口絵写真(欠落してありません。調べて後に掲載します。) 巣立ちしたマミジロ 高田俊雄撮影 |
営巣場所 富士山登山道一里松
附 近 サンコウチョウ営巣場所より約50m程南の雑木林。
巣の高さ 地上より2.5m 雛 4羽
昭和35年6月19日撮影 高田俊雄
京都野鳥の会の方々が6月中旬富士山麓に探鳥の旅をされました時私は当地が出生地であります為に案内役としての責任上より多くの野鳥の声や姿を皆様に御披露御観賞いただきたいと念願いたしつゝ一週間ばかり早く京都を出発いたしました。しかし皆様が到着されました頃には既に巣立ちした鳥もあり御期待にそわなかったことは誠に遺憾に思われます。
このマミジロも御一行の到着一日前に巣立ちしましたものでせめてもの御慰みにと私の見ましたまゝを写真でお目にかけます次第です。
欧米の近世作家の中に野鳥を主題とする詩文を作った人が少なくなく、その或ものは我邦の読者達にも愛唱されて居るようだが、G
lbert White(1720-1793)、Richard Jefferies(1848-1887)、W.H.Hudson(1841- P.H.Gosse(1810-1888)又は J.F.von Goethe(1749-1832)の如き鳥類の実生態を記述した散文が割合に精確な客観的描写に成功して居ることは当然であるが、他の多くの作家特に詩歌人には自身で鳥類の生活を観察せずむしろ其邦の民族的伝説に基づいて構想を練ったと認む可きものが多く、例えば鳩を平和の象徴としたり、鴉に軽率、狡猾、予言の性質を与えたこと、恰も東洋の詩歌人が杜鵑を冥度に通う不吉な鳥と考えたのと撥を一にする所が多いのである。
鳥名を最も多く採り入れた詩文の例としては W.Shakespeare(1564-1616)の戯曲が挙げ得られる。例えば「夏の夜の夢」の中にツグミ、ミソサザイ、ウソ、雀、雲雀、郭公の六種を、また「ベニスの商人」の中に鴉、雲雀、ナイチンゲール、鵞、ミソサザイの五種を譬喩として利用した一節がある。 Tennyson. A.(1809-1892)の叙景詩「植物園守の娘」では八行の内に鳩、雲雀、郭公、ツグミ、Red Oap (註ベニヒワ?)及びナイチンゲールの六種が出てくる。
反対に作詩の数が多いに拘わらず鳥類をあまり引用しなかった詩人もあり、多情多感な Lord Byron.G.G(1788-1824)は「島」の中で二ヶ所孤独な鳥として梟の一種 Hermit Owl を用いただけらしい。また好んで新題材を採用し「海底電線」の詩まで公にした Rudyard Kipling(1865-1936)に鳥に関係のある詩文が一つもないというのは不思議である。
次に主として英国詩人が野鳥に与えた寓意を検討して果たしてその属種の実生態に一致するか否かを考えて見たい。先ずナイチンゲールから初めると、この鳥は我邦で鶯の類と誤解されて居るが、実は鶫科の鳥で日本のコルリ、ノゴマと同属、大きさは日本のモズ位、仏蘭西と西独逸が主産地、英国ではスコットランドで唯一回捕れたほか東南部に限られ、冬は南アフリカに渡る候鳥である。その地区防護歌は多くの讃歌を勇壮に歌い続けるものでさほど美して声でも悲しい調子でも無いが、アデン王パンディオンの娘フィロメラが神の怒に触れてこの鳥に変形させられ、その悲運を訴えて鳴くという伝説がホーマーの古詩「オデッセイ」あたりから起り、 Sir Philip Sidney(1554-1586)、Richard Barnffield(1574-1627)、S.T.Coleridge(1772-1834) 皆悲しい歌だと詠んで居る。然しイソップ物語の中に孔雀がナイチンゲールのような美声が欲しいと訴えて説諭せられる話があったり、W.Cowper(1731-1800)の詩にこの鳥が終日鳴いて夕方になり空腹を感じ螢を食はうとしたら、螢が「神様はあなたに美声私に美光を恵んで夜を楽しくしようとしたのだ」と語ったので螢を逃がしてやり他の餌を探したというのがあるのを見ると美声と思う人も多いらしい。
ナイチンゲールは昼間も盛んに囀る鳥なのに日本では専ら夜鳴く小鳥と誤解せられ居るが、右の螢の話のほか独逸の H.Heine(1799-1856)が「音楽の書物」という詩でも、英国の P.B.Shelley(1782-1822) の「ロザリンドとヘレン」でも、夜の鳥となって居る。作者不明の仏蘭西の古詩に或娘の独り言として「尼になろうかイヤ、イヤ、裏の森でナイチンゲールが夜も昼も鳴く、恋人のない娘のために鳴く、私のためではない、私には恋人が有るもの」というのがある。最後に Thomas Nash(1567-1600)の「春」という三節十二行の短詩にナイチンゲールの声を Zug Zug と写したのがあるが、実は之がこの鳥の声を代表する文句である。
次は我邦のクロツグミに近く欧州第一の美声鳥と認められるブラックバードである。この鳥の美声を面白く紹介したのは W.H.Hudson(1841-1922) で、「鳥の間での冒検」の中に愛蘭の古詩二篇を例示して居る。その一は妻子を失った牧人がこの鳥の巣のこわされたのを見て同情し悲しむという筋、その二は三角関係で決闘して重症を負うて将に死せんとする男がこの鳥の鳴き声を耳にし感動して瞑するという筋である。W.Barnes(1800-1886) はこの鳥の鳴き方を「最も楽しい歌」と形容し、 Lord Tennyson(1809-1892) の詩「ブラックバード」ではこの鳥に呼びかけて「お前を保護して私の庭を提供するからもっと唱って呉れよ金の嘴銀の舌が涸いてメロディが大分乱れたようだな、お前の笛の音は荒っぽくなり、それもさっぱり聴かれぬではないか」というて居る。
次はロビン又はロビンレッドブレストと呼ばれる一種である。之は日本のコマドリに近く、色形もよく似た小鳥であるが、向うでは留鳥であり北欧で越冬し、倫敦あたりでも人家に近い灌木や生墻で営巣し、あまり人を怖れない。又秋冬の頃にも囀る珍しい習性があり、この鳥の詩を読む人はこの特性を知って居る必要がある。即ち J.Keats(1795-1821)、N.T.Carring(177 -1830)、Eliza Cook(1818-1889) 等が秋の鳥として詠み、T.Hurdis(1763-1801) は「寒い雲の多い十一月が来て啄木鳥はもはや笑わず、カケスもヒワも黙し、燕が去ってしまう頃に独りで来て唱う鳥、褐色の荒れはてた景色を好む鳥」として居る。尚この鳥の声は屈托の無い愉快なものと解釈せられるらしく J.Montogomery(177 -1854) の「囚人の慰さめ」なる四節二十四行の詩ではロビンの自由を羨み、「寒中に獄の近くに来て吾を慰めてくれよ」と話しかけるのである。又 R.C.Trench(1807-1886) では「満目荒涼の悲しい秋に、最優れた音律を大胆に唱うお前はそれによって再び春をもたらすためであろう」となって居る。最後に面白いのは Samuel Rogers(1763-1855)の「ロビンレッドブレストの碑文」という十二行の短詩では「此所がロビンの墓だ。小さな骨がこの地下に収まって居る。然し羽が乱れ色あせた亡骸は既に無く、魂はこの墓を去り、猫も学童も近寄らない而して愛と喜と花笑う春とがこの小さな魂に美声で唱はしめるような世界に往って居るのだ」と詠まれてある。
ヒバリは我邦のも欧州のものも同一種で囀りもよく似て居るが、白人は此鳥は最も自由な生活を楽しみ最も愉快な歌を唱う鳥という点で意見一致して居るようだ。古いところでは仏蘭西の Pierre de Ronsard(1524-1585) が「雲雀」でそれを詠み、英国の James Hogg(1770-1835) という漂浪の後羊飼となった田園詩人も「ヒバリは朝農夫を起こす時計代りの鳥、天の入口での歌手、希望幸福を連想せしめる鳥だ」とし、Christina Rosetti(1830-1815 有名な画家 D.G.Rossetti の妹) も「太陽に向けて彼の胸を拡げて空中に飛び上がる希望に満ちた鳥」と呼んで居る。更に世界的に有名な W.Wordsworth(1770-1850) の「雲雀に」という二十八行の詩で「私を一緒に空につれて上ってくれよ、旅に労れ力を落した私でも山や河の如く愉快なお前の歌を聴けば勇気が出て、運命に満足し希望を抱くようになったよ」と呼びかけ、P.B.Shelley(1792-1822) の同じく「雲雀に」という長詩では「火雲の如く躍り上り、唱い乍ら翔び舞い、翔び舞い乍ら唱う」と描写し、然も愉快な中に多少哀愁のこもれることを叙し、終りに「お前の歓喜、調和、狂熱を私に授けてくれないか」と話しかけることになって居る。Lord Tennyson(1809-1892) も雲雀をさして「多幸なる鳥」と呼び「春になれば眼に見えない歌をきかせる鳥」と詠んで居る。
ツバメが渡り鳥であることは希臘時代から知られ、それを詠んだ詩も少くない。例えば Richard Jago(1715-1781) は「よう来たな燕、古巣を直して住家を作れ。私にはお前が埃及の泥の中にどんな虫がいたか、リビアの砂の中にどんな多彩の虫がいたか、ユーフラテス、ガンヂスの川辺がどうであったか話して聴かせる声がきこえるように思う」と話しかけて居る。また仏蘭西の Theophila Gautier(1811-1872) の短い詩でも「雨が降って池に水泡を作る頃屋根に集まった燕が「冬が来た、寒くなった、アゼンスは良い所ださあ往かう」と語り合うのである。同じく仏蘭西の Eugene Rambert(1830-1886) の「小さき燕」では時計台の軒で一羽の小燕が巣の端にとまって居る。母燕が大胆に翼を拡げて飛べという。小燕は下が深すぎるのに私の翼が小さいと答える。母は大丈夫だよ私の時も小さかったが神様が支えて下さったよという。そこで小燕が思い切って飛び出した。あら不思議、寺院を廻って立派に飛べた。母燕も小燕も心から神様に感謝し、声を揃えて燕の歌を唱った という筋である。
英詩には右のほか、ワシ、タカ、フクロウ、クワクコウ、ハト、カラス、ムクドリ、カワセミ、セキレイ等の陸鳥は勿論、サギ、シギ、カモ、カモメ、アビ等の水禽も沢山詠まれているがあまりに長くなるのでそれらは次号にゆづる事にする。
1月11日、橋本先生より出町柳附近の越冬ツバメのねぐらが見付かったので見に行くから4時半に出町柳駅前で待合わすように火急の電話をいただいた。
こゝ二三年来、12月になっても出町柳付近の賀茂川流域でよくツバメを見掛けるので、或いはこの辺りで越冬しているのではないかと思ったりしていた。桂川のツバメがわざわざ毎日ここまでやって来るとは思えなかった。ところが昨年12月中旬頃、出町柳付近の電線二百羽以上のツバメが止まって居り、しかも毎日同じ所で見かけるので越冬ツバメに相違ないと確信するようになった。
その越冬ツバメのねぐらが見付かったとのこと、早速弟と出町柳へと急いだ。そこにはすでに橋本先生と高田さんが待って居られた。ねぐらはこゝから北東へ三、四百メートル離れた左京区高野蓼原町の民家三軒ほどの軒下を利用して居り、二階の窓や壁は糞のため甚だしく汚れていた。5時半頃、あたりが少し暗くなりはじめた時分にあたかもムクドリの群のように旋回し群れ舞いながらツバメが帰って来た。先づ電線に止りやがて美容院入江良美さん方を中心に二階外側のカモイに行儀よく一列にきっちりと詰め合ってズラリと並んだ 数えてみたが約七八十羽居たように思う。ひところは三百羽位居ったそうだが塗りたての壁も窓も糞でどろんこにするので家の人が怒ってほうきなどで追いたてたので減ったらしい。一軒の家はカモイの所へ蠅捕りリボンを張りつけたらそれ以後ツバメは向い側の家に移動して寄り付かなくなったと云っていた。何でもここへは五、六年前からやって来て居り、しかも年々その数が増える傾向にあるらしい。適当な措置を講じて保護してやりたいものと思う。
どうしてこの何の変哲もない民家にツバメが越冬するようになったのだろうか。これについては私は全く理由が解らない。どう考えてもこのねぐらが防寒について他よりも優れているとは思えないからだ。賀茂川に近いので採餌には都合は良いだろうが、橋本先生の観察では賀茂川にはユスリ蚊が多数発生して居り越冬ツバメはそれを主食にしているそうだ。だから冬でもまず食料は確保出来ているわけだ。
こんな吹きざらしの軒下で越冬出来るツバメは普通考えている以上に耐寒性のある鳥らしい。餌さえあれば楽にとはいかなくても、充分越冬出来るのだろう。これらの越冬ツバメを見ていると夏のツバメに比べて一回り小さいように感じるし尾羽の所謂燕尾に分かれている個体は少なく、イワツバメのように短いのが多いのはこの夏生まれた幼鳥が多く混じっている為だろうか。また繁殖期でない故か羽に光沢が無くくすんだ色彩に感ずる。
越冬ツバメは一体冬鳥なのか、或いは留鳥なのか漂鳥なのか私は知らない。夏のツバメと亜種を異にするのだろうか。また桂川の越冬ツバメと全然別のものかどうか。疑問は次から次へと湧いて来る。全く歯痒いことだ。脚にリングでもつけて調査するわけには行かないものだろうか。
二
あれから暫くして、今度は高野の鐘紡京都工場にも沢山越冬ツバメが居るというので、橋本先生とおっとり刀で出掛けた。この越冬ツバメのことは新聞紙上にも何度か載ったので会員の皆様もよく御存じの筈。
時間は同じく午後五時半頃であった。紡績工場の屋根へへっぴり腰で登って、屋根伝いに越冬ツバメがねぐらにしている工場の通気窓に近づくと、窓に掛けてあるムシロに休んでいたのが一斉に飛び立った。あまり沢山居るので一体何羽居るのか見当もつかない。しばらくじっと静かにして様子を伺っていると、又どんどん帰って来た。百羽以上はいるようだった。暗くなって来たのを気にし乍ら、一応写真を何枚か撮っておいた。こんな夕暮れに飛びかわすのを見ていると、何だかコウモリを連想した。
こゝは紡績工場からはき出される暖かい湯気と熱気の為確かに他よりも暖かい。何でも工場内は原毛を加工し易くする為、いつも温度26,7度、湿度80%前後に保たれているそうだ。その湯気抜きのヨロイ窓をねぐらにしているのだから、まさに暖房完備である。しかも民家と違って人が近づくことさえ、また道路から見ることさえも出来ないような場所にあるので、全く安心して休むことが出来る。ちょっと飛んで行けば賀茂川でエサをとることも出来る。
こんな素敵な場所を知ったなら、不精なツバメなら、いやどんなツバメでも南の国へ帰るのが億劫になって、毎年ここへやって来るに違いないと思った。
私は大正の初期、正しくは六年の秋、名古屋の街中に生れた。
物心のつく頃から、与えられた玩具には一向に興味を示さず、もっぱら虫だとか魚だとか云った自然の生き物に気を引かれて一人遊んで居たそうである。
そう言われれば、私の幼い頃のかすかな記憶の中にはその当時、街中の露地裏にも普通に居ったであろう色んな生物が浮び上って来る。………朝顔の葉にのるオンブバッタ、百日草の花壇のノミバッタ、台所の隅に群がるカマドウマや、苔庭をはいまわる大きなアリ………等をまるで世にも不思議な奇怪な生き物として眺めた想い出が、それは記憶と云うより、むしろかすかな感覚として残って居る。恐らくは三、四才頃のことであろう。それは決して成人後の観念の所産ではない。五、六才の頃の記憶はもう大分にはっきりしている。野の鳥に関する想い出が残っているのはこの頃からである。
夏の夕べ、無数に飛び交うコウモリの群にまじって、時折ではあるが尾の長い鳥がさっと軒近く迄舞いおりるのを眺めて胸をときめかせたことを憶えて居る。ヨタカであった。また、或る月の明るい晩、影踏み遊びの最中、頭の上の老樹に突然「ギャアー」と云う物凄い鳴き声をきいて肝をつぶし、宙を飛んで逃げ帰ったのも懐しい想い出である。フクロウであったのであろう。アオバヅクの「ホーホー」の鳴き声は、夏は毎夜のこととして憶えている。
しかし本当の私の野の鳥の想い出と云うべきものは、私の小学入校と同時に、やはり自然の好きであった両親が郊外に家を建てて移転したことに始まって居る。私は一人人力車にのせられて、郊外の新しい家に向った折の感激を忘れることが出来ない。町を出はずれると一面に菜の花と紫雲英の花咲りであった。ヒバリが鳴いて居た。若し今の私であったならばはるか遠くシロハラの鳴くのも聴いたかも知れない。私は胸をときめかせて新しい環境に降り立ったのである。
およそ、生れ付き生物に対し異常なまでの関心を持ち乍ら、街中にとじこめられて居た少年が、突然に、あらゆる生物が太陽をいっぱいに満ち溢れている自然の中に自由に放り出された場合、その喜びが如何ようなものであろうか御想像いただきたい。
それから数年、私は川を流れ、木に登り林を走り、草を分け、春夏秋冬を思う気ままに遊び暮した。懐かしい月日であった。この生活は私が小学四年の秋を迎え、かくてはあらじと考えた両親により、無理矢理に町の学校に転校させられるまで続いた。
従って私の野の鳥に関する切実な想い出は、ほとんどが大正末期に当る小学低学年の頃のものである。考えてみると虫も多かったが、魚や鳥は多かった。特に野の鳥は多かった。当時のあらゆる鳥が、幼い私の目の前を過ぎた。あるものはゆっくりと、あるものは一瞬の間であったかも知れないが。
あれから三十余年、自然は大きく変貌した。
夕焼の沼の上を真黒になって飛んだギンヤンマの群は小川のせゝらぎを石の数程のぼったウナギの子は、かきの色づく頃、山から里へ絶え間もなく訪れた様々な小鳥達は一体どこへ行ってしまったのであろか。
ひたひたと押し寄せる文明の波は、それらの自然の友を、最早、我々の手の届かない所へ追いやってしまった世に「桑海の変」ありとすれば、それはこゝ三十余年が程の間に起ったこの国の生物の世界について適切に云えることであろう。
これは決しておろそかなことではない。
文明にとり、人類にとりそれは大きな損失である。何とも淋しいことである。
しかし私にはまだ「想い出」と云うなぐさみがある。私は折にふれてそれらの想出の数々をまるでかすみのベールをはぐようにはっきりと思い浮かべることがある。またあるものは静かに目をとじただけで、その折々の野の友の動作、姿は勿論、風のそよぎから、陽の光までもまるで昨日のことのようにまざまざと想い出すことが出来る。しかし、重なる歳月は、早晩、これらの想い出の多くを忘却の彼方に追いやってしまうに違いない。
私は、私自身のために、また、懐かしい野の友のために是非とも、ささやかな想い出の記を書き残して置きたいものと前々から考えて居る。しかし世の雑事は、なかなか私にその心のゆとりを与えてくれないし、また、大方諸氏にお目にかける程のものでもないと思うと一向に筆が進まない。
幸い今回は編集者よりたってのお推めを頂いたので不取敢、手元にある一片を失礼を省みず発表させていただくことにした。これは以前、地方の小冊子にのせたものであるが、大方諸氏の目には全くふれて居らないと考えるのでこの点、悪しからず御諒承願いたい。
野の鳥の想い出 其一
それは確か、或る初夏のよく晴れた暑い日の午后のことであった。私はその日、一日中クイナのひなを探して小川から池へと一人さまよっていた。それは四、五日前、隣り村の少年が、何所で見つけたか真黒な綿毛につゝまれた可愛らしいクイナのひなを誇らしげに手にして居るのを見掛け、自分もどうしても手に入れたかったからである。
探しあぐねた私は最後に、その頃最も愛して居た山あいの沼を訪れたのである。その沼は山の小路よりは、尚一丁程も奥まった山かげに、普段は人の訪れとて全くないまゝに静かに眠るように横たわって居た。沼は深い雑木の茂みに取り囲まれ、水際までは美しい「モウセンゴケ」の群生と、それに続く「イグサ」によく似た名も知れぬ水草の湿地帯からなり立って居た。私はこゝを訪れるときはいつでも雑木の茂みからそっと顔を出し、息をこらして沼全体を見渡すのを常として居た。何故なればこの沼の一隅にある倒木の上には、いつでも同じ場所に一羽のゴイサギが、水中の小魚をねらって、じっと立って居り、ときにはクイナがこそこそと水草の茂みを歩いて居るのを見ることもあり、また白い小さなスイレンの咲く沼の中央には、カイツブリが静かに浮んで居るのを常に眺め楽しむことが出来たからである。
その日に限り私は、直ぐ茂みから飛び出すと、クイナのひなを探すべく、湿地の水草を踏み分け乍ら池のまわりをさまよい初めた。夏とは云い乍ら時刻も大部遅く、多分は相当に疲れていたことと思う。
丁度、その時、一羽の大きな水鳥が、直ぐ目の前にいきなり飛び出して来た。私ははっと息をのむと、目をみはって立ち止った。カモだ!しかも手負いであるらしい。我に返った私は次の瞬間、もう湿地の水をはねかえして突進して居た。
片翼をだらりと下げて左右に逃げ廻るカモとしゃにむに追いかける小さな子供の姿を御想像願いたい。しかしものゝ二、三分もたゝぬまに水草の茂みに姿を見失ってしまった。
しばらくは夢中であたり一面さがし廻ったが一向にそれらしき姿も見当たらず、何とも失望の中にもとの辺りに引き返すと、驚いたことに、またしても目の前に飛び出して来たのである。
今度こそはと勢い込んで追い廻した私の努力はまだまだ無駄であった。
手負い乍らすばしこいこの鳥は、ほんの手のとどく辺りを左右に逃げ廻り乍ら、すぐ目の前の水草の中に身をかくしたのである。
私はそこの水の深さを知って居た。摺鉢状に深くなるこの沼の清らかな水は、既に私の小さなひざの辺りを洗って居たからである。私はあきらめて引き返すより外はなかった。
しかし全く驚いたことには、私が前の所に引きかえすと、何時のまに、何所を廻って来たのか、同じカモが、同じように飛び出して来たのである。片翼をだらりと延してばたばたさせ乍ら、一寸進行しては首をひねってこちらを見るカモの目は、何ともなく意地悪そうに光って居た。私は子供心にも普通のことでは駄目だと考えた。
機を見て身をかがめると、飛び込みの姿勢で、いきなり飛びかゝったのである。
私は確かにつかまえたかと思った。
カモのやわらかい、なめらかな羽毛が両手の指先にふれたように感じたからである。
だがやっぱり無駄であった。私は水しぶきを上げて水草の湿地にひっくり返ったにすぎなかった。あわてて身を起す間もなく、カモは力強くはばたくとゆうゆうと飛び立ったのである。私はずぶぬれになって身体を頭から胸へとなで下すと、子供心にもいいようのない屈辱を感じて辺りを見廻したことを覚えて居る。
静けさは、再びこの山沼によみがえり、折から黄金色の射陽の内に、唯、私の踏みにじった水草が、一本、一本静かに起き初め、沼の辺りを埋めるモウセンゴケが異様に輝いて居たことを忘れることが出来ない。
私は胸のときめきをおさえかねると、小走りに山をかけ下りて家路についた。
ずぶぬれになって帰った私の姿に、不審をたゞす母親にも、とうてい満足な説明は出来なかった。私の小学二年の夏の忘れ難い想い出である。
これが「カルガモの偽傷」であると知ったのは、ずっと後のことである。恐らく、その沼のあの場所にその時生れて間もないカルガモのひなが秘かにかくされて居たのであろう。 終
○ ヒヨドリ
世間で「鳥の鳴かぬ日はあっても」という事を申しますが、我が家にあっては正に「ヒヨドリの鳴かぬ日はあっても」でございまして年中我が物顔に振舞って居ります。
ひどい喰いしんぼうで数本づつあるナンテンとアオキの実は赤い実を眺める暇もなく、ヒヨドリの為に丸坊主にされてしまいます。それで道を歩いていてよそのお庭に、房々と垂れているナンテンや艶々したアオキを見ると時とても珍しい気がして一寸うらやましくなる事もございますが、さればとて、赤い実の為にヒヨドリが来ない様にとは露さら思いません。せっせと手水鉢の水を替えては、彼等の水浴に備え「ボチャッツバサバサバサ」という音、続いて水浴の後は一際高く朗らかな鳴き声……如何にもああサッパリしたという様な……を聞きつけてはにっこりしている私でございます。ヒヨドリはよっぽど水浴が好きらしく寒中でも水浴致しますので、氷が張っていては困るだろうと御苦労様に氷を叩き割っては水を満たします次第。ヒヨドリの水浴を御覧になった事ございますか。先ず手水鉢のふちに止まり、それから一気にまるでダイビングのように飛び込んでバサバサバサと水を浴びますが冷たい冬のさ中などその様を見ますと全く勇壮な気さえ致します。
○ キジバト
キジバトも御常連でございます。「テテッポウテテッポウ」朝となく昼となく耳に致します。桜の低い枝にぢいっと黙して動かない事もあれば、のこのこと庭を歩き廻っていて近眼の私が「猫かしら」とまちがえた事もありますし、裏の戸をあけたトタン、バタバタと飛び立たれてこちらがびっくりさせられたりも致します。お豆はチャントやっていますのにアオジの為に撒いてある粟まで食べてしまうので「ダメダメこれはあなたのとちがうのよ」といって追払う事もありますけどキジバトの声は私にソロモンの雅歌の美しい句
「視よ冬はすでに過ぎ去りて
さらさらと音立てし雨は止み
野辺にはすでに花咲きほこり
地には山鳩の声聞こゆ」
を思い出させてくれます。
○ アオジ
霜が下りる頃から春こたつが要らなくなる頃まで、アオジが庭にまいります。特に一羽の雄は私になれていて(太郎という名前です)朝早くから夕方まで、一日に十回以上チンチンチンと鳴きながら、粟の撒いてある一定の庭石めがけて、或る時は最短コースを或る時は迂回しての御入来です。何かを警戒して、すいっとユスラウメの小枝に飛びのくこともありますが、大ていは悠々と食べて(十五分位いる事もあります)食べ終えるとすぐ飛び立つ時もあるし、ピョンピョンと飛石伝いにつくばいの端にとまり、うつむいては水を飲んだり、木かげの苔の上をつゝきながら暫らく歩きまわってから飛び立つ事もございます。
よく動作を観察したいためごく縁側に近い庭石の上に粟を撒いて居りますので、縁側を通りかかって「アラ太郎さんが来ているわ」と気付く事もしばしばですが、私の姿を見ても飛び立つ事はありません。大てい太郎独りで来ますが時に二三羽一緒について来る事があります。ぢいっと見ていると面白い事に、太郎はとてもえばっていて他をそせつけず、他も又大そう気兼ねしていてオドオドと気の毒なくらい、太郎のあとへあとへと廻っておこぼれを遠慮しいしいついばみ太郎はそれさえ意地悪くコツンとこつきに行きます。「これがアオジの世界の秩序なのだろうか」と思って眺めていましたが、ある日次の様な光景を見ました。ふと庭に目をやると太郎の横にイカルが一羽仲よく並んでセッセと粟をついばんでいるのです。どっちも全然他を無視した態度で散々食べて先づイカルが飛び立ちました。つゞいて太郎も飛び立ちました。
○ ウグイス
朝昼夕一日三回定期便の様にウグイスが巡回して来る頃になりました(今日は十月二十九日でございます)チヨチヨチヨチヨチヨ植木屋さんのはさみの音の様な所謂笹鳴きを耳にすると毎年私は「つづれ刺せこうろぎ」ではありませんが毛糸の球を手にしたり、今年の暖房はなんて考えるのが常でございます。「個体数が減って野鳥が近親婚をするので声が悪くなる」という事を何かで読んだ様に思います。その為かどうか存じませんがたしかにウグイスの声が近年悪くなりました。三十年位前は全く素晴らしい声で誇らかに高鳴いてくれたもので、その為行動を著しく制限されたと申しますわけは、あんまり良い声で長い間鳴き続けますので障子一つあけるのもはばかられ、バタバタとはたきをかけたくてもぢっと手を止めて待つこともしばしばでございましたが近来は落付いて鳴いてはくれません。三声四声ですぐ飛び去ってしまって昔を思っていつも物足りなく思っております。
○ ジョウビタキ
霜が下りる様になりますと太郎のほかにもう一人私のお友達が訪れてまいります。それはジョウビタキのジョウ太郎君です。「ヒッカカカカカ」梅の枝につりさげておく小さい竹の籠のふちにとまり餌をくわえるとすぐ下の庭石に飛び下りて、食べ終えるとつくばいの水をおいしそうに呑みそれから梅の枝にもう一度とまり次いで隣の桜の枝へ飛び移り次第次第に高い枝へ飛び移って一番高いこずえでぢいっと五分も十分も動かず、満ち足りたという風情。餌のはいっていない時は餌入れのふちにとまってちょっとのぞいてみて空っぽだといった様にすぐあきらめて飛び去る事もありますし、少し未練そうに一二分周りをうろうろしてから飛び去る事もあります。いつも西北から来て又もと来た方向へ帰って行きます。
「おじぎ鳥」という地方もあるとかそのおじぎにも似た仕草は或る時は「私に餌を下さいな」とおねだりしている様に或る時は「御馳走様でした有り難う」と御礼を言っている様に又或る時は「奥様御機嫌よう、こんにちわ」と御挨拶送ってくれてる様に私には時に応じて感じられて、ほんとうにかわゆうございます。
○ エナガ
十月十日午前十一時頃、洗面所でハンカチを洗っていると、柿の木のあたりがジュルリジュルリとやかましいので、あわてて濡手を拭い望遠鏡をとって来た時にはクルミの木に群れていましたが、も少しぢっとしていてくれればよいものを、せかせかと赤松へ移りやがて飛び去ってしまいました。二十羽位の群れでございました。
さして広くない私の家の庭にも東山に程近く吉田山の中腹という条件の為かとにかくスズメ以外の野鳥が来てくれる事は有り難い事でウメモドキ・マユミ・ナンテン・アオキ・シキミ・カキ等実のなる木をふやし、水のみ場を二三しつらえて居ります。この一年間に私の庭で見たものはウグイス、イカル、エナガ、シジュウカラ、メジロ、ホホジロ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、キジバト、モズ、アオジ、ミソサザイ、キセキレイ、カラス、スズメ、声を聞いたのは、フクロ、コジュケイ、マミジロです。この外にも時々、ギリギリギリと丁度時計のねじを巻く様な声を聞く事がありますし、ツバキの生垣の葉が風もないのにしきりに揺れて何か小鳥が動いているのに遂に姿を見とどける事が出来ない事もしばしばで、「私の庭に来る野鳥」という表題は正確には「私の庭に来る私の知っている野鳥」と改むべきで、川村先生の御話によれば三十年位前には吉田山で四十種位所見されたとの事、皆様の御指導で私の野鳥の知識も殖え又庭に来る野鳥の種類も数も多くなって、もっと豊かな御報告が出来る日をと願って居ります。
十月の初旬に会社の旅行で立山へ行った。二日目に皆を見送って一人残り、室堂から一ノ越、獅子岳、ザラ峠を通って五色原へ出た。弥陀ヶ原も天狗平より上はもう紅葉は遅く、バスの終点弥陀ヶ原ホテルあたりが一番の見頃だった。しかし天気はあまりよくなく、ガスが去来していたがその切れ目からまっかに紅葉したナナカマドが行手に現われる。夏には見過ごされて来た木も今は人目を引くはなやかな存在になっている。どれだけの人がこの木の前に立止まって見惚れた事だろう。僕も先を急ぐ事もないのでそんな木が現れるたびに立止り、立止りする。
一ノ越で遅い昼食をする。丸々と肥ったイワヒバリが小屋のゴミ捨場をチョコチョコと餌を漁っている。
ガスで黒く包まれた山頂に向って登るのは山馴れた人でも気持が悪いと云う。まして一人の気楽な山行きであれば、引き返そうか
などと考える。富山大学立山研究所を過ぎて、少し日の射し始めた竜王岳のガラガラ道を行く。と不意に足元の石が動いたと思ったらライチョウだった。新品のカメラを使うのはこの時と許り、リュックを抛り出す様にして後を追った。五色小屋へはまだかなり時間がかゝるが好機逸すべからず。どうやら冬羽へ衣替え中らしく胸、腹、下尾筒などが白くなっている。尾羽の黒い目印を振り立てる様にして岩とハイマツの間を小走りに逃げ、少し行って立止りこちらを見る。昆虫のハンミョウに似た習性だ。余り近寄りすぎると「うるさい野郎だ」と云はぬ許りにパッと飛び上がる。そのたびに夏羽が抜けて這松の上に落ちる。一枚を拾って手帳にはさむ。わき羽だ。冬羽への換羽は下から順次上に行くらしい。夏羽への換羽はどうなのか。矢張り下からかわって行くのだろうが次にはそんなのを見たいものである。とにかく換羽中のライチョウに初めてお目にかかった。「こいつを五、六人で追いまくったら上半身裸になった珍妙なライチョウが出来上るぞ」などと考え乍ら追っていたらとうとうカンシャクを起こしたのか、蛙の様な声を残して飛び立ちガスの中へ消えて行った。
秋の日は短い。小屋へはまだ二時間程もある。霜枯れたチングルマとハイマツと岩屑だけの縦走路を急ぐ。ガスが日没に拍車をかけて居る様だ。
日が暮れたのと、ガスのために五色小屋は見つけにくかった。五色山荘の方が新しくて水も近くにあるらしいが、このガスの中で迷ったら面倒だし、山小屋は古びている方がそれとしての風情があるので敢えて水の不便な古い五色小屋の方を選び誰もいない真っ暗な部屋に上り込んで夕飯の仕度にかかった。
朝日をいっぱいに受けた谷間は光り輝いている。露にぬれたあぜをのぼると、うしろでモズが鳴く。昨日の馬頭観音のところまで来る。ここから十三曲峠の路は左の山あいを登っている。大きな松の根もと、紅いハゼの葉かげにぬれて黒ずんだ大小三十近くもある馬頭観音は、やはり静かにたたずんでいる。昨晩の老婆の話では近年馬を飼う家も少く、その家でも昨年牛に替えたとか。かつては年毎に盛大な供養がおこなわれたというこれらの観音も時世の波に忘れ去られようとしているのであろうか。今は馬おらぬ飛騨の山里を見下す石の群像は思いなしか昨日より寂しく感ぜられた。
御岳が大きないわし雲を背にそびえている。ここから見る御岳は全く姿がよい。カケスが鳴く。今日もリンドウとマツムシソウの路である。ちらほら可憐なナデシコやウメバチソウの花も見える。バサバサと羽音をたててキジバトが飛出す。モグラが路傍で死んでいる。最初の尾根の上に出た。アオゲラが二羽枯木を廻っている。一人旅の気安さでスケッチをしたり又寝ころんで空の雲を眺めたりのんきなものである。御岳が左に長くすそをひいて見える。昨日木曽川から御境峠を越え、一夜の宿を乞うた日和田の部落が谷間に沈んで小さく見える。路は尾根の横をまいている。御岳の雄大そのものの姿は見あきることがない。未だ雪は来ていないが、カラマツだろうか燃えるような黄色が点々と深緑の中に見える。二つ目の尾根を越す。ここにも草かげに小さな馬頭観音が旅情を添えてくれる。布川沿いに自動車道が出来てからはこの峠を越す人もなく今は全く荒れている。愈々薮こぎである。ともすれば路を見失いがちになる。何度も行ったり戻ったりしながら又一つ尾根を越す。しかし人の通らぬ峠道は小鳥の楽園である。ゴジュウガラが枝から枝へ。カケスが二羽、アカハラ、ヤマブドウが紅葉している。ガサゴソと野兎かと思ったらヤマドリが番いで飛出した。大きな尾根を又一つ越した。とどうやらこゝで十三曲峠も終りらしく、ここから一面のクマザサをかきわけあるかなしかのじぐざく路を探しながら、がむしゃらに降ると谷筋に出た。やれやれと思ったがこの谷は又背丈よりも高いアザミが生い茂っている。手にしたスケッチブックを楯に強引な薮こぎの連続である。谷の正面に乗鞍がほんのうっすらと雪らしきものをかけて、のっそりとそびえている。木馬道のところでミソサザイが飛出す。流れで顔を洗って小休止、体はと見るとこれが又ヌスビトハギとヤブジラミでいっぱい、手はすり傷でヒリヒリする。路は右岸、左岸と渡りながら木馬道は崩れかゝって崖の上でなくなっていたりする。そのうち尾根をまわり隣の赤坂谷の方へ入ると、そこには立派な道があり、飯場があった。まあ休んで茶でもと言はれて、結局昼飯まで御馳走になる。
『昔は十三曲峠 といえば、馬を引いて信州や高山へ盛んに越したものだが、そんなに荒れたかのう』
と話好きな親爺が首を振りながら、みそ汁のおかわりをすすめてくれる。
そこを辞してすぐ左へ細い路を下ると河原に出る。丸木橋を渡って対岸の道へ上ると、そこは野麦峠を経て信濃に通ずる木曾街道である。カエデの紅葉の間に益田川が白く光っている。誰一人出合うこともない全く一人の世界、瀬音が谷にこだまし、光に満ちた街道である。コゲラが鳴く。路傍のマツムシソウの花にギンボシヒョウモンが力なくぶら下っている。ホウの木の赤い実をゴジュウガラが盛んにつついているが残念ながら肉眼鏡では虫がいるのかどうかはわからない。濁川の出合をすぎる頃、対岸の上でおのの音、続いて大木の崩れ落ちる音が谷を渡る。やがてススキの穂かげに野麦の里が見えて来た。岩ばしる清水に口をつける、冷い。ホシガラス。カツラの紅葉が浮んだように美しい。ホシガラスのなく野麦の里はソバの軸が赤く、ヒエも黄に実っている。この山里も今穫入れで忙しく、ヒエの束を山のように背負って子供達までせっせと運んでいる。畑でヒエを打つ手を休めて、物珍しそうにスケッチブック片手の風来坊を眺めてくれる。訊けば寄合渡まで四里だという。何とか今日のうちに野麦峠を越せそうだ。川に沿って半時間程ゆくと、峠近道とあり左へ、愈々登りが始まる。コガラ。瀬音がどんどん遠くなってゆく。じぐざく道でヤマカガシがはう。山桜の紅葉がきれいだ。流石に登りにかゝると汗が流れる。大きなトチの木の下で休むと、心地よい風がほほをなでてゆく。はるか下に早や西に傾き始めた秋の陽を受けて、今通って来た野麦の里が光っている。ポトンとトチの実が落ちて落葉を鳴らす。オオカメノキの紅葉は赤紫、そしてその赤と黒の実が美しい。尾根に出ると御堂がある。地蔵尊と書いた白いのぼりが二本ぼろぼろになって立っている。乗鞍が真正面だ。ほとんど雲にとざされているのが、かえってその高さを、はかり知れないものにしてすばらしい。風を切り、うなりを残してアマツバメが盛んにゆき交う。あんなに速く飛んであれで虫が見えるのだろうかといつもながら思う。ここから道は山の稜線沿いにまき、やがて開けた峠に出た。野麦峠、ここは飛騨と信州の国境である。そして昔は両国を結ぶ要路であったとか。しかし今は、五輪の石塔が一つ、それに木で組んだ門のようなものがあるだけで路はそのまま信州側へ急な坂で下っていた。
幕切れ近くなった旅路を惜しみながら、暮れ始めた峠の路を下ると対岸でトラツグミが鳴いている。
寄合渡に着いた時はもう夜に入っていた。今宵も月は出ず、宿の二階から聞こえるのはただ奈川の瀬音のみだった。
日程 6月23日〜26日
須走米山館、本栖ロッヂに二泊
参加者 18名(他に須走案内者 高田重雄氏)
橋本、高田(俊)、烏賀陽(恒)、佐藤、入江、伊藤、大中、高橋、内田、田中、宮下、藤岡、烏賀陽(貞)、林、松村、中島、山本、宮下、
コース 第一日、京都発(22時14分銀河)
第二日御殿場着(6時46分)…須走浅間神社〜馬返し附近探鳥…米山館泊
第三日、山中湖畔旭日丘…河口湖畔博物館…紅葉台…本栖ロッヂ泊
第四日、本栖湖畔…風穴…朝霧高原…白糸滝…富士発(15時58分西海)…京都着(21時50分)
◎三日間の収穫(48種)
スズメ、ツバメ、キセキレイ、シジュウガラ、マミジロ、ホトトギス、サンショウクイ、ムクドリ、キビタキ、ウグイス、アオジ、カッコウ、コルリ、メジロ、ジュウイチ、ビンズイ、ツツドリ、サンコウチョウ、オオジシギ、クロツグミ、ノジコ、ヒヨドリ、モズ、コガラ、ヒガラ、ホオジロ、ヤブサメ、ハシボソガラス、オオルリ、コサメビタキ、アカハラ、ヨタカ、イカルチドリ、カケス、トビ、センダイムシクイ、ヤマガラ、トラツグミ、ミソサザイ、セグロセキレイ、ゴジュウガラ、アカモズ、ノビタキ、セッカ、エナガ、コカワラヒワ、コジュケイ、ノスリ(河口湖畔博物館で飼育されていた)
◎巣を観察したもの
マミジロ(雛4羽)、コサメビタキ(卵4個)、アカゲラ(雛が一羽巣立前に死んでいた)、サンコウチョウ(抱卵中)、アオジ(卵が四個抱卵中で捨てられていた)、ミソサザイ(昨年のものらしい)
6月23日(晴)、22時14分京都発銀河に乗り込んだ私達は後から続行されることに成った入江氏を案じながらも、幸い、一グループとして座席をとることが出来ると嬉しくて仕方がない。早速、携行した参考書や図鑑等を回覧し、佐藤先生や大中氏の鳥談に聞き入っていると、何時の間にか24日を迎える。一睡の後、沼津着。5時21分
次発列車で駆けつけられた入江氏と、東京からの宮下氏もそろい一安心。
さわやかな初夏の気に今日も晴天に恵まれそうな満足感を覚え、5時46分発御殿場線に乗車。窓外に富士の優姿、とび交う小鳥を見ながら一時間、6時46分御殿場着。
探鳥メモ…スズメ、ツバメ
数日早く来られただけで、すっかり山麓の人に成られたような高田(俊)氏の笑顔に迎えられ6時55分発バスで須走に向かう。育雛に忙しいのであろう十数羽のツバメが人をスレスレに横切る。
7時20分須走米山館着、先着の烏賀陽氏の出迎えを受け、ながめよき一室に全員そろう。かわいいクルマユリが咲き、キセキレイの巣があったと云う杉の木などのある庭を眺めながら藤岡さんのお点前を頂いていると、向の屋根にキセキレイが一羽やってきてわら屑を運びはじめた。歓迎ダンスを待っていたが巣作りが観察出来、いい宿を頼んだものだと嬉しくなる
8時40分、待望の名ガイド高田先生ご兄弟の案内で鳥類の日本一の名所と云われる浅間神社より馬返しまでの約6粁を探鳥のため出発。キセキレイ、シジュウカラ、ホオジロ、カッコウ、ムクドリ、コサメビタキ、オオルリ、クロツグミ等が、境内のあちこちから歓迎の囀りを聞かせてくれる。
特に、赤松の梢からと思われるマミジロのチョボイチーの美声はその名のいわれとともに、初めて聞く私だけにではなく、皆を大変喜ばせてくれた。
ウグイス、ホトトギス、メジロ、サンショウクイ、ジュウイチ等の盛んな囀りを双眼鏡でおいながら富士登山道須走口を馬返しに向かう。どこからかツツドリのポン、ポン。
前日に見つけていただいていたマミジロの雛を観るため灌木の林を分け入ると、コルリがツン、ツン、ツン、ギヂ、ギヂ、ギヂ、チラララララと美声で迎えてくれる。親鳥を驚かさないようにと静かに近づいたが、早や飛び立って巣立前のかわいい雛四羽のみを観察。しばらく、ブラインドを張って親鳥を待ったが余程警戒していると見えて巣に近づきそうにないので、立派に巣立ってくれることを願ってひきあげる。
まだ羽が充分そろって居ないのに、眉のみくっきりと白く見えたのが実にかわいく、それにつけても、親鳥の育雛ぶりの観察出来なかったのが残念に思われてならない。
花のシーズンには早い山麓を紫色に熟したフジザクラのさくらんぼや野いちごを摘みながら行くと、バス道路から少し入った草むらにコサメビタキの巣が見つかる。越丈ぐらいの低い所にウメノキゴケ、樹根、羽毛などで作られた鉢形の巣に卵が四個美しく並んでいるのを、親鳥の留守に大急ぎで撮影して離れる。
帯褐灰白の地にやゝ濃い不明瞭な斑点、長径16ミリ、短径12ミリ、1.5瓦前後。
先帝が皇太子であらせられた時に大変めでられたので呼び名に成ったと聞くライトピンクの東宮バラ(サンショウバラというのが和名らしい)や葉の上に可憐な実をつけたハナイカダなどを珍しく見る。
チュル、チュル、チュル、チイチイチイ。さえざえしたビンズイの囀り、アオジ、クロツグミもよく鳴いてくれる。
これも前日に見つけて下さっていたアカゲラの巣を見に行くと、どうしたのか巣立前の雛が一羽地面に落ちて死んでいた。蟻につかれた体を哀れみながらも致し方なく、最大目的であるサンコウチョウの観察のため立ち去る。
ピピピイ、ピイ、ポイ、ポイ、ポイ朗らかな囀りをたよりに杉、檜等の茂みに分け入る。木の三ツ股に成ったところに巣があり、三十センチはあるかと思われる尾をピンと張ったるり色の実にあでやかな姿。にわか雨をビニールなどでさえ切りながら、抱卵中の雄を息を殺して観察。しかし、しばらくして、雌と代った雄が、昼食を始めた私達を恐れたのかふたたび巣に戻ろうとしないのであきらめて、オオジシギを見るため草原に出る。
ヂープ、ヂープと鳴きながら空中に円を書いて飛び、時々翼でド、ド、ドと云う凄い音を立てる。
ノジコ、モズ、ヒヨドリ、コガラ、ヒガラ等の鳴き声を聞く。何故か抱卵途中で捨てられているアオジの卵を最後に観察を打ち切り宿へと急ぐ。
17時、高田先生をまじえて夕食。鳥談はつきないが耳元に残る小鳥のコーラスを愉しみつつ就寝。21時。
6月25日(雨)、5時30分起床 ツバメがとび交い、屋根のキセキレイは今朝も巣作りに忙しい。上がりそうにもない雨の中を7時25分発バスにて山中湖畔旭日丘に下車。遠くでカッコウが、メジロ、アカハラ、コサメビタキ、コルリがすぐ目前の桜や柳に来る。雨やどりしながら観察。“雨も又よきかな”再びバスで河口湖へ、10時18分着。はげしく成ってきた雨をついて船で博物館へと急ぐ。
チョウゲンボウ標本(高橋氏撮影)
当館は鳥獣室他五室、園地約4千坪を持ち高山植物始め動物、鳥を飼育し、約二百種の野鳥の剥製、特に姿と声のブポウソウのジオラマ風展示等は私達を大変満足させてくれました。又、美しく剥製されたチョウゲンボウの雄姿はカメラマンを喜ばせてくれました(カット写真はこの時高橋氏の撮影されたものです)
園地に飼育されて居るノスリをメモ、晴れ間をみて、イカルチドリ、メジロが囀ずる畑中の道を湖畔へと急ぐ。ハシボソガラスが畑に降り、トビが天気を告げるように舞っている。昼食の後、13時8分発バスにて紅葉台入口下車、13時45分。
紫のかわいい花をつけたアヤメが、ナデシコなどにまじって咲いている路を約30分登りつめると、西湖が碧く光り、人類未踏の樹海が眼下に広がる。さぞかし全山紅葉の頃は素晴らしいことだろうと思われる。すっかり晴れ上がり傘雲をいただいた富士山を背景に記念撮影、コサメビタキ、アカハラの囀りに送られて今日の宿舎本栖ロッジへと急ぐ。
須走ほどの探鳥記録はなかったが、博物館見学は有意義だったし、紅葉台などは楽しかった。15時15分、ロッヂ着。
小憩の後、探鳥を兼ねて湖畔散策。富士が実に美しい。明朝はきっと晴らしい。探鳥記を入江氏に依頼して食卓に就く。(以上 山本記)
6月26日
若手のエネルギーの溢れる山本さんや田中さんといった熱心なファンが、早朝4時というのにもう森の小鳥たちと同じようにうわずった囀り声で、佐藤、大中といった先輩をやっきとなって起こしにまわる。もう一寝入りというところ不承々々皆が窓を開けると、成程暁闇を突いてこれは亦素晴らしい森のコーラス。寝ぼけづらにヤッケをひっかけてとにかく表へ出てみる。少し肌寒を感ずる。ロッヂの玄関口すぐ近くの樹の茂みの梢近い枝にオオルリが一羽とまってさかんに鳴いている。双眼鏡に喰入るように覗き入り乍ら、田中さんがオオルリの美しい緑の正装に感嘆の声を惜しまない。それから、こゝは亦何とセンダイムシクイの多いこと。
皆の足は自然と本栖の湖畔の方へと歩を運ぶ。今朝は湖岸を西へ続く道をたどって、本栖隧道を刻んだトンネルを抜けてゆく。鈴成りに熟れたキイチゴの実をもいで子供のように口にほうばる。キビタキが盛んに鳴く。朝の散策が終ると、ロッヂに戻って、みんなそろって朝食。
雲が多くて展望がききそうもないので、パノラマ台行きを放棄し、釣マニアの伊藤さんだけを残し、全員バスに乗って富士の風穴を観にゆくことにする。今日のバスは廻り道して精進湖一周していったので、とうとうこれで五湖を全部観たことになって、思いがけぬ拾いものだった。更に風穴ではもっと思いもよらぬ大きな収穫が待っていた。ミソサザイの発見である。普通この季節にはもっと高地でないと聴けないはずの、ミソサザイのあのれいろうとしたちょっと鳴き真似の出来ない可憐なソロを、逸早く橋本会長がとらえた。勘のいい先生はすぐ風穴の口の低温がミソサザイの営巣地に順応性を持つため、こんなところに安住の地を求めた所以と喝破された。するとこれを裏書きするように、風穴の案内者である歯切れのいい若者が、毎年ミソサザイが風穴の入口の巌窟天井附近に営巣するといいだした。そこで早速調べてみると、あった、あった。既に巣立ったあとではあったが、昨年のものらしい可愛いミソサザイのこじんまりした巣が一つ発見かった。これはホントに思いがけぬ大収穫というの外ない。一同意気軒昂。ミソサザイと信州味噌の話など、この鳥に関する話題がひとしきり賑わう。梢ではしたり顔にミソサザイの囀りが続く。楽しい野鳥の会万歳のひとときだった。
涼しさを ともに憩(やす)ろう みそさざい
帰りのバスにはまだ時間があるので、少しでも歩きながら、一つでも多く小鳥の声に接したいとの切なる願いから、バスは途中の路上からとらえることにして、ブラブラ歩く。ヤマガラなどガラ類の鳴き声をしきりに聴く。これは仲々聴分け難く、やゝ中級的か。珍しくゴジュウガラも聴く。高橋さんが到々本性を発揮して山荒しを始めた。日通トラックを呼べと弥次が飛んだりする。オオルリの美しい姿をハッキリと眼のあたりキャッチしたり、多いに得るところがあり、やっぱり歩いてよかったと悦に入っていたら、豈はからんや、やっときたバスが、藤岡老嬢の真赤なチャンチャコも眼にとまらぬ風にさっさと通り過ぎてしまった。一同がっかりしながら次の停留場、御殿庭まで歩き、一つ遅れのバスに乗車、おかげで本栖ロッヂでは、車を待たせて忙しい荷物運びをさせられた。先のバスから乗継いだ村の分別顔のお百姓が、身延線の連絡時刻におくれそうだったため車を止められなかったことわりを、運転手に代って何べんも繰返し弁解していた。これも地元人の観光客に対するPR精神の発露の一端か。
緑の褥に屯する放牧の牛の群を車窓に眺めながら、朝霧高原の起伏を突走ってバスは往く。白糸の滝を観て水しぶきの下でお昼の弁当を開く。わづかのひまも巡さず伊藤さんは太公望をきめこむ。富士駅から東海道線で帰路につく。各人それぞれの楽しい想い出の夢と収穫を胸に抱いて、今もなお耳もとに残る爽かな小鳥のコーラスを追いながら、裾野を巡る自然の宝庫に別れを告げた。(入江 記)
註 本文中、サンショウバラの「和名」について
生物名のうち我が国で用いられる標準となる名称を和名と云います。つまり図鑑に出ている日本名を和名と言うわけです。和名のことを学名と間違える事がよくありますが、学名は世界共通であって、これはラテン語を用います。学名にはその生物の属名、種名、命名者名の三つを記すのが普通です。
私がそこに三光鳥の一つがいを見出したのは、三年前の晩秋のある日であった。私は渡米のための準備も終って旅券の交付される日をもどかしい心持で待ちうけている頃であった。しばらく日本を去る前に、なるべく日本の伝統の姿をみておきたいというような感傷も手伝って私はその日嵐山から北嵯峨へ歩いた。葉桜をもれる日の光はもう初夏を思わせる程まぶしかったが、大覚寺の正宸殿の内部には静かな冷たい空気がただよっていた。私はうす暗い御冠の間にほのかに光る嵯峨蒔絵の柱からふと目を転じた時、すぐ足もとにその三光鳥を見出したのであった。ボタンの花の上をかすめるこの一つがいは明り障子の腰板にかかれたもの、多少図案化された姿は童画のように朗らかである。しかし雄が長く尾をひき、雌鳥のそれはやや短いこと、雄の眼のまわりの白い輪、後頭の小さい冠毛など、三光鳥の特長は忠実に表現されていた。私の興味をひいたこの絵については『光琳筆尾長鳥』という寺伝以外には何も知識が得られなかった。私もその後、この三光鳥のことを忘れてしまっていた。
三光鳥の古画
アメリカにいる二年間、私はその地の鳥に熱をあげた。『旧北区と新北区とはかつてベーリング地峡でつながっていたので、両大陸の鳥や獣には大きな類似がある』のを、まのあたり見るのがうれしかった。しかし、日本や印度の三光鳥に近い鳥は新大陸にはみられなかった。オクラホマ州の州鳥となっている『鋏尾のヒタキ』Scissor-tailed flycatcher はややこれに近いものであるが、ラシャ鋏のような長い尾羽を開いたり閉じたりし、また竹トンボのように舞いおりる行動、カ・クイー、カ・クイーとそうぞうしい鳴声など、日本の三光鳥をしのぶよすがにはならなかった。
その頃、日本の古美術の代表的名品が絵画、彫刻、工芸品と各分野からえらばれて渡米した。この名宝はボストン、ニューヨークと各地で展覧され、非常な好評を博して日本ブームをそそる一原因ともなった。私はその展覧カタログの中に大覚寺の『月夜のウサギ』の絵があるのを知った。しかしこのウサギとかの三光鳥の間に深いつながりがあろうとは夢にも気付くことができなかった。遠くはなれたワシントン州から大陸を横断して日本鑑賞にゆくこともできなかった。
私が次に大覚寺を訪れたのは、今年の秋も深いある日曜日の午后であった。かの寺伝尾形光琳筆の月夜のウサギは渡米して以来、日本国内でも有名になり、この寺の数多い絵の中でも目立った存在となって、案内の寺僧はいちいちその絵の前に拝観者を集めて説明していた。しかしその日の私の目的はかの三光鳥だけにあった。丁度その頃京都の国宝中でも『指折り』の秘宝が心なき若者によって傷つけられた事故があった以来、宝物の保管者は制限をもうけて、拝観者には従前のような自由と便宜が得られないことが多くなっていた。しかしその日私は寺務所から心よく尾長鳥撮影のゆるしを得ることができた。私は正宸殿の心おぼえの三光鳥の姿をさがし求めた。そして意外なことに驚いた。この三光鳥は、かの有名な月夜のウサギの一面の裏側に描かれていたものであったのである。くわしくいえばこうである。寺伝光琳筆月夜のウサギは十二枚の障子の腰板にかかれたもの、ウサギの数は合計十五匹、十五夜を暗示する数である。月はえがかれていない。ウサギの絵は廊下に面しているから、ここからは遠く比叡山から大文字山のあたり東山連峰の上にのぼる月がよく見られる。月をえがく必要はない。もっとも横に長い腰板のつながりだから、月をえがく空間がないといった方がよいかも知れない。そのウサギのあるものは上を見上げている。何をみているのであろうか。動物学的には多少の問題があろうが、まず月見のウサギの通称をうけ入れておこう。正宸殿の室内には一般の拝観者は入るを許されない。室の入口は太い竹で閉ざされている。特にゆるしを得て室内に入って腰板の裏面をみると、そこには花鳥画がえがかれている。腰板の一面毎に一つのテーマで、小鳥の姿は動的で、例外なしに皆とんでいる。翼を休めているものは一羽もない。ネコヤナギとスズメ、カキツバタとカワセミ。このカワセミは保存がよく体のひすい色とくちばしの紅があざやかである。その他ウグイス、ヒバリ、セキレイなど種類は多いが、絵画は全体にくすぶり、しかも採光のよくない室内では何鳥か即答しかねるものもあった。この花鳥画は廊下から室内を拝観してゆく者には目にふれる機会がない。たまたまこの障子二枚は竹の間と御冠の間をしきる通路にあったので、その裏面が三年前の私の目にふれたものであった。
三光鳥の撮影条件は悪かった。暗い室内ではピントを合せることさえむずかしかった。しかし鳥の目のまわりに胡粉でもり上げた白い輪が何よりのいい目標であった。だが次々と続く拝観者の足は、畳の上にぢかにおいたカメラをふるわせた。腰板の高さでは三脚を立てる余裕がなかった。裏面の一匹のウサギも神経質にじっと丸くうずくまっていた。
私の三光鳥の撮影はいつも苦労が多い。私はこの夏、富士の裾野で高田さんが立てて下さったブラインドの中で、巣をはなれた親鳥の帰るのを待った時を思い出した。その時はもう小雨さえ降り出して、林の中はうす暗く最悪の撮影条件になっていた。しかしそれは楽しい思い出であった。
この絵について私には一つの大きな疑問が生じた。寺伝では表裏共に光琳であるが、はたして表のウサギと裏の花鳥画と同じ筆者であろうか。ウサギは十二面で一つの構図をなしている。鳥の方は一面毎に独立した画題である。画風は?これは全くの素人の私にはわからない。晩年鞍馬口に住んだ光琳には園中の植物を写した写生帳の一巻があるが、これにどんなものがえがかれているか知りたいものであるが、個人の所有のこの写生帳は容易にみる機会がない。とも角ここの腰板の花鳥画の植物は中々種類が豊富である。
廊下に立つと嵯峨帝と空海が当時流行した悪疫退散を念じて納められた般若心経を秘蔵する勅封心経殿がすぐ前にのぞまれる。その八角の軒端につるされた風たくからは、どれもが枯草のかたまりをのだかせている。夏にはそこにどんな鳥が巣をするのか、これも来年の楽しみである。私は五大堂の方へ廻わり、そこの縁端に立って秋の水を満々とたたえた大沢の池の面を眺めていた。ふとあざやかな青緑色が視野を横切った。カワセミである。それはつい今しがたあの暗い室でみた、あざやかな色のカワセミが黒ずんだ絵画からぬけ出たような錯覚をいだかせたのであった。
この小篇を書き終えて、私は手許の古美術書をひもどいていたら、大覚寺宸殿のボタンとヤマドリの図がのっていた。これは寺伝のみならず、その道の人の間でも、狩野山楽の筆としてもっとも信ずべきものとされている。その一隅に小鳥、しかも尾の長い鳥がとんでいるのが目についた。写真では何鳥か判明しないが、このボタンの上にとぶ尾の長い小鳥はすてておけないとゆう気になって、早速その翌日暇を得て大覚寺を再度訪れた。晩秋の土曜日の午前で、寺では嵯峨菊の展観の催しの最中であったが、早朝のこととて寺内は人影もない静けさであった。寺僧は心よく宸殿正面の間に案内してくれた。そこには折からの催しの宮中観菊の場面に飾られて、等身大の御所人形が座っていた。金箔の大ふすまの中央には今日もボタンのかげにヤマドリが八羽の雛を育んでいた。ボタンの一枝に、オオルリの一羽がとまり首をかしげてそれを見おろしていた。はるかその石上鴨居に近く三羽の小鳥がとんでいる。いつもの室外からの拝観では全く目にいらぬ小鳥の姿であった。明るい懐中電燈の光にうき出たその小鳥の姿は、頭から背がうす黒く、のどから腹は真白である。三光鳥でないことだけはたしかである。エナガか、ヒバリか?私はふとサンショクイを思い浮かべた。この鳥は勿論あまりよく描かれる鳥ではない。しかしこのオオルリを描いた画家ならば、サンショクイも知っていたであろう。ボタンの花さく五月の空をとぶこの姿の鳥としてはそれ以外の鳥の名を私は思いあたらなかった。その日私は数多いこの寺の花鳥画をも一度拝観したが、三光鳥はかの明り障子の一つがいだけであった。
一、秋の田のゆたけき空を白鷺の
群れて立舞ふ姿やさしも
一、気づかひし浮き雲はれて月の夜に
おもむき添へて雁なき渡る
朝の光木の間よりさす山小路
四十雀の雛がとびかひている。
鳥鳴けば立ち止りつつ笹百合の
稀に咲きたる山路を行く。
雨に青葉色増す山に真むかひて
筒鳥の声に親しみている。
カケス鳴き入りし杉の木に
まつわりて白し玉葛の花。
カッコウのふた声遠く鳴きにけり
夕雲の赤消え行きにけり。
今年の春ももう終りに近づいた或る日、知人からの封書にトキの切手を見付けた。言うまでもなく今春開かれた第十二回国際鳥類保護会議の記念切手であったが、その時急に鳥の切手を集めてみようと思い立ち、早速市内の切手屋を数軒廻り歩いて数十種類集めることが出来た。日本のものは南画のような清楚なものが多く、それに比べて外国のものは油絵の如く色彩の派手なものが多いが、中には鳥類図譜に出ているような精巧なものや、又全く図案化されたものもあり、切手に学名の記載されているものとないものがある。従ってこの稿も頭初は之等数十枚の鳥名を調べ、国別の特徴を調べようと思っていたが切手屋が最新判の年鑑を貸してくれない。従って最初の計画を変更してアメリカ文化センターにある1955年版の Scott の Standard Postage Stamp Catalogue の中から鳥に関するものを拾い上げ別表の如き一覧表を作ったが、勿論正確な学名を調べ得なかったことをお詫びして又の機会があれば1955年以降のものについて調べてみたいと思っている。
鳥 名 | 国 名 |
ワシ | 米・アルゼンチン・アンドラ・アルバニア・ハンガリー・イタリー・コロンビア・チェコスロバキア・リベリア・メキシコ・オーストリア・ポーランド・パラグアイ・ドイツ・リヒテンスタイン・アフリカ |
コンドル | アルゼンチン・ボリビア・コロンビア・エクアドル・チリ |
タカ | リヒテンスタイン・チェコスロバキア |
ハヤブサ | アイスランド・リヒテンスタイン・チェコスロバキア |
コウノトリ | ウルグアイ・西アフリカ |
カーグー(Kagu) | ニューカレドニア |
サギ | 米・ボリビア・レバノン・リベリア |
アジサシ | キューバ |
カモメ | 米・トリエステ・クラカオ・マーチニーク・リヒテンスタイン |
白鳥 | オーストリア・オランダ・フォークランド |
カツオドリ | カナダ |
ペンギン | フォークランド |
軍艦鳥 | ジルバートエリス |
ペリカン | パキスタン |
ガン | 南アフリカ |
アホウドリ | ウルグアイ・リベリア |
ミヅナギドリ | オセアニア |
シギ | ハンガリー |
ウ | イフニ・アフリカ |
カモ | デンマーク・カナダ・フォークランド・支那・アルメニア |
ニワトリ | 米・フランス・アルジェリア・ブルガリア |
トウカン(Toucan) | ボリビア |
ハト | 米・オーストラリア・イスラエル・朝鮮・ポーランド・ポルトガル・スペイン・ロシア・ルーマニア・ドミニカ・パラグアイ・チェコスロバキア |
フクロウ | ホンジュラス |
ツバメ | 米・リヒテンスタイン |
カラス | オランダ・オーストリア |
ワライカワセミ | オーストラリア |
コトドリ | オーストラリア |
エミュ | オーストラリア |
七面鳥 | ソロモン・フォークランド |
極楽鳥 | ニューギニア |
クジャクバト? | ニュージーランド |
オオム・インコ | ニュージーランド・アフリカ・北ボルネオ・トンガ |
奇異鳥(Kjwj) | ニュージーランド |
クジャク | 北ボルネオ |
サイチョウ | 北ボルネオ |
巨鳥 | アフリカ |
カナリヤ | リベリア |
ダチョウ | リビア・東アフリカ |
オナガドリ(土佐) | 日本 |
ハト | 日本 |
ガン | 日本 |
オシドリ | 日本 |
ホトトギス? | 日本 |
トキ | 日本 |
市内関係
4 大正区鶴町
明治以降の大阪築港工事の埋立地で、そのむかし田辺福麻呂が「潮干れば葦辺に騒ぐあし鶴の、妻呼ぶ声は宮もとどろに」(万葉集巻六の中)と詠んだあたり、相当数の鶴が群棲していたようで、大正8年3月にその歌に由来して地名が定められた。
5 同区鶴浜通
当地名については、地名設定の際、鶴町の西側にあたり、大阪湾に面する海岸線に位置するところよりかく名付けられたものと推察されます。
6 東淀川飛鳥町
当町名は、大正14年4月市域編入のとき、旧西中島村大字南方新家を改称したもので、単に佳名として選定したことが区史に所載されています。
7 北区鶴野町
現在の梅田東方面は、明治初年の頃まで見渡す限りの原野で、春は草花が競い咲き匂う、秋は七草と月景色を賞でる、都心住民の憩いの場とされ、それに伴い料亭が風雅の客を招くことは今昔に変りなく、いまに名声を残す鶴の茶屋、萩の茶屋、車の茶屋は町名とまでなり、この附近を鶴野町、茶屋町と呼ばれるとか。究極、料亭に付けられた鶴の名は、わが国古来の縁起佳名が由来するように見受けられる。
8 浪速区鶴町
この地で古くから歌われる子守歌に、
ネンネころいち 天満の夜市
大根そろえて 船につむ
船につんだら 何処まで行きやる
木津や難波の 橋の下
橋の下には 鴎がいよる
鴎とりたや 網ほしや
と言うのがある。大阪地図を拡げてみると、当区の西端を南北に木津川が流れているのが良くお分り願えるが、この流れに鴎たちが、捨餌に来ては遊びたわむれていたのが、地名に冠され残ったものと推定される。
9 福島区鷺洲
この辺り一帯は、今でこそ高層ビルが建ち並び、想像にも一寸困難なのであるが、そのむかしは広大な田畑であり、農耕地につきものの鷺が、その採食に随分おり立ったものらしく、一見望観するところ丁度州の形状を呈したことから、土地の住民は此処を鷺洲と呼んだと伝えられる。
10 此花区白鳥町
正式には四貫島白鳥町と言うそうである。古にこの地に溜池があり、あるとき、この芦原から霊相白髪の老人が顕れ、“われはこの辺りの地護神”と宣い、住民の祭神とあがめられたが、その際、この神の使いなる白鳥が飛び立ったとの伝説にもとずき名付けられたと区史の所載があるが、恐らく当地の住民に珍しい白鳥の飛来が、かく原因したものと考えられる。
府下関係
4 堺市鳳(オオトリ)町
御存知の官幣大社、大鳥神社の所在地である。もっともこの地に鳳の字が当てられたのは極めて新しいことのそうで、大体は大鳥であったと言われる。大鳥が鳳になったのは、そもそもに大鳥神社の神宮寺が神鳳寺であり、鳳の字があったことに由来するものらしい。ところで大鳥の語源をたずねると、日本武尊が父天皇の命に従われ、九州の熊蘇を征伐、また東北地方の賊を平らげられ、現在の滋賀県伊吹山まで帰られたところ、山中の毒気に当られ、“ノホノ”と言う地で不幸病にたおれられたが、そのみ魂が白鳥となって飛び、この地に落ち着かれたので、里人がこの白鳥のため社を築きお祭り申し上げたのが、此処大鳥神社の故事来歴と言うことである。
5 貝塚市鳥羽
この地域は旧熊野街道に沿う地点にあり、往昔、宇多法皇に初まり、のち白河法皇、また鳥羽上皇の尊貴の方々が、熊野詣での御幸しきりとされたことから、現在の地名威立が一応伺われるようである。
なお土地台帳をひもとくと、鳥羽社の小字が見受けられるが、鳥羽上皇にゆかりの小社遺跡も多分何処かにのこるのではないでしょうか。
『訓蒙図彙(キンモウズイ)』 十九巻 寛文6年(1666)
この書は日本最初の図入り百科字書ともいえるもので、巻十三の禽鳥部には、鳳凰以下約七十種の鳥が図示される。但し和漢両様の鳥名が対評してあげられるだけにて、解説までには及んでいない。
この書はその後百年に亘り次第に増補され、『頭書増補訓蒙図 大成』と、主題まで改められたものは、すでに元禄8年(1695)に現われており(上野図書館白井文庫蔵)、それには、各の種の解説が頭書に加えられて来ている。今日普通に見られるのは、寛政元年(1780)の増補版であるが、元禄版に比較すれば更に増補され、鳥数は約百種に及んでいる。
こゝに掲げた筆者架蔵のものは、以上二種の増補の加えられぬ元始のものであるが、刊記が記されぬところを以ってすれば、三百年前の初刷りでないことは確かである。しかしこれを静嘉堂文庫(東京、多摩川在)所蔵の初版と比較すれば、最初の版の姿はうかがえるものの様である。この初版本の、鳥に関係する上から価値ありと思われる点は『呼子鳥』(寛永7年1710)以前にあって当時普通に知られていた鳥種があげられていることであり、またそれが図示されている点にある。
今日にあっては、この初版本は容易には見難く、東京にては上野図書館にも蔵するものなく、前記岩崎家の静嘉堂文庫に、辛うじて保存のよき版を見出したに過ぎぬが、それとても、白井光太郎博士が『日本博物学年志』(昭和9年増補版)に記される、「初版には、薄様摺極彩色の本あり、十五巻に分綴し、半面に二図を刻し、彫刻の精さ極む」という、その立派なものではない。白井博士は勿論この版を見ていられるに違いないが、博士の蔵書がそっくり移されている筈の、上野図書館白井文庫の中には見られない。この極彩色本には遂に御目にかゝれずにいる。もしや、関東震災や戦災に会われなかった御地京都にあっては、或はこれが見られるのではないかとは、常に頭にあったので、御誌第8号の原稿募集に思いついて記してみた。(東京支部会員)
取引先の青年で、Dデパートに出ているS君が伝書鳩に凝り出したのを機会に、永年飼育の二羽のメジロを貰い受けたのは、遅い御室寺の桜も散り果てて、古都京洛三面の連山が崩黄の一刷毛に塗りつぶされた或る晴れた日の夕方でありました。
「四年と二年ものです。よく張ります。どちらもおとりに使っていたのですが……」と話しては呉れても、勿論私にはかご鳥としての野鳥への感興は毛頭覚え得ないのです。
只この鳥よりの連想から、三十余年のその昔、軒端につるしたメジロ、ヒバリ、ヤマガラ、ホホジロ等への給餌に、私に代ってよく面倒を見て呉れた今は亡き母の姿が……、老眼鏡をかけて陽影の入りこんだぬれ縁で、すり餌作りにかがみこんでいたその母の後姿が、まるで昨日の様にあまりにもくっきりと思い浮ぶと共に、その頃の覇気一本に生きていた私も現に老眼鏡をかけ始めた年令を思うと、今更乍ら無量の感にしめつけられるのでありました。
実のところS君の贈意を快受した理由としては、私がかつて籠中転鳴を求めた同族幾代かの子孫に当るであろうこの二羽のメジロを、一日も早く自然のふところにかえらせることを、せめては一分の罪の償いに充当したい、と思うてのことでありました。
加茂川のほとりと云っても狭い家並の建込んだ京の中心、どんぐり橋畔のS君宅に飼い込まれて、都塵に染り切ったこの二羽の小鳥も気澄み緑の色の目にしみる丹波の拙宅に居を移したら、程なく自然の姿に還えるであろうと楽しみながら、そっと軟かに胸に抱きしめる思いで帰宅すると、早速中庭のサザンカの小枝につるしたのでありました。
この庭のメジロ……、四年ものと云うのに尾羽がささらの様に擦り切れた一羽の方が、なお人に親しまぬ一片を残しているのに較べると、子飼いらしい方の二年ものには、容姿も端麗その眼元にも淑やかな処女の清楚さが読みとれて、全く恐れを知らぬ幼児の純心さを思うのでありました。
一週又一週と、従来給与の三分の餌料から自然のそれに還元を考えた私は、その体力の増強をも考えて、時に蜂密の少量を与えつゝ以後は折々の果物を主体に、五分の摺餌を縦として参りましたが、なおその上に、ハイ、クモ、アオムシ等の生餌をも給すると共に、翼力の増強を図って従来の13×24×16pのかごを17×28×22pへと大きくしたのでありました。
葉桜の候はもうとっくに去って、全面の天神山には今日も又天に突きささるキジの雄叫びが聞えていましたが、清い淵の香魚の躍りを伝える遠来の魚信も、一段落を告げたそれは6月の半、朝の水浴の時でありました。逃れて中庭に出た四年ものは、性悍なるになお地上一尺の下をさらさらと這う様に飛んで、犬舎の横の柱のかげに身を伏せたのでありました。
全く四年間のかごの中の生活ならぬ生存は、二ヶ月余の留意では尚救い得ぬまでの退化を来していたのでありました。
ここで私はかごの大きさを、更に大きく20×30×22pとしたのでありました。
トマト、真桑瓜、西瓜、桃、葡萄、無花果とつないだ主食を、熟柿に切りかえ初めたある秋の一日でありました。朝霧で名高い丹波には珍しい朝からの快晴の日でありましたが、朝の水浴時に又もやあり、と云う間に逃れ出た四年ものは、一間半もある高塀をひらりと越えると、巾広の道路をも横切って隣家に接した今ふくいくと匂う木扉の大木に飛び込んだのでありました。
全く以て偶然の事態から認め得たその体力の回復について、見守り続ける愛児の成長を喜ぶにも似た心の満足から、歓喜と驚嘆に涙の出る様な感激をも覚えたのでありましたが、心のどこかでは期していたこととは云いながら娘をとつがせる親心にも似た、矢張り手中の玉を落としたような一抹の淋しさをも噛みしめたのでありました。
予備校通いの長男の貞昭も、高校一年の次女の孝子もそれに小学校三年の二男の貞和も、妻のユキ子までも揃ってこのモクセイの下に集って、手の届きそうな所を小枝から小枝えと移りながら、しきりと何かをつついている目白の動作をみつめているそのにこやかな瞳から私は、誰も彼もが心の底からこの鳥の自然界への旅立を喜んで拍手を似て見送ってやりたいと思う温かさを読みとると今度はほのぼのとした平安一本の心に、微笑が湧いてくるのでありました。
この半日をこの一樹に送った四年ものは、三間離れた隣家の松の梢に飛びわたると、次は大自然の樹緑に、眠りつづけた野生味を呼び起こされたものでありましょうか。しゃくった様なメジロ特有の飛び方で、はるかな園部公園の樹林に吸い込まれて行ったのでありました。
この日は又奇しくも母の命日を迎えて、その三回忌の法要を営まんとする記念の日でもありました。
それからかれこれ五十日、残りの一羽を又野山にかえす日の大きな楽しさを想い乍ら、家族揃って何かとありったけの愛情を注いだのでありましたが、単鳥となってからの二年ものは、悲しくも孤独になった淋しさがその因となったと解する以外は、解き得ぬ疑問の中に何とはなしに精彩を欠いて行くのでありました。
それは又とてもこらえ切れない早寒の、この初冬二度目の降霜を見た日でありましたが、その夜不思議と目ざめた私は、かぼそいメジロの四五声を耳にしたのでありました。一鳥叫断して夜寥々……、その後は妙に気が高振って遂に眠り得ませぬそのままに、夜明を迎えたのでありました。
何はさておいて気掛りなこの鳥を見舞った私が、そのかごを手に持つと同時に止り木よりポトリと落ちると、二度程くちばしを開閉いたしましたが、既にして鳥魂は空に飛んで、私の掌には殆ど重量感を覚え得ない一個の変り果てた姿として残ったのでありました。
これをしも……、恋人の愛の手に抱かれて永遠の眠りにつかんことを希いつつ、「ろうがい」に病み衰えた麗人が、一るの愛情に生命をつなぎとどめ待っていた……と解したい私は、今日又直面した生々しくもいとしい一禽の魂に深い感銘を覚えるのでありました。
それはまことに悲しい初冬のその日の朝でありました。私達一家は先に送った一羽への祝福を、今日は残った後の一羽に、三途の旅路の平安の祈りにかえねばならぬと云う浮世の無常さに、生者必滅とは云いながら何故にかあきらめきれぬ心のしこりに苦しむのでありました。
末子 貞和の提案で、心ばかりの墓じるしをこさえると、黄菊の乱れ咲く畑の一隅に、二つ並んだ愛犬の墓標に並べて、香をたき菊花を手向け、供物を供えて揃って合掌したのでありました。
今更の如くに鳥に結ぶ愛情の深さと共に、一獣一鳥の魂の貴さをありがたく思い乍ら、合掌再度しつつ、この駄稿を結ばせて頂きます。 四年以前の日記より
さく、さく、さくと、心地よい火山砂を、みにはずみを持たせながら、そよ風に鳴く、あをじ、こるりの、声もさわやかに、さんこう鳥の巣の在所いづこと、須走口を登りゆく。
富士桜、つゝじ等の花も終り、緑一色に、山麓は青葉の候である。空木、あざみの、白い花をあかず眺めて居ると、しげみにまじり、秀出で、淡紅色単弁、大形の、花が目にうつり、一同の足をとめる。高田さんに、お尋ねすると、
この地方では、この花を東宮ばらと、言いならして居るとのこと。……その昔、大正天皇、未だ東宮にあらせられしは、富士の裾野の、陸軍大演習に御参加になられた。日夜戦線を御統監され、しばし道の辺に御憩いになられた砌、野草の中に、ふとお目にとめられ、この花をこよなくお嘉賞されし由。その後誰云うとなく東宮ばらと呼ばれる様になった。この花の持つ可憐さと、陛下の御薄命と併せ、転々寂寥の感にひたった次第である。なるほど、よく、しげみを観察すると、見上げる様な高枝に、又物かげに、淡紅いろのなまめかしさの中に、簡素とれい弱さを、風雪に耐へて居るかの様である。
翌日、山中湖畔、朝日ヶ丘で、バスより降立つと、ホテルの庭前を、白樺と共に飾って居る、一際立派な大木の、東宮ばらを見た。年度の富士山麓行に、野鳥と共に忘れられない花の一つであった。
帰宅後、学名を調べて見ると、サンセウバラと言い、その葉は、サンショウの葉に髣髴して居り、高さは六米以上にも達し、恐らくバラの中では、丈高きものゝ一つであると記るされて居た。分布は、日本の中部地方のもので、箱根にもあり、富士山麓では、各所に自産しありと。
去る9月18日住吉浦に於ける九月例会の折、大阪野鳥の会との交歓にいつもの通り自己紹介がありその際烏賀陽さんが「精薄組の生徒です。どうぞよろしく」と仰言った。えたりかしことばかり私も早速同調して「精薄組の劣等生です」と申しておいた。
会へ入れていただいてもちっとも鳥の勉強をしないからいつまでたっても劣等生である。烏賀陽さんが仰言ったのは謙遜だが私は全くその通りである。しかし鳥が好きだという事に於ては会員の方々に負けないつもりだと生意気にも自負している。「三光鳥」第7号に、何故私も含めて会員の皆さんが鳥がお好きなのか究めてみたいものといっていたら、恰もそれに答えていただくかのように、同じ号に伏原氏が蟻浴説を掲げておられて正にこれだと思った。諸手を上げて蟻浴即ち鳥浴説に賛成である。序でながら「三光鳥」誌の内容の充実、そして又投稿された諸氏の文章の巧さには舌を巻いた。私など恥かしくて投稿できる柄ではないが敢えて心臓を強くしている次第。内田博士とか中西会長とか鳥の権威は文章にも堪能な方ばかりであるが、決して京都の方々も優るとも劣らぬ麗筆振りで、私はたゞあれよあれよと感心するばかりである。
会員の方々は実に千差万別、性・年令・職業・地位身分等々皆全く違っている。だのに会はいつも実に融然、和気藹々の気に満ちている。趣味と関心とを同じくする者の集まりだから当然といえばそれまでだが、およそ何の趣味お娯楽や会でも、それが趣味なるが故にあらゆる階級・階層の人から構成されて然るべきだが、思うにそれでも略々年令とか性別とか身分穢業とかが似通っているものである。むしろそういった点に共通点があるからこそ趣味も一致してくるといえる。例えばゴルフといえば私などの素寒貧はまさか仲間入りできまい。ところが野鳥の会ではそうではない。動物学専攻の大学の教授、医師、高校の生物の先生、公吏、糸へん問屋の若旦那、会社社長重役、BG、はては私の如き市井の一介のサラリーマン、或いはお寺の和尚さん等々実にバライアティに富んでいて色トリドリである。しかも男女両性会員中にあるのはいわずもがな、年令も明治生まれ、大正生まれ、昭和生まれ、それらをひっくるめて戦前派とするなら、戦中派や戦後派、更には新戦後派にいたるまで大げさにいえば明治以後の歴史を見るようなものである。専門の動物学の人は勿論だが、その他の人すべて伏原説即ち鳥浴説(詳しくは「三光鳥」第7号御参照の事)の範疇に属する人人である。専門に動物なり鳥なりを選んだ人も、それを専門に選んだ事自体蟻浴派の第一人者と見られるのではなかろうか。(こんな失礼な事を申上げて会員の方々にお詫びしたい。)したがって入会の動機も皆鳥浴行動の目的意議性の具体化と見たい。
こゝで話を元へ戻して何故京都野鳥の会がかくも和気あいあいの内に行われるかは、結局蟻浴として鳥浴を行うという共通の目的と行動とがある故であり、そして鳥浴行動は他のあらゆる趣味行為にありがちの利害や打算の入りこむ余地のないが故であって、俗臭を除いた鳥浴を求めるという点で他のあらゆる人種から劃然と区別される。会員以外の輩から時には会員の家族からすら往々変人扱いされても、決してさにあらず。変人どころかこれほどまともな会はないと思う。このような和やかな雰囲気はちょっと他では見られぬといっても過言ではありますまい。会長はじめ会員諸氏の人格の然らしむるところであるが、これほど民主的によくまとまった会は他に見当たらないであろう。誰でも世に生きて行くにつけ蟻浴行為が必要だが私共にあってはたまたまそれが鳥浴という形で現れただけだが、第三者にはそれが奇異に映ずるらしい。円満なる常識人である会員が唯鳥浴するとなると一生懸命にやるまでの事である。決して決して社会生活のルールからはづれてはいない。
扨、その鳥浴も指導する側の先生方もあれば、まだほんのひよこで蟻浴の仕方も知らずこれから会員の鳥浴指導の先生方に大いに学ばねばならない組だってある。しかもその鳥浴方法の覚え方が甚だ悪いためにとうとう精薄組編入と相成る劣等生が即ち茲に言う私たちである。(複数にしてはいけないかな?)もっとも本来の蟻浴鳥浴よりも山登りに求める会員もある。ひたすらに山に憧れ山を愛し、鳥は山の一点景と見る派もあるが、私はそれでもないらしい。
大体私の幼い頃はまだ京都には住まず、枚方のなだらかな丘陵地の山のふところにかなり広い敷地を持った家で育った。その家の以前の持主が殊のほか動植物の愛好家否それ以上に研究家であったらしく、私は会った事もないその人の影響を少なからず受けたことは確かである。それに私の祖父や離れ家を貸していた老夫婦が菊を作ったり朝顔を作ったり鈴虫を飼ったりしており、幼い私を自分の好む領域に引っぱりこもうと懸命であった。大勢の孫たちや近所の餓鬼共の中から、私を仕込み甲斐のある奴だと見込んだのかもしれない。その庭は実に多種多様の植物があった。まるで小さい植物園みたいだった。蛇の如くうねらせて育せた大きな松を庭の中心に、梅・椿・桜・桃・れんぎょう・木蓮・金銀木犀・富有柿・楓・山茶花等々しかもそれらも他品種に亘っていたため、四季の変化が居ながらにして楽しめるように工夫されていた。そしてこれらの樹木が配置よく植えられている根元には、オキザリスだの日照草だの各種の庭ごけだのがあり、庭をはづれた畑地には何十種の草花が一年生であれ多年生であれ栽培されていた。球根ものや多年生のものは私共が住むようになってからも、手入れせずとも毎年美しい花を娯しませてくれた。例えばあやめ等がそうであった。尚このほかに蔬菜を作るための土地もあった。別に食糧不足の時代ではなかったが村の人に来てもらって茄子やトマトの種を蒔き、それを育てたものであった。毎夕水をやるのが私の役目であり日課であった。此の畠のすぐ後ろはもう山であって萩を主とした灌木につづいて山の茂みとなった。その奥には菅原道真が九州へ流される途中立ち寄ったという古家があり土地の人は菅相塚と呼んでいた。
以上のような環境なので山の動物たちで庭は賑わった。むかでや蛇の多いのには辟易したがその代り、色々の鳥が入れ替り立ち替りやって来て存分に私をたのしませてくれた。春先には鶯、母は「梅にうぐいす」の故智通りうぐいすは梅にばかりは止まらないものだと言って皆を笑わせたり、何の木だったかとにかく背の高い太い木の幹にきつつきが穴をあけていたりした。その頃は家族の誰も鳥の名とて知らず庭へ来る鳥ではうぐいすやもずのほかは皆目わからなかった。編隊を組んで高空を行く群、多分雁や鴨だったのであろう、を見たのもその頃だったし、当時講談社から出版された絵本で「鳥のいろいろ」を買って貰ってその絵を食い入るように眺めたのもその頃だった 荒木十畝画伯その他の画伯の絵で、目白やかけすの絵があった事も憶えている。どなたかこの絵本を持ってられたら見せていただき度いものと思う。当時私は絵を描く事が好きで庭の植物や動物をよく描いたが鳥だけは、すぐさま飛び立ってしまうので写生できずいつも残念がったのを憶えている。
京都へ越してからでも、鞍馬口堀川あたりが今ほど開けていなくて寺あり神社ありで森多く、色々の鳥が居た事をよく憶えている。家の前の川ではせきれいがいたのも忘れられない記憶の一駒である。現在はこの川が地下に潜り木は減り森は道路となり、自動車とバイクの音のみとなり今日此の頃ならもずや鵯位のものである。古い話はこれ位にしておこう。だけどこれは精薄組劣等生の生い立ちの記であり鳥浴実行の由来である。
鳥に縁なくすごした戦争中に人生で最も大切な心身の成長時代を終えたが縁なきにしもあらず、即ち旺盛な読書欲と知識欲とは学徒動員で工場で働かねばならなかったにも拘らず、寸暇を読書に費やし、勢ひ鳥への憧れを本で満たした。敗戦間近となり各地で爆撃のため工場が壊滅ししたがって部品の補給が途絶えて、毎日工場へ出勤しても仕事がなかった。これ幸いとばかり、北原白秋の「雀の生活」、内田清之助「鳥」、内田清之助「旅と鳥」等々を貪り読んだものであった。丁度その頃、仁部富之助「野の鳥の生態」、下村兼史「野鳥図鑑」等々購読したい書物の数々を書店で見たが、小遣いがなくて結局あきらめた事は今以て残念で仕方がない。何とかして買って読んでおきたかった。「慈悲心鳥」という文化映画(短編記録映画を所謂「映画法」時代の当時はこう呼んでいた)を見て驚愕と感歎とにひたったのもやはりこの頃であったと思う。
戦後リュックをひっ下げて主食の買出しにあちこち彷徨したが、米が安く買えるとて鳥取の山奥へ行き山道を歩いている時何鳥だか知らないが聴いた鳴声程当時の私のカサカサの心にうるおいを与えてくれたものはない。ずっと最近になり大学時代にアルバイトに北海道へ行ったことがある。千歳から札幌までのその当時まだ工事中の弾丸道路を、荷物と共に小型トラックで走った事があった。途中一服した時はるかかなたの原始林から聞こえて来た郭公の声も忘れられない。北海道の大自然の中に身を預けてしばし我を忘れたものである。かくして京都野鳥の会に入れていただいたのが二十九年、就職してからというもの仕事を覚えるのに精力を費やされたためか野鳥の会の例会通知をいただいても日曜となれば唯茫然としていたのみであったが、去年から俄然自ら積極的に鳥浴に出かけるようになった。蟻浴の一方法として鳥浴がやはり私には向いていたのであろう。而して鳥浴の先生並に先輩の御指導を仰ぎつゝ現在に到る。
最近制定をみた京都野鳥の会会則によると、先づ冒頭に「主として自然科学的な観察研究を行い」とある。野鳥の会の会則ともなれば当然謳わるべき辞句なのだが、私共精薄組は到底「主として自然科学的観察研究」は覚束ない。たゞ鳥を山野に探索し鳴声をきゝ姿を鑑賞して無上の喜を味うのみ。鳥自体詩であり鳥を愛する事は芸術に畢意すると考えるのみである。既に入会を許されているのだから精薄組にも羽を伸ばせる広い席をいつでもそっと与えておいていただきたいものと希望する。会の皆様方は御世辞ぬきで皆全く良い方ばかりである。鳥を愛する人に悪人は居ない。指導よろしきを得ていつか精薄組の劣等生が優等生になり遂には普通のクラスの一年生になれるかもしれない可能性だけはある。可能性の実現は先生方の温き御指導と私自身の努力とにかかって不用と思う。主として自然科学的でなくても主として鳥浴主義者の端くれである私共に対して御指導御鞭撻をお願いしてやまない次第である。
それにしても近頃心配なのは、一部のゴルフ族がゴルフに飽いて狩猟族即ち鳥類虐待族に変貌しつゝある世相である。金と暇とがある御仁がゴルフを卒業して次には「鳥打ち」だと仰言る。慄然とせざるを得ない。さなきだに減少の一途を辿る鳥を更に絶滅に追いやるとは正に悲憤慷慨以外の何物でもない。此の際日本国中の野鳥愛好家が打って一丸となり「狩猟法」という名そのものからして消極的な者でなく、「全鳥類保護育成法」立法に対する政治運動を起こしては如何。鳥打ちで食べている人の生活権の問題は深刻だが、これは極めて政治的な問題であり国家の施策で充分解決し得る問題だと思う。罰則も徹底的にきびしくやればよいだろ。江戸時代或いはそれ以前、鳥が多くて困ったなどという羨ましいような話をせめてうらやましくない程度にしたいものである。
最後に蛇足ながら鳥浴行動に逆行する私自身の経験を聞いていたゞく。というのは、時たま鳥の脚を見てぞっとする事がある。爬虫類から進化したものである以上当然かもしれないが、脚をみてただちに蛇を連想しないまでもあの鱗の感じから起る共通の恐怖が、鳥の脚を見て居てふっと蘇ってくるのかもしれない。だけどそのゾーッとしたのもすぐ消え去って忽ち鳥の可憐さに魅せられてしまう事も亦事実である。どなたかこのような御経験の持主はおいでにならないだろうか。或る映画女優の新聞記者のインタビューに対する答に嫌いなものは鳥ですといっていたのがあるが、案外私と同じ経験によるものではなかろうか。
鳥を観た楽しさをいつまでも温存しておくために画を描いたり、写真を撮ったり、或は記録したり、等種々の手段があるが、そして詳細な観察記録や写真撮影等はいわゆる自然科学的観察研究の一助たり得る場合も充分あるであろうが、私は自然科学的方法とは全く相反する仕方で「鳥とのたのしさ」を大事に保存しようと試みている。即ち鳥の俳句であり、俳句が或程度上手になれば次には川村先生がなさっているように和歌に謳ってみたいと思っている。勤めている会社の句会で粟津松彩子先生に採っていただいたり添削していただいた句を左に掲げて、会員の中で鳥の句を能くなさる方方から忌憚なき御批判と御叱正とを期待している。下手なのを承知の上で敢えて心臓に何層も皮を張って皆様の前に提出させていただく。発表しなくては下手さ加減もわかってもらえぬからである。
降る雪に浮寝の鴨の羽搏ち立つ
頸すくめのばしつ鴨や粉雪なか
波立ちて幾十の鴨声せわし
炉辺にねて外に粉雪や鵯なけり
白鳥の帰りゆく空粉雪なほ
白鷺のとんで堤の花いまだ
湖の雨止めばきこゆる春千鳥
花曇り千鳥しきりに鳴きにけり
紅うつぎ手折らむとせばかけすとぶ
ほとゝぎす雨の宿院泣きわたる
夜鷹なき山寺はまだ霧の中
ほとゝぎす比叡の霧のなほも濃く
巣ごもりの三光鳥の背をまるめ
洲をかえて千鳥せわしや秋の湖
秋千鳥まろびつ駈けつ千鳥かな
金刀比羅へ登り終りて鵯をきく
右に湖左に比叡稲雀
たわむれし鵯が木犀こぼしけり
毎回折角鳥浴に参加するのだから鳥浴の効果を何らかの形で確認したいと思うのだが、学問的には即ち自然科学的には全然為し得ず、かと言って写真も高田氏のように上手には到底撮れず、上村画伯のように絵には勿論できず、結局私が選んだのは俳句であった。秋桜子氏や故春湖氏、会員の大中氏・伊藤氏、或はまた橋本会長の方々のように立派な句が作れたら私の鳥浴記録も充実するのにと思っている。何卒御指導賜らん事を切にお願い致し度い。
以上とりとめもなく書いたが、具体的な鳥の観察記録や報告もできず、一会員の戯言と一笑に附し黙殺していたゞければ幸いである。日本野鳥の会の本部並に各支部の方々が若しこれを読まれたら京都野鳥の会の面汚しにならないかとそれを心配しつゝ筆を擱く。 以上
三年前のこと、比叡山無動寺谷へ鳥声録音に行った時は、その鳥類の豊富さと鳥声の美しさにこうこつとしたものであった。今年の同じ頃、坂本で一泊した私は、一番のケーブルで、同じ事を期待し乍ら同じ場所へ行って見た。しかし、最早あの時の鳥の声は聴くことが出来なかった。おびたゞしい観光バスとガソリンの臭いの中で、なんともうらめしく思ったものである。西山にドライブウェイが作られる計画が着々進められて居るとか、京都の財源ならば致し方ないとしても、せめて西山だけでもそっとして置いてほしいと思う。
四年前、嵯峨野でフクロウが鳴いて居た。其の翌年も鳴いた。寝つかれないまゝ、又今年も来て居なさると、其の二声三声をなつかしく思ったものだったが、一昨年の夏からぷつつり聞かれなくなってしまった。同じように五月末頃から、盛んにアオバズクが鳴いた。
仕事で遅くなった夜半の帰路に、二羽くらいが頭上の電線に止って居たこともあった。それが昨年は一夏中に二度くらい、今年は残念乍ら一度も聴くことが出来なかった。私の会社に大きな螢光灯があって、夏になるとたくさんの昆虫が飛来する。ヤママユ、オオミヅアオ、など一夜に十数頭も来たことがあった。それも今年の夏頃から、一、二頭を見るに過ぎなかった。アオバヅクはノネズミ等の関係かも知れないし、昆虫は他にたくさんの螢光灯が出来たかも知れないが、もしそうでないとすれば、誠に淋しいかぎりである。
そんな中にあって、異彩を放って居るのが居る。それは嵐山のイカルチドリで、嵐山の夏と云えば、実に色とりどり、観光バスがぎっしりつまって、水泳の子供のかん高い声、救急車のけたたましいサイレン、みのに笠、いかだが通った、墨絵の嵐山も、この時ばかりは、実に雑然として居る。そんな中にあって、ゆうゆうと鳴き乍ら、千鳥掛けよろしくとび廻って居るのが、嵐山のイカルチドリである。巣は渡月橋の中洲にあるらしい。あまり人をおそれないことも不思議で、私はイカルチドリが十メートル先の石くの上に降りたのをじっと見て居た。するとそれに気付かない若い男が下駄ばきで、ガラガラとそれに直進して来た。もう飛び立つ頃と思いの外、そのチドリは、ほんの二メートル迄とび立たなかった。附近を調べて見たが巣も子供も居なかった。夜カジカの声を録音に行って、同じ声を聞いた。「チンチン千鳥の鳴く夜さは……」と云う歌の通り、川音の中に聞く千鳥の声は、実に情緒の深いものであった。今年の豪雨で嵐山ははんらんした。渦巻く濁流をながめ乍ら、あのチドリはどうしただろうと思って居た。水の引いた後、又その声を聴くことが出来て安心した。自然とは、うまく出来たものである。
カジカの話に、先日或魚類の書籍を読んでいたら、此んなことが書いてあった。カジカが鳴いて居るがその正体はわからない。ところが其処でよく釣れる魚が居る。さてはこれがなくのだろうと云うのでその魚に「カジカ」と云う名がついたと云うのである。笑話のようであるがケラの鳴くのをいまだにミミズが鳴いて居ると信じて居る御老人が居られるし、声の仏法僧コノハヅクが、あのギャーギャーと、悪声を発する色の仏法僧の汚名を着せられたりして問題となったのも、未だ私の子供の頃の新聞史上で記憶して居る。最近もこんなことがあった。ヨシキリの声が入用になって、宇治の火薬庫跡へ、高校を出たばかりの子に録音に行ってもらった。帰っての話に「ついでにカジカを録音して来た」との話、どう考えてもカジカの鳴く情景ではないし、聞いて見ると、なんとカイツブリの声であった。「そばえ行くと鳴きやんで」と云うその人の言葉も、色々思い合わせて笑いごとではないと思う。「キヌタを叩くクイナの声」等は、現代人から忘れられて行くのだろうか。
去年の夏頃であったか滋賀県の方へロケーションに行った人が、木から落ちて困っているトビの子をひろって来たことがあった。そのまゝ放してやっても生活力はないし、大きくしてその声を録音してから放してやるつもりで私がゆづり受け、飼うことにして。さて餌であるが、カエルとトカゲでは、見た目にいやだし、魚は、夏向に生臭くて困るし、最初は牛肉のすじを買って来て与えて見たが、赤いところは食べるが、白いすじは食べない、何と親の教育の悪さにあきれて乍ら、考えついたのが鯨肉であった。これでやっと落ちついて、日々大きくなって行った。トビとは、ピーヒョロヨロと鳴くだけだと思って居た私は、だんだん飼って行くうちに、種々な声の表情に気づくようになった。ピーヒョロヒョロと天気の好い日など、朝一番に鳴くのが、先づ自然の声であり、他人が入って来た際には、そのピーヒョロヒョロが自然の場合より、よほどフォルテに聞える。子供と黒い服の学生には、キャッキャッ、と、まるで犬が吠える様な奇声を発する。鳥は色彩の区別がつかない様なのに学生に吠えつく(この場合、鳴くと云う形容は全くあたらない)のは何故だろうかと思う。又私達が通ると必ずピーヨピーヨと、いまだに子供の頃と同じ声で甘える。人の出入のはげしい中にあって、どうして見分けがつくのだろうと不思議に思う。ともあれ、こう家族の一員になってしまうと、今更放鳥してやる訳にもいかなくなった。大きな鯨肉をペロリと平らげて平気で居るのに、これが野生化した場合、果してこれだけの食物が得られるだろうかとも思い、又人なつっこく腹が減れば魚屋の鯨肉を人片ぬすんで、又無情の人間共に捕らえられはしないかとも思い、野鳥の会員もこゝに至ってサンマの煙に泣き乍ら、一片三十円也の鯨肉買いが続いて居る次第である。
野鳥の雑誌に超飼鳥的なことを書くのも気がひけるけれど、手乗り文鳥を育てゝ二ヶ年になる。「鳥には餌」の常識を破って、玉露は呑む、ウィスキー紅茶はのむ、砂糖はなめる、夜は午前一時頃まで起きて居る。朝寝はする、全く手の負えない文鳥が出来てしまった。これがまた不思議なことに、私の手に止った時のみ発情し、頭を下げ尾を下げ体をまるくしてさえずり出すというやらしい文鳥である。鳥の嗅覚について書いた書物もないので余り問題にもしなかったのに、手を持って行くと、スッと頭を下げ鼻口をもって来て、じっとしてから例の動作をやり出すので、これはたしかに嗅覚でうけるしか思えない。嫁さんをもらってやろうにも、こうなっては来手がない。人間とは罪なことをするものだ。
日本一の野鳥の生息地として名高い富士山麓に、日本一の案内人高田先生御兄弟の御案内で頃もよき六月の一日を過ごせましたことを、野鳥愛好家の端くれとして誠に幸せなことでございました。というような調子で書き始めますと余りに型通りのあいさつになってしまいますので以下思いつくまゝ感想を述べさせて頂きます。
野鳥の会東京支部にも正式には加入していませんし、時々行われる探鳥旅行にも参加したことはありませんでしたが、何冊か野鳥の本を読んで居りますうちに一度富士山麓を野鳥に詳しい人の案内で歩いてみたいと思い始め、思いのかなえられぬまゝ二年近くも経ってしまいました。そのときたまたま京都野鳥の会で富士山麓探鳥会を企図されているときゝ、渡りに舟とばかりお願いして参加させて頂いたような次第です。もっとも最初は、野鳥の会で行かれる方々皆さんエキスパートばかりで、ずぶの素人が参加しては物笑いの種になるだけではないかと心配致しましたが、実際に参加してみますと全部が全部エキスパートというわけでもないので胸をなぜおろしました。しかしこの素人に対して「あれは○○ですね」とか、「むこうで鳴いているのは何でしょう」とかたずねる人がありまして返答に窮しました。ニューヨークなどではあらゆる人種が集まっているので日本人に道をたずねるとか、それと同じ類かも知れません。
この探鳥会で印象に残った鳥といえばやはり何といってもサンコウチョウを第一に挙げなければならないでしょう。探鳥会といっても大勢のことですから、たゞ歩きまわって「今鳴いているのがコマドリです」とか、「今飛びたったのがホトトギスです」とかいうような説明をきくだけとか思っていましたのに、あのように巣の近くへ行って天幕を張り、野鳥の生態観察記などに述べてあることを身をもって経験した喜び、息をつめて天幕の孔から覗いた気持は忘れられません。鳥にとっては大変迷惑だろうと思いますが、人間側も驚かすまいと最大限の努力をしたのですからまあ許してくれるでしょう。とかく思い出は美化されるものですが、今も眼前にありありと浮かぶ美しい尾をピンと張った姿、極楽を垣間見たときのようなこうこつ感、曜変天目を思わせる神秘的なばかりに美しいるり色、すべては楽しい思い出の糸につゞられて一巻の絵巻となりいつまでも心に残ることでしょう。
駿河なる富士の裾野をかきわけて
三光鳥をたずね行くなり
月日星その言やよし瑠璃色の
この世ならざる姿またよし
そのほかには浅間神社で声を限りに鳴いていたマミジロ、その美しい名になぜか心を引かれます。又、須走口登山道からの帰途、道の上の野原に上りオオヂシギを見たとき、名をきゝ違えてオオヂシンと思い込み、バサバサとすごい羽音をたてるから大地震なのかなと思っていたことなど今考えてもおかしくなります。
この探鳥会に参加して敬服したことゝいえば、野鳥の会の方が鳥の生態に通じているということでなく、鳥に対する態度そのものです。愛情と科学との見事な調和の上に成り立っている鑑賞態度をこのような実地教育により身につけ得られたことは大きな収穫でした。このような鑑賞態度を自然と身につけられるような機会がすべての人に与えられたら、現代のとげとげしい社会もかなり変ったものになるのではないかとさえ思われました。
第一日が余りにも素晴らしかっただけに、第二日、第三日は今から考えてやゝ印象が散漫なようです。しかしバスを待つ間のひとゝきを過ごした降りみ降らずみの山中湖畔、青木ヶ原の樹海を見下ろす紅葉台の景観、夕暮の本栖湖、白糸の滝での昼食などすべて楽しい思い出です。又、本栖湖畔で盛に鳴いていたセンダイムシクイ、風穴の上に美しい声を響かせていたミソサザイ、バスに乗りそこなった我々を眺めていたオオルリなどは今でも印象に残っています。
探鳥会のときはともかく四十種にものぼる鳥を一つ一つ聴きわけ、全部覚えてひとかどの野鳥通になった積りだったのですが、悲しいかな、その後勇んで山に行きまして再び同じ声にお耳にかゝりましてもさっぱり一対一の対応にならないのです。完全にもとの木阿弥というわけで、鳥の名を覚え山登りの楽しみが増えたと思いましたのに、かえって記憶力の減退を嘆く苦痛が増しただけでした。まことにもって不本意なことですので目下、再度覚えるべき鋭意努力致しておりますので、この次皆様にお目にかゝれる機会には、かなりまともな話ができる程度にまでなるのではないかと希望的観測を致しております。
12月 鞍馬山、貴船探鳥、忘年会
昭和35年
1月 山田池鴨場見学
2月 談話会 於京都ホテル
4月 湖北舟木崎探鳥
5月 談話会 於山せん
比えい山探鳥会
6月 比えい山探鳥会
富士山麓探鳥会(別項記事参照)
8月 講話会 於天性寺
9月 住の江公園探鳥
10月 京都動物園見学
11月 雨天中止
日時 昭和34年12月20日(日)
行先 鞍馬山、貴船
参加者 大中、伊藤、田中、山本、入江、高田、烏賀陽、小泉、千葉、内田、久保(忠)、久保(愛)、佐藤、橋本、相原、
山町柳を9時30分の電車で出発。鞍馬で下車、鞍馬寺への参道を登る。つゞら折れの途中ヒヨドリやカケスの鳴声がふんだんに聞え、木立の間を群れて移動して行くのが見える。一度コゲラが見られた。エナガの群が、その特有の鳴声ですぐそれとわかる。低木の茂みから茂みへミソサザイが移動して行くのが見られた。
お寺から尾根へ登る途中、キクイタダキの小群と、杉の幹をよじるキバシリを目撃する事が出来た。キバシリも橋本会長が指さゝれる方向を一人一人目をこらして観察した。またヒヨドリの鳴声が盛んになり、ツグミの声もまじる。
貴船の谷へ降りはじめた頃、ムクドリの群が鳴きながら現れる。魔王堂の所の高い樹木にイカルの小群が現れてよく透る声で鳴いた。
貴船へ降り、川にのぞんだ小料亭で、イノシシのすき焼の野趣を楽んだ。
席上橋本会長の他に追随する者のない経験談を聞き入った。動物園の猛獣のおりに入る時も、恐怖の念を持っていると、それが態度に現われてかえって獣を刺激する。ライオンを赤ん坊の頃から親になるまで育てた後、軍隊へ入った。その後休暇で動物園に来ておりの外からライオンを見ていると、ライオンは自分の方へ寄って来る。自分が動くとライオンもついて来る。おりへ入ると、ライオンは自分へすり寄って来て離れなかった。
また、獣医学校の生徒が実習に来て、ハイエナのこわさを知らず、何気なくハイエナり小舎を掃除して来たが人間もハイエナも何ともなかったのである。
また相原氏から、紅茶にレモンとミルクと両方入れて飲むのは、ミルクが酸で凝固されるので、何も知らない人がする事だ等と云うお話も聞いた。
真暗に暮れて雨が降り出した貴船の谷をタクシーを往復させて貴船口へ向う。
日時 昭和35年1月24日(日曜)
行先 枚方市近郊山田池
案内 大中氏
講師 伏原氏
参加氏 (順不同)内田、入江、久保、大中、土永、山(悦)、山(貞)、伊藤、山本、橋本、相原、高田、田中、佐藤、安本(勝)、安本、大橋、安達、伏原、伏原のじ子
1月24日は、雲一つない晴天で、京阪電車枚方市にて、皆さんのお乗りを、お待ちして居るのに、日向でないと、体が、わくわくするほど、寒い朝であった。九時すぎ定連の顔も揃い打連れてバスに乗る。堅田より遠路、土永さんもお見えになった。田中の部落にて下車、山田池に向って歩を進める。からりと晴れて居るが、度々しまけて来ては、粉雪が散らつき、寒さが身にこたへる。田圃に、ムクドリやハシブトガラスが、打ちつれ群がって居る。出屋敷の部落へ入ると、山田池もすぐ近く、空たかく飛ぶ鴨の群れも見られ、寒さにめげず、声もはずんでいる。坂を上りきると、大きい溜池のほとりに出る。灌漑用の池か、ほとんど水がなく、干割れた水底は凍りその上を、ハクセキレイ、セグロセキレイが、せはしく歩んで居る。これを右に見ながら、南にならんで大きな池がある。薮と、その他は疎林に囲まれ木の梢ごしに水面に、いるわいるわ鴨の群れが眺められる。背に日を負ふて居るので、マガモ、トモエガモ等、色彩はよくわかる。中宮池を中にはさんで、管理人の小屋がある。猟師より、鴨の渡りの時期や、生態につき、興味ある変った話を聞く。折悪しく、今は闇夜であるので、鴨猟のさなかであるので、池から、数米程距った位置より、木の間に立て掛けた筵のブラインドの、一寸位の孔から、鴨の様子を見るのである。数人宛入れかわり鴨を眺めた後猟師の家に着く。幸い火鉢に火も用意してあり、朝からの寒さも忘れて暖をとる。鴨汁にて食をとりながら、伏原先生の、鴨の識別についての講話を聞く。外は矢張り度々しまけ、寒さ一しほである。ようやく、体も暖り、今朝とれた鴨を見せてもらう。トモエガモのみが残って居り、籠より出して見る。舎前にて、記念撮影をすませ希望される鴨を、それそれ分けてもらい、出発する。同地域は、銃猟禁止区であるので、都会に近いわりに、鴨鳥の多い所の様である。カシラダカの大群、タヒバリ、ノジコ等も、見聞出来て、幸いであった。
帰路、京阪電車の車中、伏原先生のお嬢さん野路子ちゃんが、お土産の、トモエガモをだいじそうに、かゝえながら、もたれてやすんで居られるが、ほゝへましく、うかゞわれた。
見聞した鳥類
ハシブトガラス、ハシボソガラス、ムクドリ、スゞメ、ノジコ、ホホジロ、ヒバリ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、タヒバリ、カシラダカ、モズ、ヒヨドリ、ツグミ、カワセミ、トビ、マガモ、カルガモ、コガモ、トモエガモ、カイツブリ、キジバト 以上23種
追記
山田池とは、枚方市東方4粁、中宮、大峯の部落あり、東西600米、南北約150米、川をはさみ、僅かな丘陵地に臨み、銃砲火薬禁止区域における大池にして、共同管理のもと。
大阪府より狩猟地として、特に認可されたむそう網による鴨池なり。
日時 2月19日 午后6時より
場所 京都ホテル談話室
「川村先生を囲んで」
出席者 河路、佐藤、山田、相原、烏賀陽、本岡、山、千葉、入江、藤岡、伏原、川村、山本、田中、橋本、高田、浦田(芳)、浦田(和)、大中、畑中、市川、久保、奥村、当麻、浜畷、伊藤、姫野、小松
冬の日の一夕、暖いホテルの一室で、川村多実二先生のお話を聞く。
「単に鳥の鳴声を覚えるだけでなく、鳴声の地方的な差異や、個体的な差異を研究しなければ興味も少いし、意義も少ない。
また、ヒバリを飼う人は、岐阜県各務原のヒバリの転鳴を覚えさせる為、かごに入れたヒバリを各務原の管理者にあずける。ところがヒバリの入ったかごを盗まれないように、監視する管理者の苦労も一通りではない。同じ岐阜県でも他の土地のヒバリの鳴き方を覚えたのは慣れた人は直ぐ聴き分けてしまう。」
長年の間に積まれた研究と経験のにじみ出た先生独徳のお話は何時もながら大変興味深かった。何でもいゝから自分の仕事もあの境地にまで達し度いものだと思ったことである。(千葉記)
日時 4月10日(日曜)
行先 琵琶湖畔、萩の浜・舟木崎附近
案内 千葉尚二委員
参加者 (順不同)会長、佐藤、千葉、河島、久保(忠)、久保(愛)、高田、烏賀陽、山本(新)、入江、田中
一行が目的地の江若鉄道高島駅に下り立ったときは、もう地雨のようにシトシトと降っていて如何ともなし難く、小さい子供連れの会員達は無念そうにたもとを分って、こゝから引返してゆく他はなかった。
夏のビーチハウスの残がいのあさましく並ぶ萩の浜から水辺の砂浜をたどる。菜種の黄花は今が盛り、街道並樹の桜の花もほゞ咲き揃ってはいたが、京阪辺りとは一と月も遅れて春と花のみの冷雨に打たれた北辺の湖畔の沖合まで、空もうみも視界一面鉛色に包まれた中に、沖の白石や多景島の黒点に混って時折数羽の鴨の群が湖上に望見され、不意を突かれて近くの浜辺から飛立ってゆくものもあった。その種類は概ねカルガモ、カイツブリその他アオサギなど。
鴨川河口の少し手前で、立枯れの芦のくさむらを透して前方の砂丘に、相当な数の鴨が群っているのを発見した。餌場にでもなっているのか、いつも屯している場所らしい。一行が観察域内に到らぬうちに、惜しくも一群又一群と全部飛び立ってしまい、現場へ着いたときは鳥の足跡だけが織模様のように砂浜一面ちどりに型押しされて残って居た。
浜伝いは鴨川口に阻まれて上手の街道の方へ廻る。突然千鳥が一羽、川原をヂェット機のように弧を描いて滑走して行く。街道の橋の袂に白い花を咲かせたコブシの木一本。道はやがて水郷風景豊かな横江の集落に入いる。洫の堤にうこんの花たわゝなサンシュウの樹。村の社の軒に雨宿りして晝食。四津川、藤江の部落を縫ってたどるとやがて南舟木の村に入り、間もなく安曇川の堤。
橋の上から見た安曇川はさすがに大河の面影をみせている。堤を下り、蛇かごの延々と続く川原を縫って河原の先端まで行く。又してもチドリが鳴きながら走る。比良の稜線の西側へ落ちる流れと、丹波高原東部の水を全部集めて琵琶湖へはいるこの川の河口デルタは、縦の線の少しもない、横へ横へと雄大な拡がりを見せて、まるで海へはいる河のような錯覚を起こさせる。雨傘をさし双眼鏡を片手に沖を凝視めて、思い思いの観察を続けている人たちを見ていると、随分人里離れた僻地へでも探検に来ているような気がする、記念撮影。
もと来た径を南舟木へ引返して橋を渡り、齢を経た闊葉樹の並樹を縫って堤防上の道を二、三丁遡ると、船橋を架けて四ツ網で小あゆをすくっているところがあり、更に一、二丁行くと視界がパッと展け、所謂「カットリやな」場に着く。やなの前の養魚池には無数の小あゆが真黒くうごめいている。小屋の軒先に置かれたすくい網に、繁殖色鮮かに彩られたウグイが一匹、眼をひいた。
こゝから再びもと来た道を引返し、南舟木からバスで江若鉄道の安曇駅着。列車が浜大津に近づく頃には比良と比叡の間に青空が見え始め、比良登山からの帰りの若者たちが舌打ちしていたが、我々にとっては、そぼ降る雨も亦風情の趣ありと悔いなき一日ではあった。
日時 5月19日(木)午后6時
場所 山せん
「伏原先生の日本鳥学会賞受賞を記念して」
参加者 伏原、高田、烏賀陽、伊藤、千葉、藤岡、入江、大中、当麻、安達、大橋、山本、橋本、佐藤、田中
今回は本会顧問伏原先生が、「ケリの飼育観察について」と云う論文で日本鳥学会賞を受賞された事を記念して談話会を開き、先生からお話を伺った。先生は日本鳥学会に出席された時の模様をユーモアを交えて面白く話された。
今回は、去る3月5日の委員会で決定した会則をプリント配布し、委員より説明し皆様の御承認を得た。
また例年の比えい山探鳥会についても、打ち合わせを行った。
日時 5月20〜21日、6月3〜4日、6月11〜12日、6月18〜19日、計4回
場所 青竜寺釈迦堂附近
例年の通り京福電車と共催で探鳥会を行い、本会からも橋本会長、顧問佐藤先生はじめ委員を中心とするメンバーで指導に当りましたが詳細は少略します。
日時 8月20日(土曜日)
場所 寺町三条上ル 天性寺(会員当麻氏宅)
(一)上村松篁画伯東南ア旅行帰朝談
(東南ア諸国の鳥について)
(二)内田氏撮影富士山麓探鳥会スライド及8o封切
出席者 (敬称略、順不同)上村、内田夫妻、千葉、松村、入江夫妻、落合、小泉夫妻、田中、当麻、山本、高田、 賀陽、佐藤、林、藤岡、久保、橋本、伏原、大中、以上の諸氏。
(一)上村画伯の話
以下は画伯のお話のほんの抜抄であるが、お話を正確にお伝えしていない点や、あるいは間違いでもあるのではなかろうか。と案じている。
今回の旅行は友人の宗教美術の画家と二人連れで香港・カンボジャ・タイ・印度・セイロン等を巡って来られた。
香港では宿屋附近でウスズミセキレイ、山手にカノコバト、またヨシキリのように喧ましい鳴声が盛んに聞かれたとの事である。カンボジャ「This is crayon」と鳴く鳥に遭遇した。
バンコックでは、先づ小鳥の声で眼を覚す。ムラサキキュウカンチョウがまるでムクドリの群程沢山群れておった。ほかにハハチョウ・ムクドリ・ネッタイツバメ(ガンキンと現地では呼ばれている。)、郊外に行けばカワセミ、山田長政の寺の附近ではチョーチョーバトがいた。総体的な印象としてはどの鳥でも日本より色彩が濃く鮮かで、宗教上からだろうが鳥をあまり捕えないらしく、したがって鳥達が人間を全然恐れずむしろ親しみを以て寄ってくるかと思われる位であり、近づいても決して飛び立とうとはしない。鳥屋はしかしあった。その店には種々の鳥を売っており丁度日本のかしわ屋の店先の鳥かごのようなものに、ぎっしり無差別につめて自由に羽を伸ばせない位にして入れてあり、そしてそれを売っている。コガモ、シャコ、インコ、オーム、コーラン、コーライウグイス、ニシキバト、ベニスズメ、キンパラ、アオジ、ヒバリ、ブンチョウその他多くの熱帯鳥が売られており、値段は比較的廉く一例を示せばベニスズメ一羽が邦貨にして約七十円ばかりであった。
次にセイロン島へ渡った。日本のスズメとは少しちがうヨシハラスズメの如き種の鳥が到るところにおり、人をこわがらなかった。カラスも各地にいたが日本のとは少し体色が淡くねずみ色をしていた。此のカラスが氾濫していてホテルでもうっかり窓を開けておくと、眼鏡・万年筆等手当たり次第に失敬される。油断がならず迷惑ではあるが、一方街中の汚物を食べてくれるので結構街の清掃に一役買ってるとの事であった。ローカル・カラー豊かな自然動物園があって、そこではインコ、コシジロ、キンパラ、カワリサンコウチョウ、ジャングルヤケイ、チドリ、シギ、レンガク、ムラサキバン、アオサギ、等々。こゝで珍しい光景に出くわしたがそれは、シラサギが一羽タカにとられたのを目撃したが、仲間のシラサギがそれを見て一向に逃げようともせず傍観しているだけであった。
物凄くうねった樹木の幹の間に粗雑なジュウシマツの巣が沢山あった。セイロンを終えて次はいよいよ印度入りとなる。
ジャイプールからニューデリーの間二百マイルのアスファルト道を行ったが、両側は荒涼とした荒地である。ところがその荒地にまるで場ちがいのように宝石の如きクジャクが少なからずいるではないか。こんな荒地によく棲息しているものだ感心させられる。この時以外でも、クジャクはジャングルや或はニューデリーの街の整理された庭などでもその典雅な羽を遺憾なくひろげている。地面を走ってとび、又高く空をとぶ。印度へ来た甲斐があったというものだ。カルカッタ市の動物園でもクジャクは放し飼いされていて、男の印度人の裾から脛がちらちら見えると、それを狙ったり邪気があるが、とにかく人間共と仲が良く首や肩に止まりに来る。
サンバードを二番い買って帰った。光線にあたると光り輝いて実に美しい。東洋のハチドリと言われるだけある。その美しい鳥を写生している。
以上通じて言えることは、要するに南方の光線は強いためか、鳥の色は総じて濃く鮮かであり光にあたると燦然と輝いて思わず感歎の声を洩らしたくなるという事、もう一つは絶対に人間を恐れないという事、日本の鳥に比べて誠に恵まれている。此の二点がどの土地を廻っても残る最も強い印象であった。
以上がお話の大体の要旨であるが、画伯は旅行中写生された鳥の絵や印度で購入された鳥の本等を一同に見せて下さった。
(二)内田カメラマン苦心の傑作発表
内田名カメラマンの脚本・撮影・編集による富士山麓探鳥会の記録映画が内田氏自身によって映写された。撮影技術の卓抜さと秀れた映画感覚とが相俟って富士探鳥会の一伍一什(一部始終)は、見事に私共の眼前に再現された。スクリーンに吸ひつけられた一同は各自思出を新たに楽しみよもう一度と溜息をつかせられた。探鳥会の日程やくわしい鳥の記録は他の項で報告される予定なので茲では略す。
日時 9月18日(日曜)
場所 大阪、住吉浦
『大阪野鳥の会と合同でシギ・チドリ類の観察』
リーダー 浜畷慎吾氏
参加者 (敬称略、順不同)川村、橋本、浜畷、伊藤、高田、高橋、烏賀陽、松村、成田、田中、
(大阪支部)藤原支部長、平松、児玉、上田、白附、高杉、千原、田中、岡本、真下、北川
報告者である肝心の私が遅刻して行ったので、というのも早朝烈しい雨に襲われ今日の会は流れるかもしれないというような空模様だったので、そのため不参加の京都の会員も多くあった次第。遅刻したため正確な記録がとれず、次週の土曜日の午後、浜畷さんを誘ったが会社には御不在で、結局再び同じ場所へ一人出かけていった所、幸いにも大阪の会員の岡本さんが望遠レンズで写真をとってられて、渡りに舟とばかり二時少し前から四時半頃までおよそ二時間以上を、御迷惑にもお教へを乞う事となり、以下は御指導に基いて観察した結果である。これを以て当日の分に代えさせていたゞく。何卒悪しからず御寛恕を乞う。
(大体見た順で、数字は個体数、但し雌雄は区別せず)
シラサギ(75)、アオサギ(5)、シロチドリ(多数)、コチドリ(数えられず)、トビ(2)、ミサゴ(3)、ダイシャクシギ(1)、アジサシ(15)、アオアシシギ(14)、ダイゼン(4)、ヒドリガモ(2)、オバシギ(3)、ハマシギ(20以上)、トウネン(3)、メダイチドリ(2)
以上が干潟附近で見たもの。次は午後4時前後干潟からの帰途の埋立地附近の池や葦むらや工事場あたりで観たものである。
コヨシキリ(1)、チュウシャクシギ(1)、キセキレイ(1)、カモメ(1)、ハクセキレイ(3)、モズ(1)、キアシシギ(2)、セッカ(2)、ソリハシシギ(3)、カルガモ(1)
以上合計25種である。特筆すべきは、ダイシャクシギの悠然たる行動振りである。一羽のみだがその一羽が干潟を堂々と漫歩し時には泥中から餌を採り、私共二人のいる近くまで(といっても手の届くほどの近さではない)御来駕下さった。見事に長い嘴をはばかることなく誘示しているかの如き印象を受けた。
このダイシャクシギともう一つ印象的だったのはヒドリカモの一組の夫婦である。はるか沖より睦じく游ぎ来たり、暫し干潟で身体をひっつけて休憩した後、仲良く私共の頭上を南へ向けて飛び去った。その飛翔の姿からヒドリガモだと認め得たのだ。
帰りの途では珍らしくハクセキレイを認めた。岡本さんの話では恐らく住吉浦ではこれが初認ではないかとの事であった。またコヨシキリを発見し、カルガモの音高く羽搏いて池をとび立つのを目撃。実に来甲斐のある土曜の午後であった。
扨、当の18日の日曜について少し報告しておくと、合同で観察した後、埋立地の隅で大阪野鳥の会と輪になって腰を下し、交歓会をした。交歓といっても自己紹介をやり今後大いに共同で活動しましょうと結んで、別れた。朝の雨は何処へやら炎天となり、9月とはいえまだ18日、真黒に陽に灼け汗を流し流し帰路に着いた。
一、動物園の鳥を観る会(10月23日、日曜)
二、参加者 会長、佐藤、高田、伊藤、大中、山本、田中、烏賀陽、小泉夫妻、藤岡、松村(雅)、内田、当麻、太田、松村(和)、大沼、安本、山田
午後3時園内に集合し里地園長から挨拶と簡単に京都動物園の歴史、かつて飼育されていた動物或は現存の動物の珍しいエピソード等を聴かせていたゞいた。殊に琵琶湖の北方で心なき人に捕らえられた白鳥が此の動物園で息を引き取った話もその中にあった。約30分話しを聞いた後で、鳴禽類を主として飼っている禽舎を振出しに、順に園内の動物を見学して廻った。ゆっくり一巡しているうちに日もそろそろ暮れ、雑沓をきわめた家族連れの入園者達も去って閉園となった。午後5時。
さて、閉園後に私達のひそかなる(?)目的があった。というのはかねてより橋本会長にお願いしていたところの、猛獣の夕食の有様をみせてもらう事だった。豹及黒豹に生きた兎が檻の柵めがけて、飼育係の人の手から投げつけられると、猫の手よろしく此の二者は爪でぐいと掴んだ。彼等はゆっくりと毛をむしりやがて頭から食べて行った。(ライオンは毛をむしらずそのまゝ食べるそうである。)骨を噛み切るポリポリとした音が夕闇迫り寂しくなった園内で、異様に聞こえた。彼等の晩餐は案外時間をとるらしいので最後まで見ずに一同は解散した。閉園後の特別参観は、橋本会長の御尽力と園長の特別の御取計らいと御厚意とによるものである事を銘記しておく。
(一)本会は「京都野鳥の会」と称し「日本野鳥の会京都支部」を兼ねる。
(二)本会は鳥類に関し主として自然科学的な観察研究を行い野鳥愛護の精神をかん養することを目的とする。
(三)(イ)本会の目的に賛成する者は誰でも入会することができる。
(ロ)本会の行事には臨時会員の参加を認める。
(四)本会目的を達成するため次の行事を行う。
総会 年一回
野外観察及び研究会
会誌「三光鳥」の発行
その他適当と認めた行事
(五)本会には次の役員を置く。
名誉会長 一名
顧 問 若干名
会 長 一名
委 員 若干名
委員は会長を補佐して会の運営に当る。
委員は総会に於いて会員中より選出する。
委員の任期は二ヶ年とする。但し留任を妨げない。
顧問は委員会の諮問に応ずる。
顧問は委員会に於て委嘱する。
(六)本会の経費は会費(年額200円)と寄附金及び行事収入を以て当てる。
附記 本会の事務所は「京都市東山区山科音羽中芝町40 橋本英一」方に置く。
なおこの会則は、今年5月19日山せんに於いての談話会の際、皆様の御承認を得た。
去る八月例会御通知と共に、皆様へお知らせ致しました通り、毎月第二火曜の午后7時〜9時の間、伏原先生のお宅で雑談会を開かせていたゞいて居ります。現在まで集って居りますのは、ほとんど委員に限られて居りますが、気楽な集りでありますから会員の皆様は、どうか遊びがてらおいで下さい。閉会時刻の厳守以外何もございません。
また会員の野鳥記録を集めようとぞんじますので、野鳥を目撃されましたなら、その記録は断片といえども会宛お知らせ下さいますようお願い致します。
本会助成のために左の通り御寄附がありましたので有難く受納致しました。
金壱千円也 川村多実二氏
金壱千円也 伏原 春男氏
今回「三光鳥」第8号をようやく皆様の御手許にお届けする事が出来ました。
この度びは、川村・佐藤両先生の玉稿をはじめ大へん多くの会員諸氏から原稿をいたゞき厚く御礼申し上げます。
私共四名、橋本会長から編集委員に指名せられ、及ばずながら努力致しましたが、万事不行届きで変り映えのしない編集で申訳ありません。然し何時もながらの高田氏の立派な生態写真、佐藤先生の珍しい三光鳥の古画の写真、高橋氏の美しい鷹の写真は皆様も喜んで下さる事と存じます。
原稿と共にお寄せ下さいました蔵書目録はさらに整理の上、別の機会にお目にかける事と致しました。なお原稿は、気が付く限り、記事の主題となる生物名は片かな、文章では当用漢字、現在かなづかいの方針に従って訂正させていたゞきました故何とぞ御諒承下さい。
御寄稿の際は、必ず400字詰原稿用紙、大きさはなるべくA4版を御使用下さいますようお願い致します。
(千葉記)