務と考へ敢て筆を取った次第である。
 この巨椋開拓田にはこのケリと共に、冬期にはこれと別種の田ゲリが見られる外、各種の野鳥が棲息する。特に水郷一口(イモアラヒ)方面に多いやうである。聞くところによると、この附近は最近水郷観光地として開発紹介されるそうであるが、願わくば、このケリを含める凡ゆる野鳥に対し積極的保護対策を立てゝもらいたいものである。川村先生はこの地のヒバリの囀りを全国屈指のものと折紙をつけて居られる。この美しいヒバリの声に和して、この珍鳥ケリが爽々しく碧空を舞ふ姿こそ自然美の極致ではなからうか。珍鳥ケリの多幸を祈りつゝ擱筆する。
昭和30年度行事報告   
1月 新年宴会 於京都ホテル
5月 洛北大原古知谷探鳥会
6月 比叡山探鳥会
7月 洛南小倉「計里」観察会
8月 野鳥懇談会 於京都ホテル
9月 大阪住吉浦の干潟の鳥観察会
10月 洛北貴船峠冬の渡り鳥観察会
12月 歳忘れ鳥談会 於春陽堂
◎編集後記◎   

第4号 ここまで

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