二十数種に余るサギ科の一つのチウサギは田植の頃に渡って来る夏鳥です。
一日の大部分を川や、水田の中で水棲動物等が現れるまで、じっと立って気長に待っています。
繁殖期には親の腰のあたりに生じるミノ毛が大変美しく、このミノ毛を広げてディスプレイする様子は天女の舞にも似て優雅な趣きです。
サギ類は異種混群で集団営巣する習性をもっています。林や竹藪の頂きに、木や竹の小枝を材料として粗雑な巣を作り、四〜六個産卵し抱卵から哺育まで約四週間を費やします。親鳥は二〜三回雛鳥の哺育を繰返し、冬の訪れと共に琉球以南台湾方面に連れ立って旅立ちます。近かくの摂津冨田の継体天皇陵、堺市の仁徳天皇陵には十種類のサギを観察するのに良い所です。
この写真は埼玉県下の野田サギ山で撮影したものです。
前号で説明したナイチンゲール、ブラックバード、ロビン、雲雀、燕に次いで、英国の詩人が特に題材としている鳥は郭公・(Cuckoo)である。これは我邦のクワツコウと同種異亜種の鳥で、鳴方も同様、即ち公明快活な感じのものであるが、それを欧州諸国では地方によって楽しく聞いたり悲しく受けたりするのである。
先づ回教の国ではこの鳥を「極楽に入り得る動物」十種の一にかぞえて居り、「はじめてこの鳥の声を耳にした処女が左足の靴を脱ぐと未来の夫の頭髪の毛が入っている」という云ひ伝えもある。独仏等中欧の人民はこの鳥を「春の報道者」、「婚姻の予言者」即ち楽しく喜ばしい使として歓迎するが、東欧のチェコやロシアでは反対に悲しい不運の鳥と考えられる。英国では大体快活な鳥と解せられるようだが、例外として、W.Shakespeare(1564-1616)が Lore's Labour's lost という戯曲の中で「クックークックー、おお結婚した者の耳には不愉快な恐怖の言葉だよ」と繰返し語らせている。もっとも一流の詩人が盛んに郭公を詠んだのは次の第18世紀の後半で、例えば John. Logan(1748-1788) は「郭公に寄せる短詩」に於て「お前、春の使よ」と呼びかけ「百花の好季節にやってきて晴れた空に悲しみの少しも無き歌を聴かせてくれる鳥よ、私はお前と一緒に飛んで旅に出たい」と結んで居り、John. Grahame(1765-1811)は「スコットランドの鳥類」と云う二十四行の詩で、Hedge sparrow と云う雀科の小鳥が郭公の養親であることを述べ、郭公の歌は怠惰な歌で単調ではあるが声が美しい、而して今ここから来ると思えば今度はかしこからきこえ、姿は滅多に見られない春の声である。この鳥は住家をもたぬ異郷人の生活を送るのだ」と詠んでいる。
また W.Wordsworth(1770-1815)は、「おお今年もまた新しく訪づれた客人よ、お前の声には聴き覚えがある」から始めて「わたしはお前を鳥と呼ぼうか」、「草の上に身を横たえて聞いていると、二段になって叫び声が聞える。丘から丘へ過ぎ行くようで、或時は遠く、或る時は近く」というように郭公の生態を巧妙に写し得ているが、Wordsworth には他にも郭公の詩がある。
次はフクロウ(Owl)の詩をとり上げる。ヅク(木菟)やフクロウ(梟)の類には大小種々の属種があるが、英詩人は皆単に Owl として詠んでいる。恐らく多くの場合は形も大きさも我邦のフクロウによく似た、愛蘭を除く英全土に最も普通な Tawny-Owl であらう。これでも第十八世紀後半の有名な詩人の作が多い。例えば Sir Walter Scott(1771-1833)は先ずフクロウの生態を叙し、「吾々は美しい美しい梟の健康のために飲まう」と結んでいる。また G.G.Lord Byron(1788-1824)は The Island (島)という詩の中に Hermit-Owl (註:こんな名の鳥は無い、孤独な梟を意味するのであろう)の独語(ひとりごと)を入れているし、Barry Cornwall(1787-1874)は Horned Owl(註:ミミヅクの如く頭部に羽が立っている Eated Owl のことならん)が昼間を森の中で静かに眠り、日が暮れ犬が吠える頃になると出て出て盛んに活動する生態を客観的に描写し、最後に「大胆な茶色の梟は夜の王様だ」と讃えている。
次に Alfred Lord Tennyson(1809-1892) が梟の生活を記した作中で鳴声を「Tuwhoo, Tuwhit, Tuwhit, Tuwhoo-o-o」と写しているので、梟の種類が前記の Tawny Owl と判明するのはおもしろい。
ギリシャ次来欧州各国の文学者は梟に対して東洋人のように「夜陰の鳥」とか「親不孝な動物」というような先入観を抱かず、むしろ「賢明な鳥」とか「勤勉な動物」と云う風に考え、好んでその姿を学校、特に図書館関係の図案等に応用する習慣がある。作者不明の四行詩はこの点で人々に愛誦せられると聞くからここに紹介して置こう。即ち
“賢い梟が樫の木に棲み、物を見るに従って無口になり、黙するにつれていよいよ聴かうとした、吾々はどうしてこの鳥のようになれないのか。”
少し余談になるが、我邦の各地で石造の仏寺の水盤の外側や宝筐印塔の台座などに梟類の浮彫があり、京都の清水寺にも一例が見られる。これは仏教の東漸と共に大陸から輸入された慣習で、本源は中央アジアあたりらしく、その西進した流れがギリシャ・ローマに入ったのだとは、今は亡き猪川○氏がNHK京都放送局長時代に公表せられた解説である。このことは余り知る人が無いので、ここに記して故人に敬悼の意を表する。
次は鷲鷹の類である。先ず欧州で Golden Eagle と呼ばれ、古来英独その他で王家の紋章や装飾に用いられた鷲は、我邦のイヌワシ(狗鷲)と同種別亜種で姿もよく似た鳥である。和名はこの鳥を少し軽べつして付けたものだろうが、実際は高山の岸壁に営巣し、広く上空を雄飛する実に威風堂々たる大鳥である。従ってもっと古く紀元前から既にアッシリア、ペルシャ・ローマ、各国の表象にも用いられて居り、ギリシャ神話では、二羽の鷲を世界の東西両端から飛ばせて両者が衝突墜落した所、ギリシャのパルナサス山を世界の中央と定めた話。カウカサス山上につながれた青年、プロメセウスの肉を荒鷲が来り啄んだ話も有名である。然し不思議にこの鳥の雄姿を写して豪華な貴族の生活を連想せしめるほどの雄篇を残した中世以後の詩人は無いようで、僅かに E.P.de Senancour(1770-1846)が Obermann と題する文章の中でアルプスの高峰モンブランの中腹で雲の切れ間から一羽の鷲が現れて近づき来り二十声叫んだ後の人影を認めて引返して消え去ったことを簡明に描写したものと、 A.Lord Tennyson(1809-1892)が海岸の高い崖にとまった鷲が電の如くに急転直下することを詠んだのが知られている程度である。この内後者は前記の Golden Eagle でなく海岸に多い和名の(尾白鷲)や(大鷲)に当たる Sea Eagle であったかも知れない。
鷲と同一科のハヤブサ(隼) Falcon. 等は属種も多く人目に触れる機会も多いのだから、さぞかし多数の作詩が見られると思われるが、これも実際は意外に少ないらしく、欧米人の著書にも Homer の Iliad の中に隼が鳩を襲うところがあり、鳥類中最高速の鳥だと記されていることのほか Wordsworth の隼や鷹の短詩が例にひかれる程度である。海に近い英国のことだから、わが万葉集が千年もの昔にその生態を捉えて歌にしているミサゴ(Osprey 俗称 Fish-Hawk )の詩があるべきだがそれも見当たらない。W.J.Long(生年不明)が Wood Folk at School なる文中で、空中に舞い上がり、舞い下り、餌を捕えることを巧に描写している。Fish-Hawk は習性からみて、このミサゴとは別種の鷹かも知れない。俗称が地方によって異種の動物にあてられることは我邦でもよくあるのである。
次は鴉である。わがハシブトガラス(Jungle Crow)とハシボソガラス(Carrion Crow)は欧州でも最普通のカラスで、英国詩人が単に Crow と呼んでいるのは大方この二種であろう。
さてギリシャ神話に全身白色のカラスがアポロの命令で毎日故郷にいるアポロの愛妻コロニスの消息を伝える役目をしたが、或る日急いで飛来し、息を切らしたため不充分な報告をし、それがもとでアポロがコロニスを射殺すると云う悲劇を生じたので、カラスはその罰としてコロ、コロ、とだけしか鳴けぬ真黒な鳥に変えられたという話から一般にこの鳥を愚鈍、軽率な鳥と考えているが、実際は鳥類中最も物覚えの早い賢い(厳密な心理学では知能的の記憶でなく条件反射形勢であるが)鳥なのである。スコットランドの古い口碑に「三月一日にカラスが物を探し始める。四月一日には静かに停っている。五月一日に飛んで往ってしまう。十月に風と雨に乗ってまたやってくる。」と云うのがあり、北欧では夏鳥であるらしい。
右の二種より小型で嘴の根本の羽毛が脱けて裸となっているのがミヤマガラス(深山鴉、Rook )欧州では割合に広く分布するとみえ Rook を題材とした詩が少くない。
即ち Samuel Taylor Cokeleridge(1772-1834)、Percy Bysshe Shelley(1792-1822)、Barry Cornwall(1787-1874)、William Allinghan(年代不詳)の作がその例である。その内 Cornwall 作の一節を訳出すると「軟風吹きわたる日に高い樹にとまってカウカウと声高く鳴く世界中で最も愉快な鳥」と讃え、「厳冬の季に入りカモメは飢え、コマドリは死に、ダイシャクシギが凍えてすくみ、家鳩が首をたれる時にも平気で鳴き立てる。」と述べてある。那威国の古い口碑にも「Rooks が空中高く躍動するのは強い風雨の近づく前兆だ」と云うのがある。要するに、このカラスは前の Crow と異り元気旺盛な鳥として扱われている。
樺太千島の海岸近く棲み、毎年一月から四月の間にその一部が北海道東部の根室や厚岸附近に現れるワタリカラス(渡鴉 Raven )というのは体長18糎もある大型の鳥で、欧州でも北極近くに棲み、魚類のほか小動物や野鳥の雛卵を餌として時に多大の被害を漁村の加工場に与えるカラスであるが、これには前に掲げた鴉類とはまた別の狡猾、斗志というような性格が想像されてあるからおもしろい。この鳥については穴居性の小獣を捕らえる際に多数の抜穴の内、一つだけ残して他を小石や植物で塞ぎ、獣の匍い出すのを捕えるほどに賢い鳥だと信ずる民族があるが、これは、ちと話しがうますぎるので、ここでは真偽不明として置こう。
さて文豪 Ch. Dickens(1812-1870)作の Barnaby Rudge なる小説では Rudge という青年がこのカラスを連れて旅行し、彼が踊るとカラスも「 I am a devil 」と唱えながら一緒に踊ることになっている。
鴉科にはカケス(橿鳥)、オナガ(尾長)のように人語や機械音を真似る種類が多いが、この Reven も物真似ができるらしいから、Dickens の記事は誇張のない事実であらう。
H.W.Hudson(1841-1922)は、most foscinating of feathered beings と激賞している。
然るに文学者の連想は更に進展して Reven に不吉、死、嵐等を組合せた文学作品も現われた。茲にはその一例として Edgar Allan Poe(1809-1849)の有名なる The Reven なる長詩の(百八行)を挙げると、或る暗い夜半に書斎の扉を亡き美女レノーアの霊が叩くことから始まり、後にそれが一羽の Reven として室内に入り戸棚の上に置かれたパラスの像の上にとまりて動かず昔の想出からいろいろの事を話しかけても唯 Nevermore とか Nothing more と答えるだけという実に幽幻な詩篇である。これは1846年の一月にニューヨークの Evening Mirror 紙上で公表されて大好評を博し、Poe が読者の請を容れて作詩推敲の経過を詳しく発表したことでも有名なのである。
最後にハト(鳩 Dove, Pigeon )の場合を追加すると、この鳥が古い伝説で、温厚、静穏、平和、敬虔のシムボルと認められれ、詩文にもそれが利用せられること周知の通りである。Christina Rosstti(1830-1894)の Bird or Beast なる五節二十行の詩では「アダムとイブが追われた後、楽園の扉は鳥に対して堅く閉ざされてあったが、真先にとんで来たものはイブの孔雀でもなく、アダムの鷲でもなくハト Dove であった。棘の多い生垣を押し分けて最初に入り来たのは獅子でなくて子山羊であった。この二つこそ神から送られた伝道者であったのだ」となっている。
また W.Shenstone(1714-1786)の短詩では Wood Pigeon と呼ばれる一種のハトの親鳥が人間の鳩の雛を掠める蛮行を訴えるのである。
以上で本号で与えられた紙幅がつきたから、ムクドリ、カワセミ、セキレイ、ヒタキ、等の小鳥、サギ、ツル、シギ、チドリのような渉水鳥、湖海に浮ぶ水禽類については次号にゆづることになった。(未完)
◎附 前号本稿正誤
第1頁上段 三行目(字ぬけ)その中でも
同右 終から四行目 冥度は冥土
同右 三行目 撥は揆
第2頁上段 三行目 讃は替
同右下段 八行目 Zug は jug
この頃流行の「のぞき見」をやったわけではないが、古い日記類をみていると、飛鳥井雅有の「はるのみやまぢ」(弘安三年)のなかに次のような話が出ていた。コタカ群の渡り 松本貞輔
四月十日の条に『ことしはいまだ郭公こそきかね、たれかきゝたると御たづねあれば、御もとに女房たちもいまだきかぬよし申さる。いづくになくとだにいまだうけ給り及ばず。その所をさだめ人数をわかちて、はつねの勝負をし侍らばやと申いだしたれば、まことにけふあるべきことなり』とあって、左方と右方に別れて、ホトトギスの初音を求めて歩くことになるが、東山辺を探すことになった右方は、かんじんの初音よりは勝負にこだわり、『つくりほとゝぎすをよういす』るという計画を立てる。捜索隊の供のなかから、いろいろと吹かせて選んだとあるのは、作り声の巧い者を選んだというのか、現今のうぐいす笛や鹿笛のようなものを吹かせたのか、恐らくなき声をまねさしたものと思うが、ともかくもこの魂胆は勝負に勝たんがためのものであたことは、言うまでもなく、この勝負に勝つことは、当然予想されるかづけ物の期待が大きかったからに他ならない。
しかしこのたくらみを、抜け物目当の策動ではなく、当時の貴族社会の独りよがりの逸楽に対するレジスタンス、または批判としての行動であったとして、話の筋を展開してゆくと、短編の小説ぐらいは書けそうである。
この日記の日付は四月十日と言えば、新暦の五月中旬であるが、私の住んでいる聖護院附近でも、毎年この中旬から下旬にかけて二、三夜はこのホトトギスの声が聞かれるが、六月に入ると聞けなくなってしまうのは、京都附近が渡りの途中の足だまりになるせいだろうか。あるいは移住地の比えい山から夜の散歩のためだろうか。夜の散歩のためなら六月に入ってからでも、ちょくちょく出て来そうなものだが、都通いも度重さなれば恥しくなるらしく、彼女達も黙って帰ってゆくらしい。
「いざよひの日記」にも鎌倉にくだった阿仏尼は、都からの消息のホトトギスの初音のことにつれて『さるほどにう月の末になりければ、郭公の初音ほのかにも思ひたえたり。人づてに聞ばひきのやつといふ所にあまた声なきけるを人きゝなりなどといふを聞て』とて鎌倉山のホトトギスを紹介しているが、現在の鎌倉山でもホトトギスは聞かれるものかどうか。阿仏尼はつずけて『もとより東路は、みちのおくまで昔より時鳥まれなるならひにやありけん、ひとすぢに又なかずばよし、稀にもきく人ありけるこそ、人かきしけるよと、心づくしに恨めしけれ』と女らしいそねみをもらしている。
それにしても鎌倉をねぐらとする現代の文人達で、ホトトギスの初音に興味を感ずる人など、はたして何人あるであろうか。比企のヤツに眠っている久米三汀の墓にでも聞いてみたい。
ホトトギスというとその鳴き声のききなしは、一応テッペンカケタカと定まっている。しかし私がこれ迄聞てきたホトトギスで、その標準型で鳴いたものはまずまずなかったような気がする。比えい山には東谷西谷南谷もあり、横川谷もあり私はすべての谷々のホトトギスを川村先生のように聞きあさったわけではないが、およそテペンカケタカには遠い鳴き声のようである。近くでは石山寺の裏山で聞たものも雲仙嶽で聞たものも、聞き下手の私には同じようにホトトギスの方言としか聞きとれなかった。
ところが今年の六月志賀高原からの帰途、バスで美ヶ原に登って北アルプスの大観をほしいまゝにした、そこで聞いたホトトギスはまさに典型的なテッペンカケタカであった。一体このテッペンカケタカの聞きなしが、何時頃どのあたりで鳴いていたホトトギスの声を基準にして言い出されたものかは、一向に知られていない。ある時代の人間の話し言葉は一応都を中心として、そのなまりや方言が定められるように、ホトトギスの鳴き声の標準型も、ある時期の都でのホトトギスの声で定められたものであり、その聞きなしが鳴き声の標準型として、全国的に宣伝されたとするならば、その標準型が今では昔の都附近では聞かれず、信濃の山の上で聞かれるということは、ホトトギスの声にも柳田国男翁のあの「方言周圏説」の法則が適用出来そうに思えてきて独りおかしかった。恐らく鳴き声の相違は個体差であろうが、その個体差も親又は師匠の声に習って変わるものであるならば、標準型で鳴いていたホトトギスが何時ごろ、みすず刈る信濃の国に都落ちしたのであろうか。昔の比えい山のホトトギスの声は知らないが、最近渡ってくる戦後派の声は、都に攻め上った東武士のようでがっかりである。あの舌たらずの歯切れの悪いだみ声なら、川村先生のきらわれる人工笛ででも教えてやりたい位である。少く共比えい山のホトトギスには再教育の必要がありそうである。然し山頂まで二輪車を飛ばしてくる連中には、案外このロカビリ・ホトトギスの声がうけるかも知れない。
× × × ×
もう一つ。公条公の「吉野詣記」の三月十一日の条に『けふは住吉へとぞ思ひたちける。こゝなる人のいふやう。この八尾といふ所は鴬の名処なり。よの常のは尾十二枚かさなれり。この所のは、尾を八かさねすぐれたるよし申けり』とある。地名起源譚にも類した放言のようにも思えるが、鳥類学の方に何らかの資料にでもなればと引用した。満斉准后日記の永享二年十二月六日の所に『晴、鴬始発声了、先々雖為年内、立春以後也、当年以外早速』とある。醍醐の山鴬のことを言ったのではなく、かご鳥の鴬のことを言ったものであろうか。日記をつけるのなら、もっとこうした事を誌しておいて呉れると楽しいのだが。
昭和十六年二月から終戦の翌年引揚の七月まで、奉天に居住した私は、(終戦直前の応召により北鮮生活二十日間あり)応召までの四年半を、猟銃をひっ提げ愛犬を引いて、奉天を中心に吉林、開原、山海関、安東に至る各両側の奥地ふかぶか、無数の各種猟鳥獣を求めて思う存分歩いたのでした。
片言覚えの満語ながら、単身草深い満人部落に一宿をこうて、時には令胆の幾件かに会いながらも、三十余歳の壮年の覇気は押えるに自制の心を欠いて、当時満州でさえ肉不足(但し闇物資は豊富でした)を告げていました関係で、数多い社員への動物性たん白質の確保と、羽毛皮の軍への献納とにことよせまして、それは天下晴れての?狩猟行であったのです。
ある年の(確か昭和十八年頃)九月のなかば、すっきりと晴れ渡った日曜でありましたが、安奉沿線姚千戸屯で下車した私は、広い畑地を横切って約四q東方の予定の低山帯を渉猟したのですが、枯れそめた秋草で覆われたこの岩山からは、ヤマウズラの幾群かが飛び出しましたし、中腹、山麓の小松帯や葉の落ちない若いカシワ地帯からは次々とコウライキヂが飛び立ちましてその幾羽かを物しましたが、正午、満ち足りた(こんな心理状態の表現をいたしますと、野鳥の会々員各位からはお叱りを受けましょうが……)気分になって山嶺にお昼の弁当を開いたのです。
犬と荷持に雇った満人青年との一犬二人…。空は相も変わらず動かぬ白雲を浮かばせて青一色に高く、見下す満山の紅葉には内地の秋色には求め得ない悠大さを覚えるのでありました。(地名にしても満州には、大連、奉天、鉄嶺、熊岳城、乱石山、開原、吉林、虎頭、興安嶺、巨流河、元師林等々いかにも雄大で悠揚せまらないものが多く、無数のガン類、それにノガン、ハクチョウ、ツル等の飛び方にしましても、これを大陸でながめて始めてその大様さがぴったり、との感じを受けるのでした。)
この山嶺に寝ころんで、やがて足早やに近づく冬の極寒を想いながら、短い大陸の秋景を賞でていた私の頭上に、朝方目撃したあのコタカ群が近づいて来たのです。
相変わらずのマンマンディのその移動振りを、はるかな山背の彼方に消え去るまでの三十分余、何故にともなくあかずにながめ入ったのでありました。
鳥の渡りからの連想で、それは内地の秋を恋う異国にすむ人間自然の郷愁のなさせるわざであったのかも知れませんし、野の鳥達に抱く生来の強い関心がそうさせたのかも知れません。
さて、コタカと云っても猛禽の仲間、外敵を恐れないその貫禄に物をいわせて、洋上ならぬ陸地では昼間、菜食しつつ悠々遅速度の渡りを行なうのであろう、と思ったのでありました。
蘇家屯から姚千戸屯までは確か汽車で約四十分間。この約四十粁の里程に彼等は5時間を要したことになりますが、この一時間八粁に当る割り出し里程が、彼等の昼間に於ける渡りの速度となる訳であります。勿論、夜間の行動が分明いたしませんので、渡りの全行程に要する日数割りによる渡りの速度は知る由もありませんが…。(当時は正しい距離と時間とから正確に算出していましたが、忘却しました。)
あれからもう二十年に近い年月が過ぎました。そしていづこも同じ人間の社界面には大きな改変がありましたが、かつての満州の姿そのままに、荒野草海には相変わらず幾百千のコウライキヂがたむろしていましょうし、果て知らぬ樹海にはイノシシの群がさまよいつづけ、目路の限り山容を認め得ない耕地や沼沢地では、大地を圧して各種無数のガン・カモが渡っていることであろう、と思うにつけましても、このたゞ一回の遭遇に了ったコタカ群の渡りは、筆にも口にもつくし得ないさまざまなめにあいました満州に於て、これは野鳥に結んだ特殊な、そして尊さをさえ加味した様な印象のままに、今なお昔なつかしく私の意識に残っているのです。(了)
初秋の或日澄みきった空に浮ぶ叡山の峯々を窓から眺めていると、ふと二十年前のことがなつかしくよみがえってくるのである。
時は昭和十四年中学三年生の夏休のこと、宿題を作ろうと郷里の山で補虫網を片手に松林の中へ逃げたオホムラサキを追っていたがついに取逃がし、がっかりして林の中に腰を下しぼう然としていたその腰元から黒地に黄色の斑点のあるきれいな甲虫がすばやく逃げるのを見つけた。さっそく生け捕りにして持帰り図譜を開きヨツボシゴミの一種であることは解ったが、当時本邦では五頭位しか採集されていないオホヨツボシゴミであることがわかったのは後に小菅謙三氏の調査に依るものである。歩行虫との初恋のこの時以来三年間オサムシを求めて山野を歩き廻り特に秋から冬にかけて、越冬中の虫を求めて叡山の山々に分け入った頃がそゞろ秋風と共にしのばれてくるのである。
そもそも歩行虫にほれこんだ主な理由は六本の足が美事な調和をもって発達しており、色彩は黒色が多いがえも云はれぬ光沢を放ち、黄、青、るり、茶色等目をみはるに値するものが多く当世風に言えば八頭身の美人という形容詞そのものであり万虫の長、長(オサ)虫と名付ける所以でもある。人これを呼んでゴミムシと言うがこの名前は彼等に対する最大の侮辱であり名のような不潔な場所にいるのはゴミムシダマシであろう……。
ピッケル片手に吸虫管と殺虫管数本を入れた雑のうにゲートル姿の採集行は一般に「オサムシ堀り」と言われているが四季を通じて足をもとでに足の向くまゝにたゞ歩き廻った夏の夕方ヒグラシの合唱を聞きながら芋畑をはい廻ったり、チツチゼミやハルゼミの声を聞きながらがけを掘り返すとマイマイカブリの大群が出てきて思わず顔がほころぶこともあれば、越冬中のへびを掘り出してゾッとすることもあったが、夏季はやはり個体数は少くても種類に富み冬季は種類は少いが当れば大量の収穫があるのが常であったから、夏は採集、冬は堀りと区別すべきではなかろうか。
思い出すまゝに二、三の虫の名を拾ってみよう。
先づ歩行虫の花形であり比較的個体も大きい Damaster 属と Carabus 属を挙げねばならない。
前者はマイマイカブリで北方にはエゾマイマイ、当地方に産するものはやゝ小型のコマイマイカブリで群をなして越冬しており、南の方九州に産するものは個体が当地方で見られるものに比べてかなり大型化しているのが特徴である。後者は例へばアオオサ、カタビロオサ、セアカオサ、クロナガオサ、ヤコンオサ、ヤマサンオサ等その種類も前者に比べてはるかに豊富であり、歩行虫の雄と言っても過言ではない。オサタケはこれ等のミイラに菌が寄生して出来たものであろうが一度だけ土中から掘出した経験がある。しかしコガネタケ、クワガタダケ等と言う言葉は聞いたことがないがその成因に就いて越冬と関係があるのかないのか詳しいことは知らない。ミイラと言へば先年行なわれた学術調査時の人間ミイラにかびの生えた写真を見たが、オサタケの如く芸術的ではなく又きのこ状も呈していなかった。
次に郷土の名をもった虫タンゴヒラタゴミは由良の浜で冬の間に打上げられた海藻の下で採集されたが京都府下ではここだけで採れたように覚えている。
歩行虫の中では珍しく頭が大きく足は短くてお世辞にも美人とは言へないたゞ一つの愛嬌者ヒョウタンゴミ属は畠や庭にもいて時折家の中に入ってくるが丹後沿岸の砂浜で真白い砂にたわむれる黒い姿は「……われ泣きぬれてかにとたわむる」と読んだ歌人の心境も察せられてほゝ笑ましい。
水の近くに住むミヅギワゴミ即ち Bembision 属がある。之は歩行虫の中では最も小さい種類で殆どがルーペを用いないと見分けられない位の大きさである。おそらく昆虫類では最小の部類に属するものであろう。この虫は河原の石ころの下や水辺に近いしめった土の上をすばやく遊び廻っているので吸虫管を用いるが昆虫針を刺すことは出来ないので台紙にはりつけなければならないやっかい者でもある。川辺や水際にいるからこの名前がついたのであろう。歩行虫と言えばミイデラゴミを思い出す人が多いが、之が沢山いる所に出会うと全く硝煙けむる戦場さながらの感がある。核兵器の今から思えばナンセンスだが竹槍戦術を真剣に考えていた当時では毒ガス戦の最新兵器をもった虫だと子供心に思っていた。ヘッピリ虫の一名があるが臭いはそれ程ではなかったようだ。むしろカメムシの方が音も立てず長く悪臭が残る等はるかに悪質だと思っている。たしか医用昆虫学であったかこのガスの接触で皮膚炎が起こると書いてあったが指の皮が厚かったためか炎症は起こさなかったが、捕らえる度にその発散ガスがついて右手の指先が丁度煙草のみの指のように黄褐色に染ったので学校でタバコを吸っているかの如く間違えられてひどく当惑したことを思い出すのである。実際はかくれて吸っていたのかも知れない。
前にも述べたヨツボシゴミであるがこの属にはハガタヨツボシ、ヨツボシゴミ、クビナガヨツボシ、オホヨツボシゴミの四種があるがオホヨツゴシゴミは名とは反対に四種中最も小さい種類であり、舞鶴の四面山の三角点附近の松林がその棲息地であった。合計すれば百頭以上採集したと思うが今は三頭だけが標本箱で眠っている。時にふれ思い出す度に一度現地にどうしているか見舞ってやろうと思いつゝ実現しないまゝになっているのは心残りなことである。
歩行虫の種類は明治の初期ルイスという英人が地質調査の名の下に、各地の歩行虫を採集したもの千二百種類が大英博物館に所蔵されており、日本では大阪の矢野氏のコレクションが千百種類に及ぶと言われていたが、戦後はどのような変遷をしたか今は知る由もない。
私の標本はタイプ標本を残して戦後間もなくさる児童博物館に寄贈した後、郷里の書棚に納めていたが去る二十八年の台風の時床上二尺の流水に家具と共に流れてしまった。幸いにも流出はまぬがれたが泥水の浸入で標本箱のレザーは剥れ、学名とデーターのラベルも殆ど判読出来ない有様とはなった。家の後始末が一段落した頃標本に附着した泥を丹念に洗い落とし、箱屋に頼んでレザーも張替えてはみたが昔のようなカルトンボックスには返らなかった。データーの用紙は当時印刷したものが残っていたので記憶をたどりたどり記入したが、学名の整理は十年近くなる今日も尚出来ないまゝになっている。之はせめてもの罪亡ぼしに出来るだけ早い日に完成したいと思っている。
“愛すべき歩行虫よ”悪童やコレクションマニア等の魔手にその平和を乱されることなく何時何時までもししとしてその営みを続けてもらいたいものである。(終)
私の勤めている会社で“シャカ”と云う映画を作りました。仏教と印度との関係はさておき、まず釈迦と云えばその舞台は当然印度になります。私は職業上その映画の一部の自然音でも実際の印度を表現したく思い、印度の野鳥等を調べることが必要になりました。最初は簡単にわかると思い、二、三の識者にたづねてみましたが、それが簡単でないことを知りました。印度に行ってこられた学者の方でも自分の専門外であり、“鳥がたくさんいた”と云うだけで、その種名等については全く不明であり、結論として印度とは一つの国ではなく、印度世界と云うように厖大な土地なのでその自然環境も全く場所により異なり、それを簡単に論ずることは出来ぬとのことでした。文献をあさっても『印度産鳥類目録』と云うようなものが入手できず、日本の文献中の分布地域が印度に及ぶもの等数種をえらびだせただけでした。それにしても過日ネパールの方に行ってこられた或る植物学者にお逢いしたとき、その植物分布状態も同じ印度でその気候風土が随分異なるために場所により非常に違うとのことでした。当然鳥類についても同じ事が云えると思いました。
たまたま二、三の人が印度へ行かれるので印度にいるであろう鳥類のリストを作り、ボンベイにおられる鳥類学者の研究室に訪ねてもらい、その録音斡旋を依頼したところ、『このリストの鳥類は簡単に附近に居り録音も可能であるが版権は私方にあり、また録音費用に多額を要する』との返事でした。とにかく私の作ったリストのものは全部いるということだけは判明しました。
さてそれらの中で色彩が美しく(絵に映る関係上)中型のもので、しかも小鳥屋等で入手出来得るものと云うとインコやキンパラの類です。私は印度産の鳥類を調べることのみに一生懸命になって、その本職である鳥声についてはそれまで考えていませんでした。そして、いざどの鳥の声を使用しようかと思ったとき全く弱ってしまいました。
その内に会社にクジャクが三羽来ましたのでその声を録音すべく早朝から鳥小屋の方に行って驚いたことには“ゲークゲークー”と、また何ともおそろしい声で鳴くというより絶叫です。附近の屋根で鳴いているスズメの方がよほど心よく聞えたことでした。
どうしてあゝも悪声なのか、きれいな女は声が悪いかどうかは知りませんが、全く天は二物を与えずとかー。
ここにいたって私は文化映画でなし、科学映画でなし、これを観られる人々に心よい効果を与えることが私の使命だと思い、日本三名鳥の一と云われるオオルリの声をほんの僅かでしたが、ほこりをもって使用しますと共に今更乍ら日本の野鳥の声の美しさを感じました。
オウムとは印度にいると思っていましたが経文に『白鵠孔雀鸚鵡舎利迦陵頻伽』と云うのが出てくるからです。ところがオームはニュウギニア地方の産だとのこと。こうなってくると鳥声云々よりも何故こうなったのか私は経文のことは判りませんが、仏教が印度からヒマラヤを迂廻して中国を通っている間にこうなったのか、松虫と鈴虫が平安時代には現在と逆だったように、オームとはインコのことだったのか、また迦陵頻伽とは美しい鳥できれいな声でなくとのこと、セイケイが迦陵頻伽であったとすればこれは堺の水族館でその剥製を見てきましたが古かったせいかあまり感心せず、また実際にはあまり鳴かないとのことでした。鳥の学問もよこっちょへ飛んで行くとへんなものになりそうです。やはり何も考えずに小鳥たちの歌う千差万別の音楽に聴きほれている時が一番幸福なようです。(完)
市内関係台風の目 伏原春男
11 城東区鶴見町
地名としては比較的新しく、鶴の字の縁起と、その丘陵地であり附近の沼を見渡せる地形から、鶴の飛ぶのがよくみられ、これから名付けられたものらしい。それを裏付けることのひとつに、現在においても周囲の発展をよそに、この地の東方である“茨田町横堤”あたりは、いまなお沼を利用した蓮池が非常に多くみられ、それが私共趣味家の、渡りの途中にある水鳥のよい観察地帯となっている。
12 同区鴫野町
いまをさかのぼる三百五十年前に発生の地名と記録がある。往昔のこの附近一帯が湿地帯であり、芦が多くて、渡りにおける鴫連のよい採餌地であって、その数も多く群れていたところから呼びならわされたものとみられる。
13 西成区鶴見橋
地元の住民の話を綜合してみると、今にあってはそのかげも見当たらないが、こゝ十三間堀川にまだ舟が通っている頃、この堤に立つと対岸の津守新田一帯に鶴が舞い降りては、よく餌を拾う姿をみられたことから呼びならわされたものらしい。
府下関係
6 吹田市雉子畷
長柄橋にまつわる伝説は、余りにもよく知られていることですが、ことの順序に紹介しますと、
年代は明らかではないが、その昔、摂津国長柄の川に橋をかけるとき、「この橋は人柱を立てねばかからぬ」という神のお告げがあった。里人達は誰を犠牲にしようかと思案投げ首のところ、この地の垂水神社の祭神の子孫である岩氏長者の発議で、日をきめて、その日にこの渡しを通る者で、はかまにほころびの切れている人を人柱にしようということになった。ところが、ある事情でその日はからずも長者自身がそこを通りかかり、しかもはかまにほころびが切れていたので、自分で言いだしたこととはいえ約束にはそむき難く、遂に自ら犠牲者となって橋杭の下に埋まり、そして架橋工事も完成したのであった。ところで、この長者の娘に照日の前という美人がいて、河内の里のさる若者に懇望されて嫁に行ったが、若者が貰ってみると、彼女は不幸にも唖であった。そこでびっくりして実家へ返そうということになり、二人は連れ立って長柄の里へ旅をした。
途々河内の交野を通りかかったが、ここは桓武帝御遊猟以来の禁野、即ち今でいう禁猟地でキジが沢山いる。たまたま草むらでキジが鳴いたので、若者は声をたよりにねらい寄ってこれを射落した。すると不思議や、唖である筈の娘がにわかに口を利き出して「物言わじ 父は長柄の人柱 キジも鳴かずば 射らればらまし」と詠じた。若者はかつは驚き、かつは喜んだ。もともとあきもあかれもせぬ仲だし娘の口さえきければ問題はないのだから、二人はすぐに若者の家へ引返し、仲むつまじく暮したという。のちに照日の前欠夫の死後出家して不言尼と称し、山崎の里に不言尼寺を建て末永く父をとむらったと伝えられる。
垂水神社にはその橋の柱と伝えられる木片がいまなおのこされ、伝説の碑もすぐ近くに現在している。地名の語源もこれに由縁するところである。(内田博士著・鳥類学五十年より)
7 茨木市鶴野
このあたり天正年間の頃は、葦原の地であって、常に鶴が棲息し、巣籠りをしたところから鶴野と名づけられたもので、文禄年間に至って開拓されるとともに、往昔の姿が失われ、いまにはその地名が昔を物語る唯一のよすがとしてのこるのみとなっている。
8 柏原市鷹ノ巣山
近鉄(宇治山田ー上六間)大阪線の法善寺駅東方にあり、隣接の米山と山並み相続いて昔日は鷹が多くすみ、その巣も数多くみられたようで、鷹百首に「この山の峯とぶ鷹のますがきの 羽かたの名さえなつかし」(詠み人しらず)、の和歌がしのび草としてののこされている。
9 泉北郡鳥取村
垂仁天皇の御代、天湯河板挙命が皇子のために鵠(白ちょう)を捕らえて、これを献じた功により「鷹取ノ造」の姓をくだし賜わり、当地を賞賜され、村内の桑畑に住居を与えられた。このことからして地名の所謂、鳥取郷が生れ、現在にのこされてものと村誌に記載されている。
「あとがき」
一体に地史を学ぼうとするならば、その地の市・町・村役場におもむき、土地台帳をひもとき、大字(小字)町名を調べ上げるのが第一要件となるそうであるが、まったくにしてわたし達の祖先は、巧みにその地の地形を考え、あるいは歴史を知り、目標を生かし、日常生活に便宜ならしめる地名を付けてくれたものである。
最近、聞くところによると、中央において乱雑な地名・番地を統一して明確化せんとする動きが濃厚になってきているらしいが、これなど大衆の意見もとり入れ慎重に行って欲しいことのひとつである。もし東京の銀座が、京都にも、大阪にもといった具合に出来でもしたら、それこそ思っただけで寒気がする。如何に流行とはいえ、こういったインスタントはお許しを願いたい。(完)
急に風が静かになって、その辺りが明るくなってきた。いよいよ台風の目に入ったのだなあ。私は物干し台に上って大宇宙を眺めた。目的は屋根瓦の破損状態をみることにもあったが、それよりも、人間の目の中に飛び込んだ塵の様に太平洋の海鳥が、うろうろしてはいないかということの方に、むしろ大きな期待を持っていた。案のじょうウミネコらしきカモメの群が北の方へ流されて行く。
それとは別に唯一羽、タカでもない、確かに海鳥だ。羽ばくと時に滑翔を交えた大形の鳥が上空を北の方へ行く。
私は未だかつて見たことのない鳥。勿論、新種ではないことは確かだが、京都市内では明らかに迷鳥であることにちがいない。
種名が判らない。満州以来、何十年振りかのイライラが頭の中におこってきた。
残念だ!何とかあの鳥の名前を知りたいものだ。知ってしまえばそれ迄のことだが。これが発明、発見家に共通の喜び(法悦)にいたる迄の悩みとでもいうものであろう。
翌日は日曜。鳥のことなど忘れて台風のあと片づけでせわしい一日をすごす。
十八日月曜。このことを橋本氏に知らしておこうと、電話してみたが、台風被害の問合はせ殺到とみえ、終日話し中の連続、こちらも亦忙しいのであきらめた。
その間、台風トピックニュースとして迷鳥の記事がぼつぼつ新聞にのりはじめた。これではきっと、市内に落ちた鳥は動物園へ持ち込まれるにちがいない。
十九日。橋本氏とやっと連絡がとれた。早速動物園に問合わせをたのんだ。やはり私のカンは当っていた。
トウゾクカモメとあと一羽ヨタカの小さい様な鳥(これは何であったか。案外珍物であったかも知れない)が持ち込まれたとのこと。これは有難い。第二室戸台風による迷鳥報告が出来るぞと内心喜んではみたものゝ、現物の死鳥を確かめなければ、学問的には完全な報告とはならない。
も一度、橋本氏をわずらはしてこの件をたのんでもらった結果は残念。「余り鳥が傷んでいたので川へ流して仕舞った」との回答に、私はあいた口がふさがらなかった。
折角、沙漠でダイヤモンドを見つけ乍ら、「一寸変った石だなあ」と又元の沙漠へすてゝ仕舞ったも同然。
この大失敗を機会に、今后迷鳥が若し市民によって動物園に持込まれた場合には、必ず京都野鳥の会の本部へ知らしてもらい、又こちらからも標本瓶を持って行っておいて、死鳥をアルコール漬けにして残しておいていただく手筈になったことは、一つの進歩ともいえるが、今度この瓶が実際に役立つのは五年先か、十年先か判ったものではない。それ迄に標本瓶がなくなるか、割れて仕舞うことの方が確率が高いようだ。
今度こそ台風の目に入った海鳥が、再び京都市内に落ちてくるのを待って、鳥学会に迷鳥の報告をしようなんて考えることは、まことに学問に忠実ではある様だが、実は大馬鹿者の考えることである。それは風速五十米、半径二百キロのマンモス台風が、まともに京都市街を通過するときを待っていることである。人間が大切か、迷鳥報告が大切か言はずと知れたこと。
いつまでも平安の都であり、貴重な古文化財を守りぬくためには、トウゾクカモメなんか京都市内に落ちてこないことを私は心から願うものである。
今度のトウゾクカモメ事件こそ、平安の都を荒らしまわった盗賊の親玉、はかまだれのなれの果てとでもいうところだろう。
追 記
トウゾクカモメはカモメといっても、普通のカモメとは形態、習性が大分異っているので、カモメ科の中でもトウゾクカモメ亜科として分類されている。
世界的に広く分布しているが、我国沿岸に見られるものはトウゾクカモメ、クロトウゾクカモメ、シロハラトウゾクカモメ、オオトウゾクカモメの四種類であり、これは又世界のすべての種類でもある。はじめの三種は北極の近くで蕃殖するが、オオトウゾクカモメだけは南極の周辺で蕃殖し、南極の冬(北半球の夏)になると我国沿岸に現われ越夏(南極中心に考えれば越冬である)するものである。
これ等の鳥の名前の示す如くに、勿論自らも食物をとることもあるが、それよりも主として他の海鳥を襲って、それ等の折角食べた食物を無理やりに吐かせて空中でかすめとるという横着な習性を持っているので、盗賊という名を冠せられているのである。その結果嘴や趾の爪もタカ類の様に鋭くなっていて、いはば海鳥の中の猛禽とでもいうべきものである。
京都動物園の判定は多分黒田長礼博士著鳥類原色大図説によられたものと思うが、その同定に誤りないものとすれば、問題の鳥はトウゾクカモメ Sterorarius pomarius ということになる。これは恐らく北方で蕃殖を終え越冬途中のものがたまたま台風により、南太平洋から京都まで逆送されてきてついに落下したものと推測される。
尚、オオトウゾクカモメのことは、南極に於てペンギンの雛や卵を襲うて食べるギャングであることを、皆様すでに南極越冬隊の報告などにより充分御承知のことゝ思う。
ある朝、未だ夢うつゝの耳に小鳥の高いさえずりがとびこんで来た。
ピッココ ピュイー ピッココ ピュイー
反射的に床をけって、双眼鏡を持つや宿の下駄をひっかけて外へ。漆喰ですっかり固めた琉球特有の紅い瓦屋根のてっぺんで鳴いている。
「あいつやナ」
双眼鏡を合せるが一向ピントがはっきりしない。どうやら原因は俺様かと起き抜けの眼を何遍もこするが、もうひとつかんばしくない。それでも、それが先日来から種名が判らなくて困っている奴であることはすぐ判った。
「あいつ、こんな部落の真中でも鳴きやがるのか……。畜生!」
なにが畜生なのか、自分でも判らない独り言である。
前の日、一里ばかり離れた久部良という漁村へ出かけた時のことである。そこには真赤なブッソウゲの咲き乱れた家並を過ぎ、畑の点在する丘の起伏の片隅にある小さな水場だった。最初は、ふわふわと大きなオオゴマダラが夕立上がりの木陰から出て来たのに眼を奪われて網を振り、又、カサゴソと時折、枝の上に姿を見せる、一尺は充分あろうかと思われるグロテスクなキシノウエトカゲを追いかけていたが、そのうち、井戸の奥の繁みへ盛んに小鳥が出入りするのに気がついた。そっとのぞくと、小鳥たちが交替で次々に水浴びにやって来るのが葉陰に手にとるように見える。小柄なイシガキヒヨドリが、わがもの顔にバサバサと水浴びして飛び去ると、そのあと、きまって待ちかねたように飛び降りて来るのに、ホホジロ大の小鳥がいる。額から頭上を頂点に三角形に黒く、そこから後頭部にかけては純白で、それが肉眼でもよく目立つ。さえずるときは、木のてっぺんか枝の出ばったところで、「ピッココ ピュイー ピッココ ピュイー」と張りのある高い声で繰返す。急いで図鑑を繰ってみると、シラガホホジロというのがある。そう考えると、カラの類よりは大きさや姿もどこかホホジロといった感じがしないでもない。しかし注意して見ると、ほゝの黒い部分に、はっきりと暗褐色の耳羽が見えるし、背は黒い黄緑色、腹部は灰白色で上胸がやゝ淡褐色、くちばしの形にしても、どうもシラガホホジロではないらしい。雌なのだろう、頭の白くないのもいる。これは背の黄緑色が目立つし、それに、巣立って間もない幼鳥がたくさんいる。これは連立って水浴びに来てにぎやかである。そのうち、始めオオヨシキリかと思った「グエグエ」という鳴声も、この鳥が時折混えるものだと知った。
しかし、そんなわけで結局何者なのか判らずじまいで次の日の朝も、「あいつ、こんな部落の……畜生!」ということになったわけである。
八重山もこの与那国島まで来ると、流石に西の果て、天気が良いと、ここから台湾が見えるという。台風の接近で船が出ないまゝ一週間、折から南の島は豊年祭りでにぎわい、戸毎にビロウの葉で包んだ餅が蒸され、境内には急ごしらえの天幕が張りめぐらされる。当日、朝からつめかけた人々に混り、お神酒の泡盛をきこしめした風来坊の私にとって、三つの部落が競い合って繰り広げる奉納の琉球舞踊と民謡は、独特の情緒を秘めた蛇皮線の旋律と共に、こよなく旅情を慰めてくれたし、又、忘れ得ない旅の一こまともなった。
そしてこの島をあとにした私は、それから一ヶ月余りの旅を続け、あの水浴びに来ていた小鳥が、ヤエヤマシロガシラだと知ったのも、大阪へ帰ってからのことだった。
三島池探鳥かえりの車中のことである。
私とは少し離れて坐席を占めていた四人の会員の話題がふと耳に入った。
「この頃、シラサギがふえてカラスが減った様ですね」
「そういえばそうですなあ」
「どういうわけですかなあ」話はこれで打ちきられた様子であった。
私はうしろからきいていて、こういゝたかった。
囲碁をやることを烏鷺を戦はすという。そのとき白の碁石を持った方は黒の方より強いから、白サギがカラスに勝つのは当然。
「では白サギはカラスに何目勝ちましたか」との問に対する返答は左の通り。
五、六目(鸛鷺目)勝ちましたよ。もちろん相手は演弱目(燕雀目)ですからね。
鳥が好きで俳句に興味があるとなると、いきほひ鳥の俳句にどんなのがあるか調べてみたくなる。そこで山谷春潮著「野鳥歳時記」、本年度発行の俳誌「馬酔木」「ホトトギス」各月号すべてに眼を通してみた。故人の句や古い句にまでは時間の余裕がなかったので、取り敢えず此の三点にしぼってその中から私なりの基準で好きな句を選んでみたのが即ち左記の通りである。一 「野鳥歳時記」より
囀や絶えず二三羽こぼれ飛び 虚 子二 「馬酔木」(昭和36年1月号より11月号まで)
光恒寺
山椒喰松風絶えて鳴き澄める 秋桜子
黄鶲にこゝろせかれつ顔洗ふ 同
慈悲心鳥声かけめぐり天白む 春 藻
郭公や眠りの浅き旅の夜を 誓 子
筒鳥をかすかにすなる木のふかさ 秋桜子
しんしんと寒波来し夜の鴨の声 同
さすが山谷春潮氏が古今の多くの句の中から厳選しただけあって、此の本に引用されたのはいづれ劣らぬ佳句名吟ばかりであって更にその中から僅かを選び出すのは大変骨が折れたが、右記の中から三句ほど更に選べと言はれれば、秋桜子の山椒喰の句と筒鳥の句、春藻の慈悲心鳥の句と言下に答えられる。この三句は日頃私の愛唱措く能はざるものである。著者の春潮氏も褒め讃えている句である。それに追随して私もいってるのではない。これほどサンショウクイ・ジュウイチ・ツツドリの特徴を如実に的確に捉えて、しかも美しく詠いあげた句はおそらくないであろうし、又今後これ以上の句が発表されたとしてもやはりこの三句は私の脳裏から離れないと思う。まだまだ引用したい句が他にも沢山あったが紙面の都合上割愛する。
癒えしやと医師来るを待つ鵙の朝 斜 陽三 「ホトトギス」(昭和36年3月号より10月号まで)
雪近し声なき百舌鳥が尾をまはし 星 眠
頬白にわが影とゞく冬の暮 星 眠
庭に群るゝ椋鳥東風に乗り来しか 新井石毛
降りることためらふこゑの夕雲雀 片山鶏頭子
三光鳥巣ごもる楢に霧はやし 牧原 泉
雪解風雀の胸毛吹かれをり 原田露星
木走や山毛欅の凍りし苔おとし 峰岸新樹
鳥寄せや再び問ひて小瑠璃なる 長屋せい子
煤掃くくや通し燕の巣をかばひ (三重)小亀双々
予想通り同人の句・投稿者の句共に野鳥の句が多く、しかもいづれもそれらの鳥を知らねば創り得ない名句揃いであった。右の句は、鳥を借りて人事を扱った句や或は鳥を抽象的に詠んだ同人の句よりも、鳥の生態や特徴をよく捉えたもの、愛情をもって鳥を見つめて創った句を主眼にして選んだものである。キバシリの句は年間通じてこれ一句のみだったように思う。希少価値といはむよりこれは立派に木走の句であると思う。去年か一昨年の例会で貴船で忘年会のあった折鞍馬から抜けて行ったが、鞍馬の参道附近の樹を匍っていたキバシリのことを思い出す。一羽のキバシリが人気ないうすら寒い師走の鞍馬にいたその時の、忙しさが蘇ってくる。「煤掃くや」の句は越冬つばめの事だろうが、作者の三重県にもそれが居るらしい。越冬つばめを詠んだ句もこれかぎりだった。
年間通じてよく詠はれた鳥は、秋はモズ・ヒヨドリ、冬はカモ・カイツブリ、が圧倒的であり、晩春から初夏のシーズンは各号鳥の句で埋まっており、富士の高田さんの鳥寄せに随行した「馬酔木」の投句者の句が七、八、九月号にはおびただしく掲載されていた。しかし私の最もお気に入りの鳥の一つであるサンコウチョウやキビタキの句は数えるほどしかなかった。右に掲げたサンコウチョウの句は、去年京都野鳥の会の我々が高田さんの案内で富士裾野で観察した巣籠もりのサンコウチョウの情景そのまゝではありませんか。
「ホトトギス」の行き方に飽き足りなくて創刊された秋桜子の「馬酔木」を読み今また「ホトトギス」に眼を移すとなると、俳人ならきっと無定見だとて笑うかもしれないが、とにかく鳥そのものがテーマなのだからどの派であろうとも仮令口語無季俳句であっても、できる限り多くの句を味うつもりである。
白鳥に夜星夕星置きそめて (青森)村上三良
水の禽種類ちがへば素知らずに 杷 陽
囀のこぼれし一枝崖に伸び 今城余白
白鳥の去る日の近し畦を塗る (新潟)福田 忠
鶺鴒に磧温泉いまだ明けきらず 清水早春
鷺肩を峙て眠り秋の雨 年 尾
濯ぎゐて朝時鳥聞き洩らし 松本有り子
啄木鳥や鳩時計鳴る大墾家 (ブラジル)斉藤信山
引用句中特に地名を附した理由はよくおわかりのことと思う。「ホトトギス」では「馬酔木」にくらべて鳥の句はまことに少い。花鳥諷詠・客観写生を標榜しているにも拘らず、鳥の名は季語を句に入れるために便利に利用されているにすぎない。今年の六月、「ホトトギス」の高野山大会に参加して驚いたのは、実際啼きもしていないホトトギスが句に登場して来たのである。吟行に随行したのでその嘘がわかったわけだが、また一方では間違った鳥の名を句に入れているのが選に入ったりして、子規・虚子・年尾三代に亘って提唱されて来た客観写生の根本精神の不確かさ、安易なマンネリズム、透徹した客観写生でなく対象の表面のみをたゞ眺める傍観主義等のせいか鳥に関しては本物の句でないと思った。「出し」に使はれたホトトギスその他の鳥たちこそ迷惑である。
ところがそのような傾向とは全く対照的に年間通じて鶴、殊に八代の鶴を描写した名句が数多くあって又もや少なからず驚いたのであった。鶴に対しては所謂「ホトトギス」精神は面目躍如たるものがあった。「ホトトギス」系の一部の俳人仲間で鶴を詠む事が一種の流行となってるのだろうか。「馬酔木」ではあまり鶴の句が見られずたまたまあっても左の「ホトトギス」掲載の句にくらべて遜色のない句があまりなかった。
田鶴の声耳に憑きゐる夕餉かな (伊予)池田美国
夕鶴のさだかならねど下りてゐし
年ごとに減るてふ鶴よ見に行かむ
以上二句は(伊予)三好茱英子
翔つ鶴の影移りゆく冬田かな (波止浜)八木 春
凍天にひゞきて田鶴の声なりし
朝夕の田鶴のみちなる尾根の松
翔つ鶴の風に向ひて首のべし
ひしひしと霜のけはひや鶴の声
以上四句は(伊予)村上杏史
鳴き合へる天地の鶴に昼の月
耳遠き吾れにも確と鶴の声
以上二句は(広島)村上星洞
中でも杏史氏の「翔つ鶴の風に」の句や八木氏の「翔つ鶴の影」の句等には拍手を送りたい位である。「馬酔木」では唯一句、鹿児島の福永耕二という人の左の句を推したいと思う。
青天のどこか破れて鶴鳴けり
以上大急ぎでまとめたため記述は粗雑になってしまったが、語れば切りのない野鳥俳句談義ではある。来年は古今の句から鳥の種類別或はまた俳人別に鳥の句を集めて発表したいと思う。終りに私自身の拙句を掲げて皆様の御批判を仰ぎたい。
朝着きてやすらふ宿に田鶴聞こゆ
朝鴉(?)や機織る音にさきがけて
鳰の寄る入江の岸の雪厚く
春風に鴎遊べる船渠かな
鳥きゝに出づる宿坊明易き
緑蔭に懸巣の色の見えかくれ
椋鳥の群れ翔け松の緑ゆれ
水平にまた垂直に岩つばめ
巣燕の蕎麦屋のありし軽井沢
牧場の雨に牛去り郭公啼く
以上
あれは数年前の八月十五日の事だったと記憶しています。なぜ日付をはっきりと覚えているかといえば、その日は丁度うら盆会に当り、然も、奇しくもその様な時に(私自身の短い経験の中ではありますが)強い印象を受けた出来事に遭遇したからです。
うら盆会。私の家は石川県美川町にあります。まだ旧暦に従っている家のかなり多い北陸地方ではこの日にお墓参りをする家が沢山あります。家から墓地へは、かなりの道程で約三キロ位。自転車に母を乗せて出かけたわけです。
墓地のある辺りは海岸線に沿って長々と砂丘が続いている所で、波打際から少し離れた所には風による砂丘の移動を海岸線の浸触されるのを防ぐ為に、非常に沢山の松の樹が植えてあります。その砂防林の附近へは、秋はツグミガシベリアから渡来し、冬には可愛いキクイタダキが、シジュウカラ、コガラなどと混ってやって来て松の樹皮や、松かさなどを啄ばむといった具合いに、平地ではありますが白山に源を発する手取川の河口に位置し、能登半島の付根の更に南に当る関係上、割合に鳥の種類が沢山見ることができます。墓地はこの細長い砂防林の中にあり、街の方へ延びている水田とは、時折バンやオオヨシキリの巣を見つける事の出来る小川に依って隔てられています。
ズラリと並んだ墓標の左右にも黒松がスクスクと伸びている。早春の暁などに松露を取りに来る人を時々見かけたりする程度で余り訪ねる人はありませんが、今日は家々のお墓にはそれぞれ花が飾り乱れ、人の姿もちらほらと見えて何となく、盆の気分が醸し出されています。墓前の松葉を掻集め、私は母と一緒に清掃を終えた。その時さっきから鳴いていたモズの声が急に気ぜわしく聞こえてきた。調子が少し高いようでいつもとは違って聞える。私には、この松林はホームグランドの様なもので、幼い頃から独り良く馴染んだ所で、やってくる大概の鳥は知っている積もりでした。然し、どうも普通の声とは違う。その声は幼い時から小鳥の事にかなり異常な熱意を示してきた私の興味と好奇心に深く訴えてきました。私の心は新しいものを今、将に得んとしている時のあの不安と何か大きく胸を膨らますような期待でふくれました。お参りはもう後廻しだ。モズはまだ鳴き続けている。全体にちょっと白っぽい感じで、私が少し動くとその鳴き方も変り、枝から枝へ飛び過って行きます。コチドリ、コアジサシの経験からこれは巣が近いんだなと思い落着いて観察しようと幹に体を支える様にして或る一本の松の下へ立った。鳥は人の姿の近い事で相当興奮している様なので、そこで暫く驚きの静まるのを待つことにしました。けれど、そのモズは飛び回る事を止めるどころか、かえって声の鋭さを増してさえくる様です。木によりかかり、体を硬くして上方の鳥の動きを目で追ってみると、どうもこの松を中心にして誘う様に時々離れる以外ほゞ円形に廻っている様で、あちらの枝からこちらの枝へと、私の頭上には枝が車軸の様に出ていて下からはその枝以外見えないが、そこにこの鳥の巣が懸かっているらしい。
鳥の鳴き声がちょっと普通のと違うこと、及び巣が在るらしい事とで私は無意識にその直径三十センチ位の松に登りはじめました。鳥の鳴き声は非常にけたたましく聞こえています。更に登って五メートルばかりの高さになった頃少し離れた別の松の枝に急に声がして首を回すと同じくらいの高さの枝で尾を上下に振っている鳥がいる。チゴモズです。思わず心がギクッとしました。未だこの松林で観察した事のない種類であり、比較的数も少ないらしいのでまさかここでみる事が出来ようとは、夢にも思っていなかったからです。
この鳥も「はやにえ」を作る事が記されていたのを思い出し、暫く鳥に見入っていましたが、初めて見る鳥なのに以前観察したことのある鳥に会った時の様な懐かしい感じがします。然し更に一枝をグッと握って体を持ち上げると目の前に巣がある。未確認の鳥を見つけた事と同時にそれの巣まで見る事の出来たこの喜び以上の喜びがあるだろうか。松の幹と枝に挟まれた間に、以前みたモズの巣と酷似して、それよりやゝ深めで、細根等で作られた巣がありました。然し覗き込む様にその中を見た時私のそれまでの興奮が何かジーンとした熱いものに変わっていくのを感じ思わず目を閉じました。そこに見たものは巣立ちま近かな雛鳥の無残にも半ば腐乱しかかった姿でした。親鳥がほんの今まで暖めていたのでしょう。ほのかな温かみが手に感ぜられます。「なぜお前は鳥などに生まれたんだ」と思わず近くの枝で今も悲愴に鳴いているチゴモズに話しかけたい様な感情がどっと押し寄せて来て目頭の熱くなるのを押さえる事が出来ませんでした。約十五日位で巣立ちする事より考えて、七月の末頃に産卵したのであろうけれど、他の数羽の雛が全て巣立ちし、この一羽の雛の巣立ちの遅れを気に病んで一生懸命温めていたのであろうけれども…。
この時の状景が今も私の頭に強く残っています。「何か書いてくれ」といわれ、充分描写する事ができませんでしたが書いた次第です。鳥達が今後増々殖えて野に山に美しいシンフォニーを聞かせてくれる事を望んで、この文を終ります。
テレビが普及し始めた頃、一億総白痴と云う警告がささやかれた。このテレビや漫画本のせいばかりではないと思うが、近頃の子供達は、さっぱり自然を友として遊ぶことを忘れたようである。都会は勿論、田舎に於ても同様である。
これは誠にゆゝしい問題と考へられる。
我々の子供の頃には、誰しも自然を友として遊んだ楽しい想い出があるのであるが、一部のナチュラリストを除き、長ずるに従い例外なく自然を遠ざかり、かえりみなくなった。
自然の軽視とゆうか、そういった世の中に育ったからである。
世はあげて機械文明の進歩を賞讃し、自然についてはこれを利用するときとか、趣味の対象とするときの外、殆どかえりみられることがなかった。反面、かくの如くもてはやされた機械文明は、当然の結果として日進月歩に独走し最近に至ってはどうやら手に負えぬ暴走を始めたようである。
これはなにも原水爆の発明に限られたことではなく最近の社会にはあらゆる面に行き詰まりや矛盾となって現れて来たようである。成程、現代人、特に都会人の生活は、表面如何にも便利になったように見受けられるが、実は極度に組織化され、機械化された日常に、唯空しく振り廻されているといっても過言ではない。そして亦、人間の欲望が機械文明と結びついて居る限り、この傾向はいよいよ強くなり、欲求不満は同時に耐え難い社会的劣等感と結びついて、人類は遠からず、社会生活自体を苦痛なものとして感ずるときが来るものと考えられる。
最近、アメリカあたりでも精神的な救いを、禅の研究に求め、亦レジャーの活用を真剣に考え始めて居ると聞く。それも結構である。併し、本質的には、先づ科学の、機械文明の独走をあたかも人類社会の向上であるかの如くもてはやすことを止めるべきである。そして冷静な人間性を反省すると共に、生物としての人類と大自然の関係を単なる打算ではなく虚心に再検討することこそ必要である。
現代人はすべからく自然にかえるべきである。かゝるときに、現代の子供達が、既に子供の内から自然を離れ遠ざかる傾向にあることは何としても容易ならぬことと考えられる。
これは、一ナチュラリスト、私の単なるきゆうに過ぎないのであろうか。
少なくとも次代を背負う子供達が、積極的に自然を友とし、自然を愛し、自然美を探求することに誇りを感じつつ長ずることが出来るような教育が必要であることを痛感する。
あまねき月の光に人の世の平等を感じ、秋に散る一葉の枯葉に人の世の美しさを語り、鳥の囀りを求めて山野を渡ることが、少し変って居るなどと思わせる世の中が正常であるとは考えられない。
私の幼少の頃の野の鳥の想い出記も、この意味に於て何らかの参考になれば特に幸と思うものである。
夕焼と五位鷺
小学一年の春、一家と共に郊外の新居に移った私にとって、雑木林と小川に囲まれた村里の生活は実に素晴らしいものであった。およそ陽のある内は、家を忘れ、自然を友として飛びまわったものである。
そんな私にとっても、町中とは異なる日暮れ時の淋しさ、たよりなさは亦格別で、父は帰らず、母も亦夕餉の仕度に忙しい一時、何時も門辺に立って西の山と暮れゆく空の色を眺めて時をすごした。「夕焼け小焼け」や「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」等といった歌を姉と共に声を合せて歌ったのも日暮れ時のわびしさをまぎらわすためであったのであろうか。
山の端に沈む大きな太陽、真赤な夕焼、そして消えかかる残照の内に輝き出す宵の明星、それらすべて子供の心を引きつけずにはおかぬ美しい自然現象であったが、尚亦別の大きな楽しみもあった。
夕空を渡る鳥の群を見ることである。
珍しい鳥は極くたまさかのことであったが、東の山の塒に帰るカラスの一族と、西の田圃に餌を求めるゴイサギの一群を見るのは常のことであった。
カラスの一族が、お互いに鳴きかわし乍らも、われ先にと急ぐのに較べ、ゴイサギの群が常に列をつくって整然と翔ぶのは面白い見物であった。クワ!クワ!と二声づゝ区切って、鳴き乍ら、このゴイサギの一群れが近づくと私達は声をそろえて、
『ガンガン竿になれ鍵になれ、後のガンが先になれ』とはやし立てた。その頃の子供達はこの鳥がガンではなくゴイサギであることは充分知って居たのであるが、ついにガンガンで通してしまった。つまりはその方がゴロがよかったからにちがいない。それにしても子供の声に合せたかのように、折々ゴイサギが後先き入れ替るのは妙であった。
或る秋の午後、私は一人近くの川辺に遊びに出かけ背丈よりも高い葦原の小道を歩いて居たときのことであった。ほんの五、六米先からパッと飛び立った大きな鳥が、ダン!とゆう一発の銃声と共にそのまゝふわっと横に傾き目の前に落ちて来たのである。私は突然の出来事にとまどひ乍ら立ちすくんだのであるが、すぐ葦をかき分けて獲物を拾いに来た男は、意外の場所に子供を見つけて一層驚いたことゝと思う。びっくりして立ちどまると、暫くは声も立てずに私と鳥とを眺めて居たのであるが、無言のまゝ近寄ると腰をかゞめて鳥を拾い上げ首をにぎってブラリと下げた。
その鳥は、私が夏の間、山の沼でひそかに眺めて楽しんだゴイサギに似てはいるが、少し違って居るようにもみえた。私は勇気を出すと、おそるおそる「その鳥はゴイサギであるか」と尋ねてみた。男は小さな子供からまともな質問を受けて、意外と言った顔付をしたが、
「そうだゴイサギだ。未だ子供だから体の色がちがうのだ」といゝ乍ら、まだらになった腹の当りを示して私にさわらせると、がさがさと葦をかき分けて立ち去った。
私の小学二年の秋の暮れと記憶している。
そんな私であったから、ガンガンとはやし立てる私達のの声をきいて、たまさかに親切な大人が、あれはガンではないゴイサギであると教えてくれると、かえって妙な気がすると同時に、未だ見たことのないガンに就て、色々と空想してみるのであった。
北風が吹き始めて、夕べの遊びにも興を失った或る日のこと、全く偶然の機会であったが、今迄に一度もみたことのないとても首の長い大きな鳥が、一列の横隊を作って私達の頭上を渡った。随分と高い空であったが、コキコキコキと翼の音がきこえて来るような荘重な感じがして、皆我を忘れて見送った。
「あれは何だ!ガンかな、ツルかな」「ガンにちがいない」うそ寒い初冬の夕暮れであったが、始めて見るこの大きな鳥との見参に、胸をふくらませ、ほゝを赤めて家路を急いだのであった。
これは正しくガンであった。以来、今日迄、かくの如き見事なこの鳥の横列を見ることがない。
木枯と連雀
梢に取り残されて、目白やヒヨドリを喜ばせて居た真赤な柿の実が、熟し切って落ちてしまうと、村里は急に冬ざれて来る。
ザワザワと櫟の枯葉をならして居た風も、いつしかヒューヒューと音をたてゝ吹き始める。木枯しである。私は木枯しの音をきくと今でも子供の頃のタコ上げと、レンジャクの群を想い出す。
当時の私達の田舎では、ほとんどの子供が自分でタコを作った。セミダコである。
このタコは、すごく大きいものか、或いは小さいものを作るのがむつかしく亦自慢であった。小さいものは安定が悪く、余程上手に作ってもくるくる廻って上らないからである。
子供の中には実に器用な者も居って、鎌一丁をつかって美しく艶のある煤竹をけづり、炭火でたわめて、実に形の良いよく上るタコを作った。
さゞんかが咲きウグイスの地鳴きする農家の庭先で、この見事なセミダコを見せつけられ、うらやましくて泣きたい程であったことを想い出す。
学校から帰ると子供達は、それぞれに自作のタコを持ち出し、西日の当る稲塚の日溜に北風をさけてタコを上げた。背中につける弓型のウナリの弦には専ら、平ゴムか麻の皮をうすくはいでつけたように記憶して居る。父にせがんで買ってもらった三尺に近いセミダコは、とてものことに幼い私の手には負えなかったが、鯨のヒゲのウナリが妙らしく、年かさの近所の子供が交る交る訪れては、私を誘い出した。
この木枯しの吹き初める頃、きまって庭の桜の木を訪れる珍らしい一群の鳥があった。レンジャクである。
私がこの鳥の名前を知ったのは、勿論ずっと後のことではあるが、その奇妙な習性と鳴声が印象にのこり、四季を通じてこの季節のそれもほんの二、三日の滞在に過ぎなかったのではあるが、その頃特有のあたりの物淋しい風物と共に忘れられない。
この鳥の庭への訪れは、必ずその鳴声で知ることが出来た。かぼそくしかしよく澄んだこの鳥のリーリーリーリーと鳴きかわす声をきくと私は何を置いてもそっと縁に出て、ガラス越しに桜の梢を眺めるのを楽しみにして居た。この鳥は必ず十数羽の一群で訪れ、例外なく全部が桜の一木にとまった。
逆立った頭の羽毛と細そりと良くしまった体形をもつこの鳥はほとんど枝移りをすることがなかったので、少し離れてみると、枯木についた大きなみの虫のようにも思えてならなかった。
木枯しにゆれる桜の梢は、いづれにしても、長い休養には適さぬのであろう。群を促すように一羽飛び立っては戻り、二羽三羽こぼれるように舞ひ上がっては戻る内に、やがて総立ちになって何処ともなく去って行くのを常として居た。
寒々とした桜の梢に初雪のちらつくのも間近い頃のことであった。
日 時 昭和36年2月3日〜5日
場 所 山口県八代の鶴と松江の白鳥
参加者 川村、橋本、大中、高田、佐藤、田中、浜畷、久保(信)、中島、松村、久保(忠)
2月3日、午后9時京都駅に集合、「西海」を変更して京都仕立ての22時30分発「玄海」で出発。幸い皆まとまって座席を確保できてひと安心。しかし大阪から乗り込む浜畷氏には予定変更を連絡してあったが、姫路から乗る中島嬢にはうっかり連絡を忘れ電報を打つやら車掌に「西海」に乗らぬよう電話してもらうやらで気をもんだが、プラットホームに中島さんの姿を認めて一同ほっと胸をなでおろす。
早朝6時岩国着。先発の橋本会長が出迎えに大いに感激、眠むけまなこも一度にふっ飛んでしまう。岩徳線高水駅で下車、バスが出るまで駅にあった鍋鶴の剥製を拝借して田圃に持ち出し、インスタント生態写真?を撮影したり鍋鶴嬢と一緒に記念撮影したりする。附近の灌木には全く人怖じしないジョウビタキの雌が居り、手の届くような近くから逃げようとせず、つぶらな瞳で私達に挨拶してくれる。
田舎のでこぼこ道をバスで三十分、峠を越えた静かな盆地が鶴の越冬地熊毛八代であった。周囲を山にかこまれた標高320mの平和郷である。旅館鶴見亭前で下車する。前方の田圃を見れば待望の鍋鶴が五十羽ほどたたずんでいる。早速双眼鏡を取り出して心ゆくまで観察し御機嫌を伺う。鍋鶴はタンチョウんおような華麗さはなく一回り小振りで灰色と云う地味な色合いだが、それでもやはりサギなどと違ってスマートな威厳を保っているようだ。
旅館では前日から来て居られた川村先生にお会いし一同大喜び、朝食の出るまで興味深い鳥談を聞く。鶴見亭は名の示すように看板に偽りなく居乍らにして鶴を観察することが出来る。折から空を乱舞する一群や田圃にたたずむ親子連れらしい四羽の一家団欒の情景が手に取るように眺められた。
鶴首して待った朝食にやっとありついて人心地がつき、さて皆手に手にカメラと双眼鏡を持ち大いに成果をあげ傑作をものにせんものと出掛ける。私は橋本、高田両氏と行動を共にした。田では足早やに駆けるツグミがよく目につく。300mばかり歩いた時、左手の台地に二十五、六羽いるのを見つけ出来るだけ近ずこうとゆっくり前進する。しかし土地の人々には頗る寛大なツルも私達他国者にはなかなか警戒心が強く80mほど近ずいた時ゆっくりと飛び立った。やはり本当に観察しようと思えば餌場の近くにブラインドを張って持久戦にもってゆかねば駄目だなと感じた。
今シーズン当地へ渡来した数は百三十二羽とのことであるが、これが一つの集団になることはなく、幾つかのグループに別れて生活しているようだ。昼間はかなり遠方まで出かけてゆくのか時間によって全然見かけない時もある。川村先生のお話によると、夕方五時半頃になると出稼ぎに行ってたツルが一斉に帰って来て勢揃いし空を美しく旋回して飛ぶのだそうだが、私達はその光景が見られぬので残念だった。
何しろ百八十年の歴史を誇る八代の里では人々が鶴を愛すること、恰も恋人に対するが如く、また村の老人達の話ぶりは鶴を孫のようにいつくしんでいる様がはっきり感じとれる、と佐藤先生は話して居られた。
このように鶴は村の宝として大切に保護されているが、更に一歩進めて瓢湖の白鳥のように私達の手から餌を食べるぐらいに積極的な対策を検討してもよいのではないかと云う意見が出たりした。
四時過ぎ名残りを惜しみながらバスの人となる。次の目的は宍道湖の白鳥である。
広島から芸備線の夜行に乗る予定。土曜のためかスキー客でごったがえし、座席を取るのにプラットホームに三時間余りも座り込む。骨身にしみる寒さを我慢して頑張ったお蔭で全員の座席がとれる。
5日5時40分松江着。改札口を出ると夜明け前の早朝にも拘らず、島根県林務課の陶山技師と小草主事がわざわざ出迎えて下さり一同恐縮、早速手配して下さった駅前の旅館一文字屋(千鳥の間)で休憩、夜汽車の疲れと寒さを癒す。その間も林務課の方々には白鳥の居所を確めるべく、電話であちこちと連絡をとって下さる。朝食の後しばらく鳥談。当地の1月30日付の毎日新聞は写真入りで京都から我々一行が白鳥の調査に行くことが記事に出ており、その切り抜きを読ませて頂く。また先日松江でノガンが捕れた由、連絡不行き届きのため猟師が食べてしまったとの事、全く惜しいとの声がしきりである。
林務課の方の案内で8時半旅館を出発する。ラジオ山陰と島根新聞の記者も同行、いささか物々しくて面映ゆい気がする。
最近白鳥は宍道湖には寄り付かず、中の海に居るとのこと。バスで松江市の東端、東出雲町西端にある出雲郷橋で下車、意宇川の右岸を川口に向って進む。附近の民家は防風林「筑地の松」が巡らしてあり如何にも郷土色豊かである。雪が十センチ近く積っており滑らぬように注意しながら歩く。川口近くまで来ると松原越しにオオハクチョウが点々と浮かんでいるのが見えた。川口に出て双眼鏡で確かめたところ、岸から百メートル余りの所に66羽、更に沖合に20羽、17羽、15羽の三つのグループが悠々と浮んでいる。
灰色のが可成り混っているのは昨年生まれの幼鳥だろう。鶴などに較べて繁殖力が強いためか半数近くが灰色をしている。カメラに収めようとするが遠過ぎて粟粒みたいにしか撮れない。けれど瓢湖のようになっていないのでどうしようもない。暫らくすると沖合の群が一列縦隊になって近くの群に合流しようと泳いでくる。同じ間隔を保って一列に並んで泳ぐ美しさに一同しばし見とれる。遅れた群は二羽三羽と飛び立って全部近くの群に合流してしまった。百羽以上の大集団になったオオハクチョウは、そこから何処へも動かずに浮びあるいは潜って遊んでいるようだ。附近の浅瀬にはコサギが三羽餌を漁っており、岸辺にはシロチドリ、ツグミが小走りに走っているのが見える。寒空にはカモメ、トビ、それにミサゴが一羽ゆっくりと飛んでいる。こゝから東を仰げば伯耆大山の偉容が素晴らしく美しく銀色に輝いている。ここゝでやって来た甲斐があったと痛感する。
林務課の方々の一方ならぬお世話により首尾良く観察出来たことを非常に喜んだ。浜畷さんはあとに残って尚観察すると云うので途中で別れ、私達は松江城(千鳥城)を見学、お堀に飼ってある傷ついた白鳥を慰問した。
今度の探鳥会は天候にも恵まれ、川村先生にも参加して頂き、大変楽しく気持のよいものであった。殊に島根県林務課の陶山・小草両氏の無私の御好意には何度感謝してもし切れない気持である。もし案内して頂かなければ、私達は宍道湖の方へ行ってしまって白鳥を見ることさえ出来なかったかも知れない。(久保忠雄記)
日 時 昭和36年3月21日
行 先 真野附近の丘、白ひげ・木戸の湖畔
参加者 浜畷、伊藤、烏賀陽夫妻、大中、南、千葉、山、内田、佐藤、橋本、士永
春分の日、江若鉄道真野駅下車。道を西にとって沢組、普門の部落から丘陵地帯に入る。早春のにぶ陽のさす雑木林には、もうホオジロがしきりに朗らかな春の歌をうたっていた。しかし比良連峯の頂にはまだ残雪が白い。和邇の部落へ下る林の中でウソの澄んだ笛のような声をきくことができたのはうれしかった。気品のあるシュンランの花が開き、村落にはまだ梅の花が盛りである。和邇からふたたび江若鉄道で白ひげに向う。土永さんに出迎えていただき、神頭の浜にでる。風がやや出たので、こんな日には鳥の姿が少いとのこと。沖にカモメの一、二群が可成早く泳いで移動している。大形のはアビの群らしく思われた。もっとも一般にはアビといっているものの中には、オオハムも混っているとの論議がでた。すぐ前に大きな赤い鳥が居たがこれは神社の大鳥居、はるか彼方には湖北の白い山なみ。土永さんの御世話の熱いお茶で昼食をとる。午前、近江木戸の浜に沢山カモが浮んでいるのを車窓からみてきたので、途中下車してそこを訪れようということになる。マガモかツクシガモかが判定できなかったが、とも角、可成の数が風向に首をならべて浮んでいた。岸近くにいる一羽は双眼鏡による精査の結果カンムリカイツブリだということに衆議が一致した。再び浜大津行の列車にのった頃、日は蓬莱産の彼方にかたむいた。(佐藤磐根記)
日時 昭和36年4月30日
場所 洛南巨椋池干拓地探鳥会
参加者 川村、宮城、佐藤、中田、佐川、伊藤、入江、山本、高田、太田、橋本、久保(信)、南、山本(新)、大中、奥田
大阪支部より 藤原、平松、浅原、北川、岡田、真下、鈴木、他数名
川村先生を講師にお願いして大阪支部との合同で、特に美声の持主巨椋の雲雀と、近年その繁殖が判明したケリを、見ることにした。
目的地奈良電小倉駅は、巨椋干拓地700町歩広大なる耕地の中に、ポツンと建って居り、駅を数歩出ると、もう、雲雀のふる様な鳴声で圧倒される。区画された耕地の路を横切り、用水路の橋の上にたつと、ケリの幾組が、警戒音を発しながら、我々の上空を右左にとびすぎる。川村先生より雲雀に関するうんちくをこめたお話を、わざわざ立派な鞄にお入れになり携行された標本を手にしながら、長講を一席拝聴した。雲雀の声に正午をわすれ、日の高さにより、春草の上にて昼食をとる。用水路には、きれいな流に品字藻が茂り、エビガニの幼虫が無数に孵へり、遠くには、コサギ、チュウサギ、にまじり、アマサギの橙黄色が、鮮やかに印象的であった。午後現地で自由行動となり、大阪組は淀一口方面へ、京都組は帰るものと、ケリの生態をきはめる組とに分れた。ケリの居る方へと、幾枚かの畑を歩行しながら数時間、ようやく一巣を発見近くの農小屋をブラインドとし、待つこと一時間、親鳥が降り立ちたることを確認して、佐藤先生、高田さんの、写真を期待しながら、帰路についた。(大中啓助記)
日時 昭和36年6月4日
場所 貴船花背峠方面
参加者 烏賀陽夫妻、久保、小泉、千葉、当麻、南、中田
前日より持越した何となくうっとうしい空模様。九時二分出町発鞍馬行きに乗車。橋本会長以下お歴々の欠席のため、いささか淋しい気もする。貴船口にて下車してゆっくり歩を進めて行く。ヒヨドリがよくないていて個体数も多い。その他ツバメ、カラス、そしてウグイスの声も聞かれる。「以前は河の左岸の方に道が通り木々がうっそうと茂っていた。」等、千葉さんより聞く。この川では、よくカワガラスを見かけるとのことだが、残念乍ら発見出来ない。
貴船神社近くでキセキレイを見る。ヤブサメの涼しげな声も聞かれる。川辺はカジカのコーラス。都塵を離れ、やはり今日来てよかったと、つくづく思う。雲畑へ通じる道との別れにて休憩。これからいよいよ山道にかかる。間もなく芹生峠への道とも別れ、旧花背峠に向う。このあたりを安造谷(アソガタニ)と呼ぶとの事。みちみちいろいろな植物の名を教わるが、どうも鳥のようには簡単に覚えられない。烏賀陽さんは自宅の庭に来る小鳥のために、移植しようとウドの根を掘って大切に持参のビニールに包まれる。このあたり時々思い出した様に、おなじみのホトトギスの声。うねうね道を登って行くと、すぐ近くでオオルリの声を聞く。その美声に続いて、「ヂュヂュ」と別の声がする。木の間をためつ、すかしつ双眼鏡で観察すると、紛れもなくオオルリの雌。雄の美声に雌がこたえているところであった。はっきりと雌雄とも姿を観察。一同声をひそめ、オオルリの声と姿を堪能する。はじめ、とまっていた木のあたりを離れては又近く戻ってくる。どうやら巣でもあるのかと推察する。
更に山路をたどる。道は次第に細く谷の流れも一段と急になる。十二時半頃ちょっとの開けた所で中食にする。谷川の水で手を洗ったりして、ゆっくり寛ぐ。昼頃から、空模様がやゝあやしくなる。
「今日は、どうもガラ類の声を聞きませんなあ」と話ながら登って行くと突然二回程、続けてツツドリの声。夢の国から聞こえてくる様な響きを持つ、この鳥の声は早朝、もやの中で聞くと、なんとなく神秘な気がするものだ。間もなくポツポツと小雨が降り出して、一行、雨合羽や、傘の用意をして前進。道は更に険しくなり、沢を越えたり、丸木橋を渡ったり、しばらくの間、鳥の声を聞かずに歩くと不意に旧花背峠の杉の木立に囲まれた祠に出る。小雨も降り止みそうにないので、芹生峠へのコースを変更して、花背村に通じる街道まで下る。次のバスまで、一時間四十分程待たねばならず、鞍馬まで雨中行進としやれこむ。バス道からはるか雨に煙る花背村を遠く見下ろした景色は、まわりの山々に調和して、あたかも、一幅の墨絵を見るようで、「雨の日でないと、こんな景色は見られませんなあ」と負けおしみを、云いながら、一同立止まり感嘆の声しばし。
バス道のほとりに、タニウツギの花が今を盛りと雨の中に咲いている。更に色をそえる様にツツヂの花も…。おすしの飾りにそえてあるヒカゲノカズラが、道わきのがけに広がり「この胞子は穂のような胞子葉につく」等、千葉さんの説明を聞く。又もやオオルリの声。今度も雌雄。しかもとても近くで……。更に一羽遠くで雄のなき声が聞える。「今日はオオルリに恵まれている」と一同しばし耳を傾ける。急ぎ足で歩く。我々の歩く前を、ひょっとホオジロが現われたりする。静かな垣にたる山道の途中、ホゝジロのような鳴声が聞えたが、よく聞くとセンダイムシクイであった。やがて平坦な道にかかる頃は、雨もおさまり、四時過ぎ鞍馬駅に着いた。
今日聞いた鳥は、キセキレイ、ウグイス、ヤブサメ、トビ、ツバメ、カケス、カラス、サンショウクヒ、コゲラ、ホオジロ、ヒヨドリ、ホトトギス、オオルリ、センダイムシクイ、ツツドリ、シジュウガラ。(小泉和男記)
日時 6月23日(金)より25日(日)迄
行先 軽井沢
案内 星野温泉星野社長(日本野鳥の会軽井沢支部長)
参加者 橋本、高田、伊藤、久保父子、久保母子、当麻、高橋、松村、中島、烏賀陽夫妻、藤岡、南、清水、大西、田中、山口
二十三日の晩、伏原先生の御見送りで「ちくま号」にて出発。翌二十四日朝八時目指す中軽井沢到着。星野社長は出迎へに来て下さっていた。燕が巣をしている駅前の蕎麦屋で軽井沢の蕎麦を大急ぎで味って、バスにて鬼押出へ向けて出発。生憎の霧雨で待望の浅間山は全然見えなかった。鬼押出附近の灌木林で探鳥開始。折悪しく雨が烈しくなってもう少しの事で気持までずぶ濡れになりそうだったが、雨にもめげず次に記す鳥たちが盛んに啼いてくれて京都からやって来た我々を鼓舞してくれた。八月例会
ビンズイ、オオルリ、キセキレイ、カッコウ、ホトトギス、ウグイス、アオジ、ノビタキ、等、就中ノビタキとアオジとの囀りは充分たのしませてくれ、京都の我々には非常に印象的であった。そのあたりから鬼押出の岩山へと我々は移動する。その頃は雨も上り、ミソサザイやシジュウガラの声も耳に入るようになった。鬼押出入口の茶店で一同は昼食代りに朝食同様蕎麦を食べた。こゝではキビタキ、ジュウイチ、ツツドリが啼いていた。
バスにて浅間高原を経て、神津牧場へ行く草原にはつつじや野生のあやめが美しかった。バスをおりて牧場を上ろうとする頃からまたもや雨が降り出し引返すほかなかった。このあたりではカッコウ、キジバト、シジュウガラ位のものであったが、小川にキセキレイが一番い戯れてゐた。その黄色が鮮やかであった。
午後三時頃星野温泉到着、宿の窓近くの葦の茂みでオオヨシキリがやかましく啼きつゞけた。窓からはキジ、キセキレイ、カッコウ、イカル、オナガが聞かれ、オナガの一羽は姿を御披露に及んだ。夕食後、星野社長の案内で宿の附近を鳥を訪ねて逍遙した。オオヨシキリ、ホトトギス、ヒヨドリ、クロツグミ、アカモズ、セグロセキレイ、コムクドリ、ムクドリ、アカハラ、サンショウクイ、コルリ、マミジロ、アオジ、ヨタカ等の姿を散見し、また啼声を耳にした。
翌二十五日四時起床、星野社長の御案内で星野温泉のバスで南軽井沢の草原へ向かう。生憎今日もまた霧雨。こゝでは、ホオアカ、ノビタキ、ウズラ、コヨシキリ等を雨中に傾聴して帰った。雨でなかったらオオジシギやタカ等が見られるのにと残念がりつゝ。
午前八時四分発の汽車にて帰途に着く。夕六時京都駅にて解散。小諸の駅でイワツバメが数羽、ホームの屋根の下を出入りしていたのを附記しておく。二日間共雨にたゝられた軽井沢行きであったが、以上のように多くの鳥にめぐり逢えてやっぱり来てよかったと語りつゝ別れた。末筆ながら星野社長の心からなる御厚意と御援助に深謝の意を表しつゝ。(田中大典記)
日時 8月26日夕刻より
場所 さが 大覚寺・落柿舎附近「さが野に虫を聞く会」
参加者 烏賀陽、伏原(父子)、松村(雅)、伊藤、佐藤、高田、南、橋本、藤岡、その他会員外参加者 約40名
虫えらびはまず嵐山駅前の並木にすだくアオマツムシからはじまる。この虫が京都に現われたのは昭和8年頃だったと思うが、今ではもう耳なれて、異国からの帰化動物という感もない。一行はただちに準備されたバスで大覚寺大沢池畔に出る。池をめぐる小みちに、エンマコオロギ、ツズレサセコオロギ、オカメコオロギなど、ほのかな月光に浮び出た平安末期の石仏群のかたわらにすだく虫の音は印象的であった。再びバスで二尊院に移動。参道の生垣にカネタタキ、クサヒバリ、本堂わきのハギのしげみの中にカンタンなど、折から十六夜の月が雲を払って秋色一入。住職から一つの厨子に阿彌陀、釈迦二尊並立の二尊経のいわれをきく。ここから去来の墓を経て、落柿舎への一キロ、左側のしげみにはクツワムシ、右手の草原にはマツムシの斉唱、嵯峨野のもっともにぎやかな虫聞きの小みちである。落柿舎のあたり稲田にはオオササキリの声しきり、月はもう小倉山の頂に近い。道は竹やぶの木下闇に入って、野の宮の黒木の鳥居のほとりにでる。ウマオイムシ、ツユムシなどに聞き入っていると、突然山陰線の列車があたりの静寂を破って、嵐山の終着駅も間近い。
嵯峨の虫 いにしえびとに なりてきく 野風呂
しかし虫の音の構成は古のままではない。近来この界隈にスズムシがいちじるしく減って、もうほとんど聞かれなくなってしまった。ただ、アオマツムシだけはおとろえることを知らない。(佐藤磐根記)
日時 10月29日(日)
場所 滋賀県坂田郡山東町「三島池」
マガモ自然繁殖池を訪ねて。
参加者 高田、大中、千葉、清水(克)、佐川、奥田、佐藤、久保(忠)、大西、伏原(父子)、入江、橋本
朝からの小雨模様で参加者が案じられたが例のごとく鳥好きの面々の顔が揃う。十一月例会
晴れた京洛を後に一路列車は東海道を近江長岡へ…。と云うと特急でも乗ったようだけれど左にあらず。各駅停車東京行。停っては急行様のお通りを待つこと四回。やっと三時間もかかって御安着。相肉と乗合バスは午后までなし。駅前タクシーは一台も見当らず、折も折、風は冷たく時雨さえ降ってくる。目的のためには一同元気に徒歩にて前進すること約三キロほど。
やがて伊吹を背にした周囲一キロ足らずの沼(この沼に三つ小島があるので三島池と称す)三島池に到着。健脚組の先着者はもう双眼鏡や、望遠レンズのカメラを手に池畔を左に右にマガモの姿を追っている。
初めは水面にマガモ♂♀が十四五羽泳いでいたが、いつともなく岸に近い葦の茂みの中に姿を消してしまう。カイツブリ夫婦らしいのが静かに鏡のような水面に波跡を残して泳いでいる。
野鳥愛護で全国的に有名な山東中学の口分田先生の説明では今年は渡来が少しおくれている。例年なればヒシクイガンなども十月末には50〜60羽が渡来して沼を賑やかにするとのことだが今日はまだ一羽も見られないのが淋しい。池畔に浄水道工事の飯場などができたのも一つの原因かも知れない。
今日、私たちに姿を見せてくれているマガモたちは思ったより私たちの姿などには恐れることもなく遊んでいる。村民の一致した保護が、しからしめたものか、また、この連中は今春にこの池での繁殖組だったかも知れない。葦の茂みを追い出せば、まだ数多くのマガモ、カルガモも出てくるらしいが、私たちにはそれはしたくても出来ない。
禁猟区指定だけあって地元中学生諸君のカモ保護には一生懸命である。ちょうど狩猟解禁日を前にして、生物クラブ員や指導の先生が密猟監視小屋の設営、標識の設置と大活動中だった。
口分田先生のご厚意で、すぐ前の山東中学の応接室を拝借して一同昼食。最盛期渡来時の雁鴨の集っているみごとな写真などを拝見して帰京した。末文ながら口分田先生に折角の日曜日を私たちのため特にご指導いたゞいたことを深く感謝いたします。(橋本英一記)
日時 23日(祭日)
場所 津市一身田専修寺庭園の「おしどり」観察
参加者 伏原、烏賀陽夫妻、田中、南、久保(忠)、奥田、佐藤、高田、大中、橋本
快晴の休日、定刻に一同揃って快速列車鳥羽行に乗車。案外に混んでいないので全員まとまって座席をとる。近江路を草津から南下して全山紅葉の美しい鈴鹿の山なみを車窓に眺めつゝ一身田駅につく。徒歩300mほどで大きな森に囲まれた一角が目的地である。左記の通り本会助成のため御寄附がありました。
専修寺は浄土真宗高田派の本山で親らん聖人草創の根本道場であり、京都の東西両本願寺に勝るとも劣らぬほどの立派な徳川初期の大伽らんである。
かねて伏原顧問の御知友の宗務総長誓山信暁師のご案内で広い庭園内の茶室安楽庵に向う折、庭内の池辺から二十羽ほどの「おしどり」がとび立つ。みなの眼が一斉に姿を追う。
静かな庭内の茶室安楽庵は豊臣秀吉が伏見城内に作った茶道宗匠道安と有楽との合作のもので庭の環境は苔寺(西芳寺)を小さくしたような老杉繁茂した仙境のような観がある。
茶室の雨戸を開けるとたんに窓辺の池端からまた十羽ほどが驚いてとび立つ。
誓山師のお話しでは今年は来るのがおくれていて、数も少く、渡来した初めは人なつかず恐れささないように庭園の掃除もしないようにこころがけているとのこと。「おしどり」の好物の樫の実が庭一面にこぼれている。
「あおさぎ」がとび立って行く。「むくどり」「ひよどり」が騒しく鳴いて庭内をとび廻っている。「ごいさぎ」一家らしい四羽が“グエッグエッ”と森の中で鳴いて姿を見せてくれた。昼食後、各人が獲物を求めて庭内を散さく。ぬき足さし足で池辺の「おしどり」を探すがなかなか見付からない。思わぬ所から五六羽とび立たれてびっくりする。
先にとび立った連中も疲れたのか三々五々に池に帰って来る。飛ぶ姿も美しい。
観察後、誓山師のご案内で本堂、御影堂(何れも重要文化財)を拝観し、種々詳しく御説明を聞いて専修寺にお別れをする。
帰路は木津川畔の秋色を求めて関西線廻り伊賀上野・大河原、笠置と美しい紅葉を車窓に木津奈良線乗替で京都まで。
最後に御多要中に種々御高配を頂いた誓山師に心から厚くお礼を申し上げて稿を終ります。(橋本英一記)
毎年のことながら、年末が近づくと会誌の発行で、例年押し迫って発行になるので、今年は少しでも早くと頑張ってみました。
川村先生からは続稿を頂き、本誌自慢の生態写真の添付は例により高田俊雄氏の傑作を寄せてもらい、前号にも劣らぬ内容充実の第九号をお届けいたします。
ゴルフブームからガンブームへと今年の狩猟免許申請者は京都府下で軽く三千名を越えたとのことです。このままの状態でガンブームが続いたら……鳥の数よりハンターの数の方が多くなるのではないかと案じられるほどです。
狩猟鳥は四十七種と法定されています。果たしてこれが守られているでしょうか?
空気銃猟の違反の鳥の鳥名かん定を警察から依頼されて拝見すると、ムクドリ、モズ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、ビンズイ等々です。現況やおして知るべしです。
洛北ではカスミ網の密猟が絶えません。
今後の私たちの前途も多事多難です。専門的でなくとも、世の野鳥を愛する気持は変らない私達の集りです。みんなの力で野鳥の棲みよい世界を作りたいものです。
本誌のために多くの玉稿が頂けましたことを御寄稿各位に厚くお礼申し上げます。
まづい編集ですが御寛容下さい。(橋本記)