京都野鳥の会/資料室10

『三光鳥』  第10号(発行日:昭和37年12月28日)

   口絵写真


口絵「巨椋池の夏鳥」について   

  明治大正の頃まで京都市の南にあった巨椋池が干拓せられて豊饒な美田となったことは世人周知であるが、、宇治市槙島町に在る巨椋池土地改良事務局が過去千有余年に及ぶ巨椋池関係の史実と、最後の干拓工事の経過記録を永久に伝えるために、今より二十余年前に計画せられた「巨椋池土拓誌」(非売品)が昨年十一月に到って印刷刊行せされたのである。この本の中で自然科学方面の植物は三木茂博士、貝類は黒田徳米博士、魚類は宮地伝三郎博士の分担執筆であり、鳥類は本会名誉会長である川村多実二先生の受持で総数二十科六十二種の鳥類について十一頁にわたり解説せられている。而して植物、魚貝皆精巧なる附図が添えられてあるが、鳥類の場合は日本産鳥類の形態が既に各種の原色版図譜に載せられているので、そういう分類学的挿図を添える代りに、先生が自身水彩絵筆を執って巨椋池夏鳥の生態を描かれ、本文と対照せしめられたのである。
 右干拓誌の準備中に之を川村先生から聴いた私は、会誌「三光鳥」の口絵にこの挿画を入れることに定め、干拓誌の印刷所に依頼して第10号用の分だけ増刷したのである。
 鳥名は添附した薄紙によって判明するが、本文の解説を読まないと多少誤解される虞のあるものも無いではない。例えば「ショウドウツバメ」は北海道以北の営巣地に往復する春秋二季に数日間逗留する鳥で厳実な意味の夏鳥ではないが他の二種の燕との形態比較のために特に描き加えられた由である。
 更にこの絵の中の鳥が環境の植物等により少し大きい割に描かれてある点に気づかれる方も多いと思うが、これについては川村先生は本文に附記して、「自分で撮った写真で案外に山が低かったり、人物が小さかったりするのは誰しも経験するところだが、機械は正直で、我々の感じの方が注意力により偏重誇張するのである。欧米の優れた動物画家や狩猟画家がわざと背景の割合に動物を大型に描くのはこの観者の主感を捉えるためであり、筆者も之に倣ったのであるが、東洋の花鳥画では果してどうであろうか?」、と述べて居られることを申し添える。
 尚この絵はもっと小形に縮写して刷り上げる筈の絵を印刷所の間違えで原図に近い大きさに製版したので画面が粗大となったとききました。(橋本記)

京都巨椋池干拓地にて撮影したケリ   
 上部 巨椋池干拓地の「ケリ」







 下部 同池にての蕃殖状況

        高田俊雄撮影

   此の鳥については日本野鳥の会編輯。『野鳥』第十九巻第四号に昭和二十二年十二月会員伏原春男氏が此の地に棲息している事を初めて確認し発表され続いて『野鳥』第二十一巻六号に伏原、安達両氏の其の後の報告。
 同『野鳥』第二十二巻第三号及び日本鳥学会発行『鳥』第十四巻第六十八号に神戸の坂根干氏がケリの生態に付き詳細報告されて居りますので省略致します。
 写真上部はケリの蕃殖地で産卵期は陽春三月上旬より六月上旬と想われ、この期間になると特に親鳥は外敵を警戒し近づくとキリッキリッと啼きながら舞い上がり、其の周辺の仲間まで加わりこの鳥の数と啼声の喧しさに驚かされる。
 巣は湿田の土塊の窪みに少数の枯草を敷いて造り、ほとんど丸見えに近い。
 卵数は四個で色は緑灰褐色で黒褐色の斑紋があり十字型に並べられている。
 抱卵中の親鳥は胸毛が全部かくれ周囲と調和して仲々目立たない。
 幼雛は孵化後約十日位と推定しまだ飛ぶ事は出来ず、長い足でよく走る。雛の後頭部の白い綿毛は飛翔中の親鳥の目標になるものかと想像される。(高田記)

英詩の鳥(続)   川村多実二

  前号に続けて英米の詩人が野鳥生活を描写した技法と寓話構想の概要を回顧することにするが、今回はまずムクドリから始める。
 欧州には大小各種のムクドリ(Starlings)が居るが、英国に最も多いのは雌雄体色を異にし、雌の胸腹に多数の小白斑がある一種ホシムクドリである。この鳥は蕃殖力も旺盛であるが、実に気の強い鳥で、1621年の10月にアイルランドの Cork 市上空で過剰個体数を清算するために大群が東西に分れて三日間激戦し多数の死鳥を出した実例がある。また1890年に英国から北米合衆国紐育中央公園に移入させたのが急速に増数して他の鳥類を圧迫しつつあることも周知であるのに、文学では逆に気の弱い鳥となって居り、英国小説家 Laurence Sterne(1713-1768)の有名な A sentimental journey through France and Italy の中に、飼主が外から帰って来ると籠の中から椋鳥が出して呉れと嘆願する一節があるし、Charles Kingsley(1819-1875)の The Starlings という二節八行の短詩では、早春にムクドリの唱える文句に「悲しい悲しい、之からが大変だ、巣を作らねばならない」とあり、晩秋には「春は仲間と一緒で賑やかであったが、之で今年もおしまいだ、悲しい悲しい」と嘆くのである。文学者の空想が鳥の実際の習性から大きくかけ離れる場合の著るしい一例である。
 文学者の悪口ばかり書き立てるようで気が引けるが、わが邦でも萬葉集以下の諸歌集に詠ぜられた鳥の種類が杜鵑とか鶯とか、或は雁鴨とかの少数に限られ、もっと人類の周囲に饒産した筈の例えば雀、鴉、頬白の如き種類が一向詠まれて居ない。この事は我邦よりもアジア大陸の方が一層顕著で、唐宋時代の詩文が輸入せられて邦人がそれに倣うにつれて、鳥の種類が更に減少して来たのであるが、欧米の詩人も亦全く同じ態度で先に挙げた郭公、駒鳥、ナイチンゲール等を盛んに題材としたのに較べてもっと人家近くにいくらも見られる小鳥を詠んだ詩が甚だ少なく、それを探し出して写しとるに骨が折れるのである。
 わがカワラヒワに近くて背が濃い黄褐色である Gold finch では Geoffrey Chancer(1340-1400)の The Floure and the Leafe という詩で、この鳥が枝から枝に移り花芽や苔を啄むことを叙し、John Keats(1795-1821)は六行の短詩 Early Poems で樹上から地面に降り、はね廻り、翼を動かす有様を面白く写して居る。
 右と同科でわがベニヒワに似て居る小鳥 Linnet について、John Montgomery(1771-1854)の遺した On finding the feathers of linnet という五節二十行の詩が感傷的で面白い。それは此鳥の羽毛の落ち散れるを見つけて鳶(Kite)のために喰い殺された悲しい運命を弔うことになって居るのである。また女流詩人 Eliza Cook(1818-1889)が書いた一文に「Linnets はわれ等に如何に愛する可きかを教え、Ring-doves(キジバトに近い鳩)は如何に祈る可きかを教える」とあって、当時この Linnet を平和の象徴として居たらしいのである。
 次に四十雀に近くて頭部の青いアヲガラ Blue Cap(Blue titmouse)を William Wordsworth(1770-1850)が詠んだ“The Kitten and the Falling leaves”という詩では、「あの派手な色をした blue cap はどこに往ったか、林檎の樹で餌をあさり、ふざけて花を裏返しにし、体を倒さまにしたり跳びはねたり、実に身も心も軽い奴だったが、今はどこでどうして居るかなあ」というので、之は四十雀科の小鳥の慌ただしい生態をうまく写した詩である。
 再びアトリ科の鳥に戻るが、わがホホジロと同属で頭が黄色、背が赤褐色な Yellow hammer は英国に極普通な小鳥だが、John Clare(1793-1864)の The Yellow hammer なる十四行の短詩では、この鳥が枯草や馬の毛、または Bent(ヌカボ類の草)を集めて蟻塚の近く Cowslip(サクラソウ類の草)の花の香が牧場をこえてかおり来る所に草をかきわけ、場所を定め、黄色の胸と金色の頭を見せつゝ巣を作り始めることを叙している。序に一言するが、小鳥の巣の内部に菌類が作る稍太い線状の物質を使用するのを素人はよく馬の尾と誤認するが、この Yellow hammer の場合は本当の馬の毛であっただろう。
 次にわがジョウビタキに近い Firetail(=Redstart)がもとの樹洞に戻ってする営巣を John Clare(1793-1864)が写した十四行の短詩“The firetails nest”がある。
 ミソサザイ科の鳥は我邦では唯一種であるが、欧米諸国には大小各種が饒産し、人目にも触れ易い筈だが、それを題材とした詩は余り無いようだ。英国の Richard Mant(1776-1848)が詠んだ Wren という十四行の短詩に「冬の陰鬱な時節に拘はらず急調子で楽しげに唱い、霜に凍えても陽気さを失わぬ」ことを推賞している。この詩で種類は russet wren と書き出しているから、最普通な hause wren だと思われる。
 わがヨタカ(怪鴟)と同科の Eve-jar(=Night jar)の薄暮に唱う同音反覆系の声を英国の George Meredith(1828-1909)が Love in the Valley なる長詩で His rattlenote unvaied と記して居る。
 カワセミ(翡翠)科に Halcyon という属名があり、わが邦のアカショウビンやカノコショウビン(ヤマセミ)がそれに属するが、この Halcyon 又は Alcyone というのは希臘神話に出てくる風の神 Aeolus を母、 Ernate を父とした女の名であるが、夫の Ceyx が難船して死んだのを悲しみ、同じ海に投身したので、神が夫妻を鳥に化身した上、暴風雨を鎮める能力を持たせた。この鳥の巣が海上に浮かんで居るので、その蕃殖時期である冬至前後の一週間海面が神の力で波立たず平穏だということになって居る。外国のカワセミには Ceyx という属名に入る種もあるらしい。
 さてカワセミの詩では W.H.Davies(1870-?)の The Kingfisher と題した三節十八行の詩に「この鳥は虹から生まれ虹の色を貰った鳥だ」という書き出しで「美しい静かな小鳥よ、私も汝と同様に静かな所が大好きだ」と呼びかけるのがある。また J.L.Cuthbertson(生年不明)の The Australian sunrise なる詩で、此鳥が横穴の中の巣(Crannied nest)から勢よく跳び出す(darting out)ことを記して居る。
 以上で陸鳥の詩の例示を終り、次に渉水性の鳥類に移ると、文学上で寂しい環境の鳥となっているらしいサギ類がある。先づ Oliver Goldsmith(1728-1774)の有名な詩文 The Deserted Village の中で水の枯れた小川の磧の雑草の茂みにヨシゴイ(Bittern)の巣があると記し、Lord Edward Thurlow(1781-1829)はアヲサギ(Heron)に向って「オー悲運の鳥よ、神はお前の餌として魚類を指定し、愚者への教訓として何も考えずに機会を待つことにせしめた。学校も教師の椅子も不要、唯小流や河川によってこの精神を教示するのが何事にも賢明な自然のやり方だ」と四節十四行の詩 The Heron で述べて居る。
 スコットランドの文学者 Samuel Smiles(1812-1904)の名著 Self help は明治時代わが中学校の英語教科書に使用せられ、その訳本「自助論」も青年の読物として頻に推奨せられたが、この人が同郷の博物学者 Thomas Edward の伝記を書いたものにシギ類に関係した面白い事項があるので、詩ではないが、こゝに引用すると、この Edward が失業に苦しみ飢餓に迫られた末、海岸に出て投身せんとし、着衣をかなぐり捨てて走り出した時、偶ま一群のミユビシギ(Sanderling)を見かけ、その内に一羽交じって居る大形のものをよく見ようとして追かけ、Don 川の河口に達して往き詰まったが、その時に自然界に対する強い愛情を起し、自殺を思い止まり、後に博物学者として成功したことを記録して居る。
 次に所属は鶴目であるが、生態が鷺や鷸に似て居るので、バン(Waterfowl)の詩をこゝに挟むと、W.Cullen Bryant(1794-1878)の To a Waterfowl なる八節三十二行の詩でも、また Robert Burns(1759-1796)の On scaring somewaterfowl in Loch Turit なる六節三十八行の詩でも、この鳥が湖河又は海上の空を活発に飛び廻ることになって居り、日本のバン(鷭)と習性が少し異なって居る。バンの英名は Waterhen であるが、Waterfowl はそれより広い水禽を意味する語であるらしい。
 次に雁鴨類に移りハクチョウ(Swan)の詩をあげると、この鳥は希臘神話以来 Leda と交わったとか、絶命する前に自ら挽歌を唱うとかいう風な奇怪な伝説の持主で、古代の美術や音楽にも多くそれが引用せられて居るが、之に反し中世以後の詩文ではむしろ自然界の野鳥としての生態を写したものの、例えば W.Wardsworth(1770-1850)が Locarnos 湖上の月光を浴びて游ぎ出る実景を詠んだようなのが多い。白鳥は英国人が特に愛好する水禽である。
 種類は不明(大抵はマガモならん)だが、野生のかも(Duck)の詩で、James Grahame(1765-1811)の二十一行の詩に波静かなる湖上に雛をつれて游げる内に人、児童、犬が近づき、特に Spanier 種の猟犬が跳び込んで泳ぎ来るのを見て、両親が雛の水草の茂みに隠れる間だけこの敵を牽制するためわざと身を露出して居ると、不意に空中から leaden storm(肉食鳥のことならん)が急降下し、無残にも湖面を赤く染めるというのがある。
 わが邦のアビやオオハムの類である Loon の記事を拾うと、米国博物学者 John Burroughs(1837-1921)の1877年作 Birds and Poets なる文章中に鷲は尊厳、鷹は凶暴、鴉は狡猾、鳴禽は美しい形を現わすのに対し、この鳥は「野性と孤独を示すもので、獣のビーバーの従兄弟であるから、鳥の翼とビーバーの毛皮、而して両者の心を備えて迅速、狡猾、大胆、敵に対しては決して潜りも飛びもせず、堂々と鋭い眼で相手の顔をにらみ、死に到るまで闘う」と信ぜられる。或猟夫は「此鳥の死する際に人間に似た悲鳴を出すという点で旧式な詩人の気に入る鳥だ」と解説している。作者が単なる自然科学者でなくて文筆を弄する型の人だったのでこんな連想を綴ったものらしい。
 カモメ科にも多くの種類があるが、詩文では Sea Gull という総称が用いられて居る。有名な詩「湖上の美人」の作者 Sir Walter Scott(1771-1832)の Song of the Zetland Fishermen なる三節十二行の詩では前半が「さよなら浜の娘達よ、もはや吾々は唱ったり笑ったりしては居られぬ。沖に出て働き、イルカやアザラシと共に躍らねばならぬ」後半が「勇敢なる鳥よ、お前達は軟風に乗って唱ひ続けてくれ。吾々は海岸や砂洲、または魚群の回游路に沿うてお前の歌に追従するから」となっている。Algernon Swinburne(1837-1909)の To a Seamew なる二節十六行の詩では鴎の生活を非常に愉快なものとし、人類以上の愛や誇り、雲雀以上の歓喜ナイチンゲール以上の満悦を持つ鳥となって居る。
 真の外洋鳥であるアホウドリ(Albatross)について Samuel Taylor Coleridge(1772-1834)の詩で The Ancient Mariner で遠洋を航する大船の周囲でこの鳥の飛ぶ状況を叙し、仏国詩人 Charles Baudelaire(1821-1867)の L'albatross なる四節十六行の詩では船員が大空を飛び廻るこの鳥を捕えて甲板上につなぎ置き、嘴に煙管をくわえさせたり、跛行の真似してふざけたりするが、元来虹と遊び風を起こす雲上の貴公子である筈の詩人が地上の人間の活躍する場所に連れ来られ翼をかせ木にくくりつけられる点でアホウドリと同じたとして居る。
 グンカンドリ(Frigate bird=Man of War Bird)という外洋性の鳥については、早くも英国の航海者 William Dampier(1652-1715)が A New Voyage round the world なる書中に形態や習性を詳報して居るが、詩としては米国の Walt Whitman(1819-1892)が To the Man-of-War Bird という二十一行の詩でこの鳥の自由な生活を述べ、「幾日も幾週も嵐の中を労れずに飛び廻り、夕はセネガル、朝はアメリカと稲妻や雷雲の間を翔け得るのは何とも愉快な事だな」と話しかけている。
 最後に英国の山地に多いライチョウの一種(Heath cock)の詩の例としてスコットランド詩人 Joanna Baillie(1762-1851)の十二行の短詩を挙げると、先ずこの鳥の鼠色の嘴、光沢のある褐色の羽、赤い眉、瑠璃色の眼、純朴なはづかしがりを叙し「スノードン地方の朝霧を透して赤い日光がさしこみ、揺蚊の類が飛び出す頃お前は既に翼を動かして上空に昇って居るな」というのである。
 以上を以て本誌前々号から連載のこの稿を了ったことにするが、之は今から十八年程の昔に宝塚鳥の会で一回講演した時の要稿を見つけ出して走筆したもので、既に記憶が薄れて怪しくなって居る所も多く、甚だ拙いものだが、幾らかでも皆さんの御参考となれば幸甚である。なお、次号には漢詩の鳥を論考し度いと思いますから、資料を御恵送下さるよう会員の皆さんにお願いして置きます。
         ○
 ◎附 前号本稿正誤
   頁 段   行    誤    正
   2 下  6,10  (字ぬけ)  梟
   3 上   12  鳥であを  鳥である
   5 上   14   斗志    闘志
   5 下 7,13,16,18 Reven Raven

その鳥の名は? −−虚子の「叡山詣」より−−   佐藤磐根

  高浜虚子は比叡山を愛した俳人であった。彼は叡山に関して数多くの俳句のみならず、文芸作品や紀行文をも残している。彼の紀行文の第一は『四夜の月』で、これは明治三八年九月十五日のこと、俳友と同行五名で仰木峠を越えて横川へ出た時にはもう日暮だったので、横川の大師堂の和尚から提灯とろうそくを借りて、月明の尾根と木下闇の50町の夜道を東塔まで歩いた。当時叡山ではサルのみならずシカがふつうにみられたらしい。
 『恵心廟の前を歩くや月の鹿』
の句がある。これは想像句ではない。このあとその夜、宿を借りた学寮の写生句の中に、
 『学寮や、あずちの傍に鹿の糞』
の生々しい句もある。鳥の句としては東塔へ入った夜道で、
 『提灯に驚いて飛ぶ小鳥かな』
がある。その宵の学僧との夜話しに横川からの尾根道は冬になるとオオカミがでるそうな、とある。ニホンオオカミの最后の記録、大和の吉野郡鷲家口でとれた雄が米人アンダーソンに買いとられたのがこの年(1905)であることを思い合わせると面白い。その頃はまだ叡山にさえもオオカミ話があったのである。
 虚子の叡山の第二の紀行文はそれより二年後、つまり明治40年の『叡山詣』である。この時は叡山での第一夜を宿院で明かし、翌朝『鳥の声』の一章を書いている。事、叡山の鳥に関するものであり、明治は遠くなりにけりで、御存じない方も多いと思われるので、あまり長くないこの一章だけをここに引用させていただく。(一部をかな書きに改める)

  鳥の声
 寝床を出て、歯磨楊枝をつかいながら、湖水の見える部屋にいってみる。朝日が部屋一面にはいっている。湖水と思われる辺は雲ばかりで、何も見えぬ。富士の頂上から雲海を見下ろしたのと似た景色だ。部屋の下は東谷になっているので、我が眼より、稍低く、無数の杉の梢が、鉾のやうに突っ立っている。左手には、北谷の向に当る峯が鋸の歯のやうな杉を背にならべて、湖の方に流れている。空気が清い上にも清いので、近景の杉の梢も、遠景の杉の峯も新鮮な色をしている。さうして、その間を、薄い霧が流れている。非常に静かだ。自分の呼吸の外、浮世の物音は何も聞こえぬ。ただ此の天地をわが物顔に鳴きさえずっているのは、小鳥の声だ。何という可愛い声であろう。名がわからぬのが残念だ。そこの杉の梢で、一羽ないてゐる。彼方の杉の梢で、他の一羽が答えている。また遙か向うの谷深く、他の一羽が応じてゐる。よく耳を澄すとなほ二三羽の声がどこかで聞こえるやうだ。またその小鳥の合奏を破るやうに、他の声の小鳥が、突然その間に高音を張る。前の小鳥ほど優しい声ではないが、また凛々しい所があって、その音の空山に響く趣が何ともいえぬ。かつこの上に金鈴を落としたらこんな音が出もしようか。これも名のわからぬのが残念だ。それも一羽ではない。三羽・四羽と聞くうちに、だんだんふえてくる。前の小鳥が縦糸なら、この小鳥は横糸のやうに、互に錯綜して、能くハーモニーを保つところが面白い。突然けんけんとけたたましい音が谷を横ぎる。此方の谷にも響けば、彼方の峯にも響く。昨日聞いた雉の声よりも稍急調だ。或は山鳥ででもあろうか。前の二つの小鳥で織りなした美しい絹を、ただ一声で引裂いたかと疑はれる。しかし、しばらくして、その声は谷の底、峯の奥に浸みこんでしまって、そのあとは元のとほり静かになる。真先にその静けさを破るものは鶯の声だ。比叡の御山に法華経となくのは高野の山に鳴くより張り合いがあろうか、身延の山とはどちらの音色が美しかろうか、ともあれ絹に置かれる絣のように美しい。一つの絣が置かれると、また縦糸を織って前の小鳥が鳴く。又横糸を織って次の小鳥が鳴く。絣が鳴く、縦糸が鳴く、横糸が鳴く。この絹を、また山鳥の声が破るのかと思いながら待ちもうけていると不思議な声が別に起る。それは麓の里の池で聞く蛙の声によく似ていて、谷の神社のわに口が口をあけてつぶやくのかとも疑われる。他の鳥の声がみな高調で晴れ晴れとした中に、ひとり低調で不平らしい音を出すのが面白い。衣川は啄木鳥だろうといった。霧声、渚村の二和尚は山鳩だろうといった。琵琶湖の上にはまだ漠々たる白空が漂うている。杉の梢を流れる霞は少しずつ薄らいできて、だんだんと谷深く見えてくる。

 この一文はかつての京都の青年学校の教科書、くわしくいえば青年学校教本、本科男子四年制用第一巻(昭和十五年発行)に『静寂』と題して教材に使われてきたものである。私がこの一篇を知ったのも実はこの書を通じてであった。上の引用の通り鳥の声の描写は実に精細をきわめている。彼の先輩正岡子規と共に、流石『写生文』の提唱者にふさわしい一文であると思う。しかし鳥の名に関してはすこぶるあやしい。山谷春潮の『野鳥歳時記』もない明治末年としては止むを得ぬことであろう。科学の立場からでさえも叡山の鳥のろくに記録されていなかった時代のことだからこれが当然であろう。この一文で私の興味を引いたのは最後の所にある虚子をしてくびをかしげさせた『不思議な声』の主である。トラツグミ、ヨタカ、アオバトなど低くて陰気な声を立てる鳥の名を思いうかべたが、その何れも『蛙の声に似て』『鰐口が口をあけて呟くのかと疑われる』『低調で不平らしい音』とゆう彼の微に入り細をうがった形容にはふさわしくないような気がして、自分自身この解答にはほとんど満足できなかった。
 その後、初夏の比叡山を訪れる機会がしばしばあり、日の出前、ヨタカの声しきりとゆう頃、不平らしくつぶやくような声をきいて、虚子をして不審がらせたのは、まさしくこれなるかなとおもいあたるものがあった。その声の主はタゴガエルである。虚子自身も、『蛙の声によく似て』といっているが、蛙そのものだったとゆうのが私の思いついた解答であった。このカエルは中部・近畿地方以南の山間の渓流、とゆうよりは山地の路傍の落ち葉のしたたり水とゆうような所にすむ。五月中旬から六月中が産卵時期、その頃、雄はしわがれ声でグワ、グワ、グワ、グー、グーとなく。丁度初夏の鳥の営巣の頃、探鳥会の折にしばしば人の注意を引いて話題になってきたものである。タゴガエルの命名者岡田彌一郎氏の採集地は近畿では高野山、室生寺、和歌山県有田川の三ヶ所と記録されているが、比叡山から比良山にかけてはそれにおとらぬ産地である。今年青龍寺でお世話になった折、喜利山師から「湯殿にカジカがいるので、あつい湯をかけぬよう」との御注意があったが、翌朝湯殿へ水をひくかけひのとり口近くにひかえていたのはまさしくこのカエルであった。岡田彌一郎がヤマアカガエルによく似たこのカエルを別の種として田子勝彌博士に名をささげたのは昭和三年のことであったが、それ以前にもこのカエルがいたのは勿論のことである。
 しかし、その後、高浜虚子全集第六巻紀行文の巻をひもどいた時、私のタゴガエルだろうとゆう、もっともらしい解答は完全にくずれ去ってしまった。とゆうのは虚子が『叡山詣』の旅をしたのは明治40年3月のこと、『鳥の声』をきいたのは3月10日の朝であったのである。紀行文には当時叡山に残雪があったこと、うす氷の張ったことなどが記されている。夏鳥はまだいなかった筈。タゴガエルは冬眠中だったであろう。私はあらゆる面で黒星ながら、動かし得ない完全なアリバイにゆき

11〜18頁まで欠落(調査して補充するつもりです。)



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 とがある。それを見て当局の人達がこんなに色々苦心して居られるのに、一向に無関心な態度を取っていたのは、何か悪いことでもしたような気がしてならなかった。
 それにしても花折峠のキツツキは関西電力会社に何の恨みがあって、このように執念深く電柱をつついたのだろうか。
 土永先生の話ではこのキツツキはアカゲラとアオゲラだったそうである。

 イワツバメ
 比良に登っていると色々な人から色々な話を聞く。蓬来の山頂でツバメが群飛しているのを見ていたら、あれはイワツバメだと教えて下さった方がある。大方七・八年も昔のことなので、それを注意して下さった人が誰であったか、どうしても思い出せない。
 私はイワツバメの雛を、草津温泉で拾ったことがあるので、飛んでいるツバメを手にとることさえ出来たら、ツバメかイワツバメかを区別も分る筈だが、何しろ相手は私の心の中も知らずに、非常な速力で飛び交わしている。若し仮りにイワツバメとすればその巣が何処かになければならない。草津温泉や熊の湯温泉などでは旅館の軒にイワツバメが営巣しているのを見掛けたが、ひょっとすると山麓の葛川の民家にもイワツバメが巣を作っているようなことはないだろうか。ところが葛川には滅多に行く機会もないし、困ったことだと思っていたところ、土永先生が葛川の小学校に転任されたので、お目にかゝった最初の機会にお尋ねしたところ、イワツバメが葛川の民家に営巣している事実は全然なく、つい二・三年前に蓬来山イワツバメの巣を見た人があると話して下さった。イワツバメは土永先生の前記の比良鳥類目録に記載されているばかりでなく、山のことにくわしい比良ロッジの支配人の方もイワツバメが比良にいると確言されている。

 カワガラス
 正面谷やイン谷のような小川に沿うた山道を登って行くと、全身が黒褐色の鳥が、川沿いにピィッピィッと鋭く鳴き立てて、或いは上手に、或いは下手に飛んでいくのを見掛ける。これがカワガラスで、比良特有の鳥というわけでもないが、比良の稜線にはまだ白雪が残り、谷間の木々に漸く芽がふくらむ、浅い春の頃から活動を始め、従って人の目にもよく映る鳥なのである。
 此の鳥は渓流をすみかとしている位だから、水に濡れる位は平気で、巣は二・三月頃急流附近の岩や崖の間に苔を主材とし、小枝や枯草などを交ぜて作るが、又好んで滝の裏側を営巣地として選ぶ。
 私はまだ巣を実地に見ていないが、H嬢の話では神爾滝でカワガラスの巣を見つけたところ、同行の男性が彼女の制止もきかばこそ、面白半分に石を投げてたゝき落し、大いに彼女を悲しませたそうだ。そしてその話を聞いた私も大いに悲しんだことは勿論である。

 サシバ
 江若線「蓬来駅」前を通る西近江路をへだてて西側に八所神社がある。今では少々間引かれたので、以前の壮観は失われたが、ヒノキやスギの大木などからなる社叢は今でも仲々にすて難い趣きを持っている。此の神社はまた小女郎谷から蓬来山を目指す登山者がどうしても通らぬ道でもあるから、登山の経験者には忘れられぬ思い出の社でもあろう。ある年、山の帰路、この社に近づいた時、トビのような鳥が木の梢におり立つのを見た。神社の北側の商店の人に聞いて見ると、毎年夏になるとやって来るタカだとのこと。図鑑をくって説明を読むと、飛びながらピイークウーと鳴く特徴及びその生態などから私はサシバと判断した。そういえば石山寺や比叡山の山麓などでも見掛けたタカは、矢張りサシバだったかも知れない。
 ガレの多い東側で、最も大きいガレは中谷のそれだ。打見山、蓬来山とつづく南比良の大きな山塊を、その北に続く山塊から無理に押し曲げて、そこに出来た大きな傷あととも思えそうな、大きな裂目が稜線から一直線に縦に下に走っている。昔から獣を追う猟師達も獲物がこの谷へ逃げこんだら、もう猟をあきらめて戻るより仕方がなかったといわれている。厳冬の頃になれば、滝は氷柱となって輝き、早春には谷の両側からなだれ落ちる雪が谷を埋めて深い雪渓を作るといったところ。
 ある夏クロトノハゲで休憩中この中谷の上を悠揚と飛翔する鳥があった。この鳥こそタカの一種サシバの姿ではなかったかと思う。峨々たる岩と清涼のほとばしるあら沢の上を舞ふ鳥が、単なるトビではなかったことを、私は心から希望するのだが。

 オオルリ
 オオルリは比良にはとても多い夏鳥だ。野鳥で名高い比叡山より、その数においては多いと思われる位である。日本三名鳥の一つといわれるその美声をきいたら、その声のする方角の木の梢を見上げて見るとよい。日光の加減で上半身の美しい瑠璃色は惜しくも真黒に見えることが多いが、運がよければ輝くばかりの美しい色彩に驚喜することも出来よう。こんなに雄が多いのに、雌の方は一向におしゃべりをしないので、その姿に接するのは困難である。私は神爾滝の雌滝の附近で全身薄茶色のみかけない鳥の姿に接し、図鑑の助けによってやっとオオルリの雌だということが分かった。
 大津市内の仲町通りの下駄屋さんの野鳥を飼うのが趣味の人があって、のき先にコマドリとオオルリの鳥籠がつるしてあり、私はその鳥の声を覚えるのに、何回かそこへ通ったものである。
 オオルリの歌はおしまいがきまって、リューリューで終る。ある膳所高校の山小屋で何気なくオオルリの声に耳を傾けていると、Kiss me again チューチューと聞える。但し again は agin 位の程度であった。こんな話を同僚のT先生にふと洩らしたところ、それからというものは、何かというと彌次られる種になってしまった。

 キジバト
 茨城県のある学校に奉職中二男が赤痢にかかって、町のはずれにある避病院(当時はこういう名のもとに人々の恐怖の的になっていた。)に付添って、何するともなく、何日かを暮らしたことがあった。此処では明けても暮れてもキジバトの間の抜けたような声をきき、到頭そのデデポーポーを完全に覚えてしまった。
 その後今津中学につとめたが、生徒の父兄から鉄砲で打ったキジバトをいただいて、その肉を賞味する機会が出来たが、その肉は食べて見て、仲々美味しかったことを覚えている。
 比良ではよく山麓でその声をきいたものだが、その声は私の勤務校のゼゼコウコウのように聞えて仕方がない。但しこのような間のびしたゼゼコウコウでは、勢がよくてはならない筈の応援としては、不出来のそしりは免れないであろう。

 ウグイス
 比良はアプローチが短いだけに、勝負が早く、稜線に立って眼下に琵琶湖を望むのにも、さして手間がかからない。それだけに稜線近くなると格段の努力が要求されるのは勿論だ。山岳班のS子はとり立てて美人と言う程でもないが、笑うと両方の頬にえくぼが出来、又いつもよく笑うので、何となく魅力的な子だった。頂上に近くなってバテかけたので、
 「ウグイスが、モーバテタと鳴いているよ」
といって野次ったら、彼女は絶対にそんなことはないと言い張る。
 しかもその後からウグイスは、追いかけるように、バテタバテタと繰り返している。
 こんなことを言って、女の子を彌次るのは比良のウグイスだけだろうか。

 ホホジロ
 冬大津近辺の浅い山を散歩しているとチイッ、チイッと短く鳴いて、渡り歩いてるホホジロによく出会う。どれもこれもホホジロばかりで、よくもまあこんなにと思う程、ホホジロが沢山いる。
 春になると木のてっぺんにとまって、
 「一筆啓上仕り候」とか「源平ツツジ、赤ツツジ」とか鳴いて、彼等の縄張りを声も高らかに宣言するのは御承知の通りだ。
 終戦後山岳部を作り、山といえば比良山という位、比良にばかり登っていたが、終戦後間もない頃だから、妻は弁当のお菜には物の足りない時のこととて、仲々苦労したらしい。悪くならず、安くて、美味いもの。そんなものは、何時でもそうざらにある筈がない。結局は美味いかどうかは別として、前の二つの条件を充すもの、即ち塩鮭位に落ちつく。折角の苦心の弁当をリュックにつめて、心も軽く新緑も輝くばかりの扇状地の山道を辿って行けば、何事ぞ。
 ショウビキ チョッピリ シオカラク
とホホジロがえらそうに木の上から叫ぶ。塩引がちょっぴり塩辛いからどうなんだ。こんな時こそ愛妻に肩を持って、力んでも相手が小鳥なんだから、返答のしてくれようもない。

 センダイムシクイ
 センダイムシクイなんて、一般の人(私もこめて)に聞きなれない名であるし、鳥の色彩もひどく地味ではあるが、その歌は昔から、「焼酎一杯グイー」と翻訳され、左党が知ったら、我が党の味方とばかり、嘸かし彼等の間に人気が出そうな鳥である。
 膳所高校でPTAが開設以来PTAの役員から免れたことのない私には、職業柄のせいか、PTAと聞えて仕方がない。この十何年僅か一年を除いて、PでありTであったので、そう聞こえるのも当然かも知れないが、私の所謂PTA鳥は、本当にセンダイムシクイだろうか。書いてから心配になる。

 ホトトギス
 ホトトギスの歌は色々に翻訳されているが、一般に昔から有名な、「テッペンカケタカ」、は私には何としてもいただけない。近代になって作り出された、「東京特許許可局」が最も私には納得の行く、翻訳であるが、前者の一つの変形と考えられる、「イッポンツケタカ」は一律にカットするには惜しい名訳である。
 終戦後酒の乏しい時代であったが、比叡山を歩いて、途中で同行者になった、墨染めの衣をまとい、頭を青く剃った坊さんの口から聞いたので、私には一層強く印象に残っているのかも知れないが。

 カケス
 独り歩きしていると、比良なんかには恐ろしい動物なんかは分かっていても、一寸した物音にも、本能的にギクリとするものだ。ヤマドリが足許から飛び立って、思わず肝を冷やした経験のある方は少なからずあると思うが、カケスの声も人をおどかすに十分である。というのもカケスの声はエテコウ(サル)の声によく似ているからである。エテコウは女一人と見ると、侮っていたずらしかけて来るから、比良では絶対に女は一人で入ってはならぬ、と固く戒められている。こちらは女性では勿論ないから、もう少し胆をすえてもよいわけだが、身に寸鉄を帯びていない場合、山の暴力団みたいな奴に唯一人で会うのは気持が悪い。
 但しこの鳥は飛び立つ時には、黒、白、青の見事な配色を見せてくれるのが、その取柄である。
 この鳥は他の鳥の鳴声を真似るのが上手で、一度などは比叡山横川の中堂でカラスの声が聞こえたので、こんな高い所でもカラスがいることがあるか知らと、声の出所をぢっと眺めていたら、カケスが飛び立ち、カケスにだまされたのに始めて気がついた。

 トラツグミ
 当時東レ滋賀工場のペニシリン部長をして居られた近藤康二さんのお嬢さんが、或る日トラツグミの屍体を学校に持参された。何でも氏の近所の家の軒先に落ちていたのを拾われ、それを学校の標本にとお嬢さんが届けられたのだが、死後相当の時日が経っていると見え、剥離がうまく行かず、標本にならず、廃棄するよりほか、仕方がなかったのは、返す返す残念だった。
 比良の最高峯の武奈ヶ岳を望むその名も望武小屋に泊まった夜だった。キャンプファイヤの歓談も尽きたので、小屋に入り薄暗い蝋燭の光りを頼りに就寝の用意を整え、正に横になろうとした瞬間。時刻はかれこれ十時をとうに過ぎていたであろう。小屋の背戸の方からトラツグミの声が起こって来た。
 ヒーヒーと口笛を吹くような音。こちらで鳴くかと思えば、もう次の瞬間にはあちらで鳴いている。一羽が鳴いているようでもあり、二羽が掛け合いで鳴いてもいるようにも聞える。或いは遠く、或いは近くひびくその声にぢっと聞き入っていると、何か身体がぞくぞくするといった思いであった。蝋燭のかすかな火はさして風もないのにゆらゆらとゆらぎ、部屋の片隅には物の怪でもひそんでいるようにも思われる、この薄暗い小屋に唯一人で泊まっているとしたら、そしてこれがトラツグミの声であることを知らなかったら、恐らく私も慄え上がったに違いない。
 夜の世界を支配する不気味な沈黙を破ってひびく、不吉なトラツグミの声を昔東北の無知の山村の人々が、天狗の声と誤って考えていたとしても、決して不思議のようには思えない。この異様な鳴声を身近に聞いた人でなければ、私が駄法螺を吹いていると思うだろう。

 ヨタカ
 蓬来山への登山コースの一つ、コンピラ道にかかる所に、県営のユースホステルがあり、ここを中心として毎夏県の教育キャンプ指導者講習会が開かれ、度々私はその講師として招かれ、テントに寝泊まりした。此処では夕闇が迫ってくるときまって、林間から、ヨタカのキョキョキョが聞こえて来るのだった。
 ヨタカの声が聞かれるのは、何も此の八屋戸に限ったわけではない。比良の各所でヨタカの声は聞かれる筈だが、此処で特に多く聞かれるように思うのは、私が何日も寝起きしたためかも知れない。私の家は東海道線の北側のすぐ下の方にあるが、東海道線の南部の山地が今のように拓かれなかった頃には、夜二階に立って耳をすましていると、線路の向うからヨタカの声が聞こえて来たものである。
 ヨタカの声は一度教えてもらえば、二度と間違えることのない特徴ある声だが、私には昼間林の中で恰も円筒を連続してたゝくような連続音を発するのは、キツツキが嘴で樹幹を叩く時に発する音であることは分っても、ヨタカが夜どうして飛びながらあんな声というよりも、音が立てられるのか不思議でならない。

 カッコウ、その他
 終戦後間もない頃、奥深谷に沿うて道を辿って行く時、その水源池の八雲ヶ原がもう一息という、小高い所にさしかかると、新緑の頃にはきまってカッコウの朗らかな声がひびいて来るのだった。若い頃に東北に幾年かを送った私には、カッコウは雪にうもれたうんざりする冬の生活が終わり、楽しい花咲く春の到来を告げ、人々の耳にいやが上にも其の喜びを高揚するする鳥だった。そして私はここを一人でカッコウ峠と呼んでいた。その後間もなく奥の深谷の源流地方では、大規模な伐木が始まり、環境がすっかり変り果て、それと共にカッコウの歌声も絶えてしまった。
 その仲間のツツドリが、今も尚例のポーポーという鼓の音を二回ずつ、遠く谷の彼方からくり返し、今は返らぬカッコウの歌の償いをして呉れるのがせめての慰みだ。早春の小川のほとりのまだ芽も出ていない木にとまって、小さな身体に似合わず、思いもかけないような大声で呼びかけるミソサザイ。
 四月頃膳所神社の高い木の梢に群がって、ツキホシヒーと声高らかに歌うので、俗に三光鳥と呼ばれているイカル。比良で聞くのは夏であるが、この頃は色々な鳥がいるから一寸ききもらす。薮の下をくぐりながら、虫のような鳴声を立てると本に書いてあるヤブサメ。一体何の虫の鳴声に似ているのだろう。ナキイナゴの声か知らと思いつつも、滅多にその姿を人に見せぬ、ヤブサメを垣間見た喜び。土永さんの比良の目録に記載されているアカショウビンを、南郷の旧洗堰の附近の溜池で見た楽しさ。ゴジュウガラのフイフイという口笛に似た声を早春にきき、又最近その姿を見掛けたのが、確かにそれに違いないと思いつゝも、はっきり出来ないもどかしさ。比良を歩いて印象に残る鳥は他にいくつもあるが、素人の私が書きつづけて行くと、徒に無責任な記事を羅列するに止まりそうなので、もうこの辺で筆を止める。高校山岳部の参与を止めて、勝手な山歩きが出来るようになった今日、未だ知らないことが沢山あるうちから、たとえ一つでもより多くの事実を知るよう努力して行くのが、私の楽しみの一つである。
越冬つばめ哲学   伏原春男

   最近、越冬つばめが琵琶湖に殖えたことは湖水の水質が汚染され、つばめの食物であるユスリカの発生が多いことが原因であろう。これは即、京都市の上水道がより一層汚染されてきたことを示すものである。
 この上水道からできた下水処理に当っている橋本会長が越冬つばめの件で走りまわっているということは、春秋の筆法をもってすれば、汚水が越冬つばめを生み、越冬つばめ橋本会長を走らし、一方では橋本会長は汚水処理によって職を得、これにより越冬つばめを減らすことに日夜努力しているというのが現実の有様である。
 要は、レジャーブーム、マスコミにより、琵琶湖周辺の料理屋が繁昌して、毎日毎日汚水、汚物を琵琶湖に排出しているということに帰結するのではなかろうか。(37年2月記)

奥美濃の水芭蕉   大中啓助

  尾瀬の湿性植物は、機会あれば是非出かけたいと思いながら、その案内書をひもどき景観を想いうかべていた。ある日、水芭蕉が岐阜の山奥に、関西でも珍しく自生地があることを知り、五月のゴールデンウィークに訪れることにした。
 美濃太田より越美南線に乗換へ、長良川を右に左に美濃市郡上八幡とさかのぼる。川の美しさと相まって、満開の桜が京都より来た私たちに二度目の春を味あわせてくれる。終着駅、美濃白鳥より国鉄バスにて一時間半、蛭ヶ野荘に着いたのは、日もとっぷり暮れた午後八時であった。
 翌朝目を覚ますと、落葉林を背山にして、小さな流れを中にかこみ、素朴そのもの静かな山の宿である。
 ながれをたよりに歩をすすめる。点在するこぶしの花を透し、残雪しるき大日岳鷲ヶ岳がのぞまれ、そのすそ野原が、広く続いて蛭ヶ野高原となってゐる。
 そこには、放牧牛舎、サイロ、小さな森、それを縫って細々と流れる小川、そのあたり点々と白いものが見え出してきた。それこそ待望の水芭蕉、ほのかな夢のように咲く清純さ。高僧が坐禅する姿そのまゝこっけいな坐禅草、ほんのり薄紅のしょうじょうばかま。ふきのとう、つくしと、純朴な花々でいっぱいである。
 落葉松は芽吹きたらず、未だかわいい緑がほのかに色付いたまゝである。が、矢張り五月、森には早やきびたきがわたり来て、美声で啼きつゞけて居る。ほゝじろ、せきれい、もずが、朝の行動をはじめて居り、道路わきの白樺林の上より、つつどりのポンポンが、幽かにきこえてくる。さしばが、朝の獲物を追い野面をかすめると、遠くではやましぎがとび立つ、しばし静かな自然の中に我を忘れる。
 蛭ヶ野高原は、表裏日本の分水嶺で、長良川、庄川の源となっている。白山登山のための足がゝりや、福井、富山につながる要道であるが、通過する人も数少ない様である。
 北流する庄川は平家の落人のかくれ棲んだ白河郷に入っては、御母衣ダムとなり、近代土木技術の粋をあつめた一大偉観をなしている。樹々茂り夏鳥きそい鳴く初夏には再び素遊したき処である。
鳥声と音楽   倉嶋 暢
  童謡や唱歌の歌詞や標題の中で、鳥の名前の出て来るのを思い出して見ました。
 カラス、スズメ、ウグイス、ハト、ガン、トビ、ツバメ、カモメ、カッコウ、オーム、カナリア、チドリ、ヒバリ、ムクドリ、キジ、アヒル、等、まだもっと多くさんあるかも知れません。
 これ等の中で、鳴き声が歌詞の中に書かれているものは、ほんの数種類にしか過ぎない様です。カラスのかあカッコウはかっこう、雀はチュンチュン、ツバメはピーチクパーチク、ウグイスはホーホケキョ、雲雀はピーピーピーと、それ位いのもので、どうも歌と鳥の声は余り縁が無い様です。“歌を忘れたカナリヤ”も出て来る始末です。
 こんな唱歌があります。
  あれ松虫が鳴いて居る
  ちんちろちんちろちんちろりん
  あれ鈴虫も鳴き出した
  りんりんりん りいんりん
     中略
  がちゃがちゃがちゃがちゃ くつわ虫
  あとから馬おい 追いついて
  ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
 これなぞは、よく虫の標準和名と、鳴く声を非常に適切に現わして居ると思います。が残念な事には、鳥の歌の方には余りこんな例がない様です。ただずっと時代が上って、後撰集中に、
  行帰り ここもかしこも 旅なれや
  くる秋毎にかりかりと鳴く
  秋毎に くれど帰れば頼まぬを
  声にたてつゝ かりとのみ鳴く
 と、雁の声を読んだのがあったり、又漠然とした鳥名の多い中に、標準和名と鳴き声の入ったのが一つだけあるのは、まだ心強いと思います。サトウハチロー氏の唱歌の歌詞中
  わらいかわせみに話すなよ
  ケララ ケラケラ ケケラケラ
 等は、大変面白いと思います。
 一方歌謡曲の中には、カラスと云う名称一つとっても、大変な箔がついて来まして、喧嘩がらす、次男坊がらす、江州がらす、天龍がらす、等があり、鳥学でいう迷鳥も“涙のはぐれ鳥”と云うロマンチックな名になったり、また母千鳥、浮気鳥と云う様な、妙な鳥も出て来る次第です。
 一方器楽の方では、鳥声を扱ったものには、先づカッコウワルツをあげる事が出来ますし、“森の水車”にも鳥声が入って居る様です。“ブルーカナリヤ”にも勿論カナリヤらしき声が入って居ます。大きな曲の中では、ベートーベンの交響曲第六番“田園”に、完全にかっこうと聞ける鳥、その他の一羽の鳥が鳴いて居ます。
 レスピーギの作品の中には、“鳥”と題する曲があります、併し乍ら、音楽家と鳥達の関係は、比較的薄い様な気がします。と云うのは、勿論彼等は鳥の声を美しいとは聞いて来たでしょうが、元来音楽家達は、楽音と非楽音(或は騒音)と云うものを分類し、楽音が成立する為には三つの要素がある。即ち高さ、リズム、メロデーであると云うのです。成るほど、鳥の声には高さがある。メロデーもある、併しリズムが無い、一二三四と数えられない。だから小鳥の声は音楽ではない、と云う風に考えられて来たのではないでしょうか。そして又、カコウワルツの様に、楽器を以って鳥の声を現わす様な、標題音楽と云うのは、音楽の低位に属するものであると云う考え方もあった様です。
 とにかく今迄学名を附けられる一種類と組んで、鳥を音楽化したものは無い様です。
 そういう中にあって、現代音楽の巨匠、メシアン氏は、早くから小鳥の声に注意し、世界の小鳥の声を集められて居て、日本からも文化放送を通じて送られた由ですし、又今年来朝の際も、朝早くから、鳥声採譜に努力されたそうです。先日メシアン氏作曲になる“鳥のカタログ”中、インドの鳥を主題とするものを聴きましたが、残念乍ら、私にはその元となった鳥の声を聞かないので、メシアン氏がどれだけ鳥の声を音楽化しているかと聴く事が出来なかったのは残念です。然し、メシアン氏来朝中、ウグイスの三ツ音に感心されたそうです。さすがに音楽家として、鳥を愛する耳を持って居られるのに驚くと共に、今更乍ら鳥類中、最高級な鳴方をするウグイスにも敬服する訳です。
 翻って、此れは又大作曲家に対して、非常に失礼な話ですが、先ほどお話しした様に、美くしい中に非音楽的要素を多く含んで居る鳥の声を、さゝやかな五線紙の上に、どうして記録出来るかゞ問題でして、メシアン氏が五線紙の上にペンを走らせて居られる時は、すでにもう鳥の声ではなく、鳥の声を聞いたメシアン氏自身のイメージではないでしょうか。
 五線紙に書けない鳥の声、楽器で出せない鳥の声、それが山間にエコーとなり、或は霧の中にこもり、春のかげろうの中にゆらいで行く、そう云う自然の状態と相俟って、誰も真似の出来ない自然の声を、おしげもなく歌って居る小鳥達、それだけに私達は野鳥を、こよなく愛する理由があり、意義があると思います。
人見信夫君(雑想の日記より)   松本貞輔
  京都府船井郡八木町氷所に住ひ僕の甥、次兄勇太の長男である。長兄(人見少華)が南画を志して家督を離れた関係で、次兄が農を受け継いだ僕の家では、四才にして父を失うと二十才年長の次兄のもとで小学六年生迄を暮らしたのであったが、当時鳥のみを追う趣味的銃猟を続けていた次兄の後につづいての野山歩きに、僕もいつしか野性鳥獣に関心を燃やすやうになってしまった。
 その頃は野性鳥獣もまだまだ豊富で、捕ったり飼ったり巣を探したり、昔田舎の子供の当然歩んだ道ではあったが、僕には丹波水所周辺の山野は、満州に於ける戦後幾度かの死生一髪の間に於いてさえ、小鳥を尋ね歩いた裏の竹藪、餌用小鮒を釣った前の小川が脳裏をかすめたそれ程迄の、断ち切れぬ野鳥に結んだ懐かしい心の古郷なのである。
 次兄が逝ったのが信夫君の十四才。当時銃猟にうつつをぬかしていた十才年長の僕が、今度は帰省の度毎に信夫君を山野に引きまわす立場になってしまった。こんなことが度重って、信夫君も野生鳥獣に興味を深めて行ったのであったが…。
 昭和十四年の秋も深まって、愛宕の嶺の大杉がくっきり紺碧の空に眺められる頃であったが、僕は信夫君よりオジロワシ飛来定着の報を受けたのであった。
 今はもうすたれてしまったけれど、当時は養鯉の盛んなこの地域は、稲田、用水池等で養殖した鯉を晩秋の候より特設水田に囲飼するのであったが、その養鯉にオジロワシが根城を占めた、と云うのである。そして毎早朝その鯉田から400米の地点にある柿の木に翼を休めている、とのことであった。
 戦局は愈苛然の度を増しつつあった当時のことであったが、聖職と云われていた教壇に立っていた僕は、十年の余を乗馬に親しんでいた関係もあって、騎兵二十聨隊に書き送った壮行詩が同聨隊歌に制定された感激の尚去りやらぬそのままに、今度はオジロワシを射落して翼をひろげた剥製とし、これを荒鷲云々にことよせて隊の玄関を飾るべく、航空隊に寄贈を思い立ったのであった。
 早速面識のあった舞鶴在の某剥製師に前以て剥製料金の二十円プラス実費旅費応諾の点まで交渉し了ると、僕はブローニング猟銃に大粒散弾を装填してこの鷲征伐に立向かったのであった。(勿論当時ワシ類は猟鳥であった)
 前夜を信夫君宅に泊まって翌早朝、二人連れ立って前日に木の下に作って貰ったブラインドにもぐりこみ、山のねぐらより飛来のワシを狙ったのであったが、その日のワシは柿の木には飛来せず、一時間余の空待ちから抜け出て眺め渡すと、鯉田300米の稲の刈り跡田に下り立っていて、鳥二羽、鳶五羽の囲周挑戦を受けていたのであった。
 400米の距離に於ても嘴の黄色がはっきりと見てとれるこのワシは、尾羽の白色も見事な、まさしくオジロワシの成鳥であった。
 とてもこんな地状では寄り打ちも叶わぬままに、僕は稲架の蔭に身を寄せると、信夫君に遠廻りをして貰い、その追い立てによる飛来を射落す策を建てたのであったが……そして頭上100米を悠々飛過する彼にBB散弾を三発迄連射したものの、これは無為に了ってしまった。
 かくしてワシは100米離れた氷室神社裏山中腹の、とても寄りつけぬ一本の老松に翼をたたんだのであったが、その日の午後三時過ぎ、再度現地を訪れて見たけれど、該老松に尚毅然と止り続ける姿の確認に了ってしまった。
 その後再度の攻撃を、と思い乍らも、又信夫君よりは再々の通信を受け乍ら、身辺多忙の故もあってワシ攻撃を再行せぬままに、僕は満州に渡ってしまったのであった。
 晩秋の頃に飛来して春三月に北帰するこのワシの消息については、信夫君が応召した昭和19年迄づつとつゞいて、奉天在の手元に懐しい便りに附記されていたのであったが……。21年、九死に一生を得て帰国した僕の眼界からは、ワシは姿を消していたのであった。
 二年おくれてシベリヤから帰還した信夫君とも、このワシについてはその思い出を語り合ったのであったが、敗戦によって一変した日本の世相を思うにつけても昔の姿のなつかしく、只一回の目認に了って見事であったあのオジロワシも、何故にともなく断ち切れぬ哀愁に似た影を残して、いまだに僕の網膜にくっきりと宿りつゞけているのである。
 今夏その信夫君から、同氷所在、通称古宮の竹藪に於けるコノハヅク飛来の報を受けたのであった。
 夕方より鳴きつづけて三日間滞留した由であったが、こんな通報を受ける度毎に野鳥に関心を捨て切らぬ僕の心はなごむのである。この声のブッポウソウの飛来については、ここ二・三年来元猟友より受報のある由良川下流、志賀郷地区のマガモ繁殖?の確認と共に来年度又の朗報にかける楽しみなのであるが、年一回の愛鳥週間に新聞等が世俗に呼びかける程度では案外その反応もなく、自然を愛する詩情にもうとい一般人の間にあって、或程度の野鳥に関する知識と関心をもつ信夫君のやうな散在は誠にありがたいものと思うのである。
 訪ね断たぬ山禽の、声を賞で姿を愛し、故殺の破窓に只一人、都塵の落ちるその日まで……と云ったような時が持てたら、と思う心はあっても、そして昔矢立一本をたづさえた俳人の旅の姿を慕う心はあっても、荒心一途を辿るによしなきあまりにきびしい世相の現実を悲しく思うのである。
 銃にかえる画帖一冊、日暮れては野山に臥してひょうひょうと鳴くトラツグミの声に心耳をすまし、まなこをとぢて松山のツツドリの声に瞑想する無銭の旅をつづけてみたいと希う僕の想いは、さていつの日にか実現することであろうか。

耳からのプレゼント   
  毎年比叡山の小鳥の声を聴く会のシーズンになると、府立盲学校の児童たちを一日比叡山に招いて野鳥の声を聴かせて大変好評を得ている。
 今年も五月二十九日の夕方から青龍寺で一泊の探鳥会を催した。五・六年生男女合せて二十六名。附添の先生に連れられて重いリュック、手提鞄などを持って嬉しそうである。ケーブル終点から約四キロの山道を行儀よく二列に並んで建者な足どりでサッサッと登って行く。後から見ていると盲学校の子供たちとは信じられない遠足風景である。
 子供たちに聞いてみると、「早く六年生になって比叡山に行きたかった」と皆が修学旅行以上に比叡山行を楽しみに待っていたのである。
 早いもので初めて連れて行った子供達はもう中学部も卒業して専門学部で立派に成人している。
 子供達は教室でテープを聞いて鳥の声を予め勉強してきているので初めての子供でもすぐに鳴声を覚えてくれる。まして聴覚が発達しているのか普通人とは比らべものにならないほど鋭敏で一度聴いた声は絶対に忘れない。わづか小学生なのにと驚くほどである。
 今年から中学部・高等学部の生徒達にも何か変ったプレゼントをと考えた結果。京都には古くから嵯峨野の虫を聴く風流な催しがあった故事に習って九月十二日と十八日の両夜にわたり寮生約六十名を招待して平安の昔をしのんで嵯峨小倉山麓二尊院の境内で折からの中秋の名月を背景に伏原・佐藤両顧問と伊藤委員の三氏から嵯峨野の虫について詳しい解説を聞き、芝生でなくコオロギ、萩のしげみで聞くカンタン、樹上で鳴くアオマツムシなどを静かに聴いて愉しみ、徒歩にて俳人去来の墓地を訪ね、落柿舎で俳聖芭蕉をしのび槇垣に騒しくガチャガチャと賑やかなクツワムシに耳を押えるほど。路傍で鳴くチンチロリンのマツムシの音にしばし足を止め、途上、野々宮に詣で「黒木の鳥居」「小柴垣」と源氏物語を思いうかべ虫の音と共に嵯峨野の夜の愉しいひとときを味った。この附近も近年来より住宅が建ち並び、虫の棲む場所も少くなり、まして農薬のためか年毎に減少していることはまことに淋しい限りである。
 私達の心からの耳のプレゼントとしてこの催しが生徒達の若き日の想い出の一ページとなってくれることであればまた来年も続いて催したいと望んでいる。(橋本記)

ヒシクイ見参      浜畷慎吾
  ヒシクイに初めてお目にかかったのは三十五年頃、兵庫県小野池であった。
 この様な北の珍客?に見参しようとしたら一回でうまく行くなんて事は余り期待しない方がいい。
 はじめてお目にかかった時は一人だったが、その前にバスで小学校の生徒なども一緒に行った時は日曜日で池の近くで遊んでいた悪童連が追っ払ってしまった後で、地団駄踏んで口惜しがった。
 三回目にこのヒシクイを目当てに行ったのは、伊吹山麓の三島池だった。それは今年(37年)の三月頃の事、山友達の藤本と大阪を夜行で発って朝四時頃池え着いた。
 電池の光に驚ろいたのか、ヒシクイ(らしきもの)が突然グワングワンと飛び立った。声だけで姿は見えない。
 「オイ、いよる、いよる。朝が楽しみやで」
 と池の南側の松林の中で寝袋に入って仮眠した。
 朝寝袋から首だけ出して双眼鏡で探したがいない。おかしい、確かに啼声を聞いたのに。
 啼いているのはコガモだけ。ガッカリした。
 「なけなしの財布をはたいて来たんやデ。どこかそこらにオクテの奴居らんか。ワセはあの声を残して北えィニやがったらしい」
 池のまわりを未練気にウロウロしてコガモとマガモの写真を撮って帰った。
 四回目のヒシクイ面接は京都野鳥の会の十一月例会でだった。
 十時半近江長岡に着き高田さんと他女性二人とタクシーを飛ばせて皆より先行した。
 「追っ払わん様にな」の声を背に来ただけに池で無心に菜食しているヒシクイに対しては細心の注意を払った。
 こんなに近くで見るのは初めてだった。群は三つ位に別れていて、全部で約五○羽位。私は胸をワクワクさせ乍ら望遠レンズをセットした。池の北側のお宮の鳥居の所から先づ二、三枚パチパチと撮る。
 高田さんは西まわりで南側え、私は東側え歩いた。
 変な奴が池のまわりを歩きはじめたと感づいたのか、首を立てたり、池の真ン中の方え泳ぎ出したりする奴が出て来る。
 そんな所え山東中学の口分田先生がスクーターでやって来られた。
 「池のまわりを二、三回歩いて下さい。そしたら彼らは安心してゆっくり写真を撮らせてくれますよ」と注意して下さる。
 それならと云われた通りにしようと、彼らを横目でニラミ乍ら歩き始めた。
 ハッ、と思う間もなく、池の中央にいた一番大きな群がすごい羽音と共に飛び立った。夢中でシャッターを押す。
 おかしい。私より近くの群が先に飛び立ったのなら話はわかるが、遠い方の群が先に飛び立った。
 「俺のせいじゃない、俺のセイじゃない」と卑怯にも云い訳を考えている。
 しかしとに角、鳥は飛び去ってしまったのだ。気分が重い。顔向けが出来ない。どうしよう?
 こんな所に私の気の弱さが出て来る。
 後で佐藤先生になぐさめられて、かえって恐縮し、ハネがあったらヒシクイの飛んで行った方え飛び去りたいと思った。
 写真を撮るのなら矢張り小人数で行くべきだ。今度みたいにトリはトリでも月給トリの写真では仕方がない。いやこんな事を書けば叱かられる。

川村多実二先生 個展開催について      橋本英一
  京都野鳥の会の創始者で名誉会長にいたゞいています京都美術大学学長川村先生にはかねてから御自作の野鳥生態画の御作品を御郷里岡山県で個展を催されるとの様子を承りましたので、先きに京都で開催していたゞくよう特に先生にお願いいたしましたところ、御快諾を得ましたので本会主催で二月十日より十四日まで産経画廊で鉛筆画・水彩画・油絵など四十数点を一室に陳列して有志の方々の観賞に供えることにいたしました。
 この催を聞かれた方々の御来場は三百有余名に上り、大盛況で川村先生の御高徳のほどが察しられ誠に主催者としての面目をほどこした次第であります。また観賞された各位から御作品を是非譲り受けたいとの希望がありましたので先生の御意向をお伺いいたしましたら先生から『自分の画は単なる余技であり、今まで金に換えた経験もなく、将来もその必要は感じないだろうが、いつまでも死蔵するつもりはない、若し欲しい方があれば無償で差上げてもよろしいが、一部を除いて今回の陳列作品は全部京都野鳥の会の資金として寄附するから適当に処分して欲しい』との結構な御返事を承りました。そこで私達の一番困った事は先生の御作品を如何に評価するかの問題です。専門家に見て頂いても評価は未知数です。と云って勝手な評価も出来ず、最終的に『御希望の作品がありますれば本会から御寄贈申し上げ、これとは別に本会のための事業、野鳥知識の普及と野鳥保護を推進する資金を御寄せ頂けば本会は有難くお受けいたします』といたしました処、別項の如く多くの申込を受け主催者側を驚かされました。ここに先生の御言葉をかりて申し上げますれば御承知の通り今世紀に入り西洋美術に大変革が起り、野獣派、立体派、未来派、抽象派、と新らしい美術家が続出、前世紀まで持続された自然美の忠実な描写が完全に放棄されようとしていますが、川村先生は人類の出現に先立って大自然が動植物の形態色彩を改良して驚くべき立派なものとなし得た経路、即ち静物の美的進化の研究を半世紀以前に開始され、美術家たらんとする者は先ず客観美の法則や目的を会得して後に主観的な人工芸術に移るべきであると主唱されている我邦での唯一人の生物学者であります。
 世間では自然美の描写は天然色写真で事足りるとの暴言も聞けますが、これは生物界の美を写す画家が生物の美に時間的の変動を捉えてこれを作品の上に現す技能を有する点で無心なカメラの及ぶ所でないことを忘れているのです。川村先生の御作品を御覧になった方は御承知と存じますが、恐らくこの点では絶後のものと云っても過言でないと思います。また先生の御作が旧式であると評されましても先生は決して気にせられないことは信じて止みません。
 ともあれ川村先生の御作品は御本務の動物学の研究、学生の指導などの余暇に時折画筆を揮われたものです。
 終りにあたり、会員諸氏の御協力により無事盛会裡に閉会出来ましたことを誌上をかりて厚く御礼申し上げます。

       記
 寄贈画    資金御寄附額  氏 名
 一、流れ     5,000円  中拾正直殿
 一、洛大原    3,000円  南 孝二殿
 一、びんずい   5,000円  南 孝二殿
 一、きじばと   5,000円  田中大典殿
 一、じょうびたき 5,000円  大中啓助殿
 一、警戒    100,000円  久保のぶ殿
 一、木曽福島         久保のぶ殿
 一、るりびたき  5,000円  福田翠光殿
 一、めじろ    5,000円  就実短大殿
 一、植物園の桜  5,000円  岡本春一殿
 一、こかわらひわ 10,000円 上村松篁殿
 一、すゞめ    5,000円  宮城正吉殿
 一、あおげら   5,000円  中村正則殿
 一、うぐいす   5,000円  宮崎平七殿
 一、ホシガラス  20,000円  藤原広蔵殿
 一、東尋坊    5,000円  京福電鉄殿

 以上のほか、川村先生の現職・郷里、知友等の関係で京都美術大学に五点、岡山県に三点、津山市に三点、富山大学に一点、松江市に一点、東京都に一点、大阪市に一点、山口県に一点、熊本県に二点、合計十八点を寄贈せられましたので、岡山野鳥の会主催の個展の材料がなくなり、それを延期されました次第です。
◎収入之部 資金寄附合計額 188,000円
◎支出之部 雑費その他   27,265円
 差 引          160,735円
 前記の通り金額を川村先生より本会資金として御寄贈下さいましたので有難く受納させていただきました。


「年間行事報告」      

 十二月例会(忘年会を兼ねて)
 昭和36年12月24日。洛北貴船「喜らく」で本年最終例会を開く。
 川村名誉会長を迎えて、会員倉嶋氏の厚意によるアメリカの野鳥の声、数十種をテープで聴く。終って貴船名物「牡丹鍋」即ち野猪のすき焼きで戸外の寒さも吹っとばして一同愉しいひとときを送る。
 来春京都を去って岡山大学に赴任される落合夫妻もお別れを兼ねて参加され、在京中の野鳥の会の楽しかった想いでなどを語られ、また一同で三十六年の数々の行事を顧りみて、来年もまたより良き年であることをお互いに祈り午后九時頃閉会した。
 参加者 小泉和男・佐藤磐根・内田勇・入江英一・伏原春男・田中大典・高田俊雄・落合英夫・落合乙与・川村多実二・大中啓助・伊藤正美・奥田せつ子・当麻信隆・松村雅世・中田好則・烏賀陽貞子・久保忠雄・南孝二・橋本英一(橋本記)
  一月例会
日 時 昭和37年1月28日
行 先 南方系の飼鳥見学会(上村淳画伯邸)
参加者 奥田せつ子・大中啓助・久保忠雄・入江英一・佐藤磐根・清水裕子・烏賀陽貞子・松村雅世・高橋真一・高田俊雄・橋本英一・川村多実二・宮城正吉・関西自然科学研究会員大勢
 近鉄関西自然科学研究会の会長を、川村先生がして居られる関係から、この催に本会も便乗参加させて戴いた。非常に多勢で参加総員約五十名、奈良電鉄平城駅に定刻午前十時に集合、ほど近い小務が茂る丘に新築された上村邸に向って出発す。小春日和で道すがら麦も青々と鮮やかに、その畝を立派なつぐみが一羽見られ、一同の注目を引く。上村淳氏は上村松篁画伯の御令息で、京都市美術大学の講師のかたわら、平城の別邸に禽舎を設け主として南方系の鳥類を飼育され画材資料とされて居るわけである。川村先生より飼育されて居る各種鳥類のリストに因り、懇切なる説明を聞く。特にサシバ、白ガラス、綬鷄、小綬鷄については興味深いものがあった。講話が終ると、観察のためそれぞれの野鳥を見て廻ったが、どれもこれもその羽根の色が鮮明で、この様に維持するためには、飼料の割合が重要な要素だと話される。色彩感豊富な珍鳥を心ゆくまで観賞し、解散したのは午後早々であった。
 鳥 名
シロクジャク、キジ、シロキジ、コウライキジ、ヤマドリ、カラケマドリ、キンケイ、ギンケイ、ハクカン、コジュケイ、ウズラ、ウコッケイ、チャボ、セブライト、シロシャモ、ヒチメンチョウ、ドバト、クジャクバト、シャコービン、ギンバト、キジバト、シラコバト、セキセイインコ、其他野鳥多数。  (大中啓助)
    二月例会(川村先生個展観賞と談話会)
 別項参照の川村先生の個展を2月11日午后より産経画廊で先生の説明を拝聴しながらゆっくりと観賞した後、寿屋階上ホールで川村先生を囲んで談話会を開催する。
 参加者 川村多実二・高橋真一・伊藤正美・高田俊雄・市川延繁・南孝二・田中大典・佐藤磐根・久保忠雄・久保のぶ・藤岡とみ・山田弘通・奥田せつ子・伏原春男・大中啓助・入江英一。 (橋本記)
  三月例会
 3月25日(日)余吾湖と賤ヶ岳探鳥会
参加者 浜畷慎吾・伏原春男・伏原のじ子・佐川孝子・佐藤磐根・高橋真一・土永閤運・土永正宏・高田俊雄・南孝二・田中大典・奥田せつ子・太田政之・太田真・楠井喜晴・橋本英一・烏賀陽貞子・谷元峰男・中井一郎。
 柳ヶ瀬トンネルをさけて新しく開通した北陸線の余吾駅についてたの10時14分。駅を出るとそこはもう余吾湖畔である。空はからりと晴れて風もなく絶好の日和。しかし下草はまだもえず湖北の春は浅い。シロセキレイ、セグロセキレイ、ハシボソガラスなどの姿を追う。湖面にはカイツブリが数羽。竝川から湖の西岸をめぐる。湖面をへだててそびえる横山岳は流石1000メートル級だけあって全山白雪に輝いている。モズ、キジバト。草原にはチチ・・・とホオジロの地鳴き。トビが上空に輪をえがいている。とある林にシジュウガラの一群、その朗らかな歌声もきかれた。やがて賤ヶ岳の登り路にかかる。かなりの急坂をあえぐと、次第に余吾湖は眼下に円くその全容をあらわしてくる。鞍部から最後の急坂300メートルに一汗流すと、422メートルの山頂に立つことができた。南側には大崎、つずら尾崎が琵琶湖に緑の影をうつし、竹生島がポツリとピリオドを打っている。『天正11年秀吉と勝家合戦の所』の碑がある。山頂に一同円座をつくって昼食をとる。木の本側からリフトがついているので身軽なハイカーもみられたが、一行はリフトにたよらず飯の浦に下ることになる。湖畔でバスを待つ小一時間、なぎさの砂浜に春光をあびてのびる。ウのとぶ姿をみた。はるか沖合に浮んでいるのはアビか、オオハムか。3時2分の国鉄バスに乗る。つずら尾崎をめぐるバス道から、はるか下方に湖水のなぎさを見おろす眺めは素晴らしい。瀬戸内海の入江風景のような大観は琵琶湖ではここだけのものであろう。海津をすぎれば今津へはもう平坦な街道である。今津で丁度連絡する江若鉄道があり、再び車窓に湖畔風景を楽しみつつ、浜大津着18時。今朝国鉄大津駅を東に通過したのは8時ごろだった。丁度10時間で琵琶湖を完全に一周し、快晴にめぐまれた今日の探鳥行を終った。(佐藤磐根記)
  四月例会
日 時 4月22日(日)快晴
場 所 滋賀県、湖南桐生峠の探鳥
参加者 奥田、伊藤・佐藤・高田・久保のぶ子・松井・伏原父子・大中・入江・久保忠雄・堂本・清水・橋本・大西・太田・坪田正一・坪田輝美・計18名
 8時41分京都発、草津止まりの電車に一行は楽々と乗車、草津駅頭には橋本総理のために駅長自らのお出迎え、構外まで先導さる。桐生行バス乗車迄の間、街の哲学者と佐藤先生との間に珍問答の余興あり。
 駅長見送りの下にバス発車、約三十分ばかりで桐生に着く。草津川に沿って歩き出すと、途中の道端の笹が珍しく花盛りである。恐らく何十年目に一回の現象だろう。こことても「ダンプ」の往来がうるさい。
 川沿いの松林にはビンヅイの姿がみられた。河原にはセグロセキレイの姿、松の梢にはエナガの声だけがしている。
 植物採集する人、鳥声の録音する人、望遠レンズのピントを合わす人、思い思いに各自の得意を発揮するうち峠の近くにさしかかった。そろそろ空腹を訴えた様子、誰いうとなく休憩昼食、附近にはワラビ、ゼンマイ、スミレの花がとても多い。清流の岩の上での弁当の味は又格別、その間ヤマガラの声がしきりにする。とにかくヤマガラの多い山である。又この土地は野鳥以外に植物学的に興味のある土地でもあって、高山性の植物が見られるので有名である。その一例が関西でキンコウカの唯一の自生地、その他ヒメコマツの自生も見られた。ハイカー一人も出逢はず、野鳥の会員独専コースの様なハイキングをして、桐生辻に出て、ここから石山行バスに乗車途中、中央線木曽の寝覚の床の様な景観に見とれつつ石山駅にて一同解散。(伏原春男記)
  五・六月例会(比叡山探鳥会)
  例年の通り京福電鉄と共催で5月19日・26日・6月9日の三回開催する。
 会員の他に一般市民も参加して元黒谷青龍寺に一泊。翌朝解散で、一般参加者66名あり盛会裡に終了した。各回毎に指導者として佐藤顧問・高田・伊藤・大中・久保忠の諸委員が担当して出席された。
    六月例会報告
日 時 6月16日(土)より19日(火)
行 先 伯耆大山及び鳥取砂丘
宿 泊 大山寺中原ロッジ二泊、車中一泊
指導者 杉谷正則氏
参加者 伊藤正美・大中啓助・橋本英一・当麻信隆・高橋真一・南孝二・久保のぶ子・烏賀陽貞子・大西ひろ・清水克也
    大阪支部より・児玉吉四郎・増田実三・井上幸男
 十七日の朝は車中で明ける。窓から射し込む朝日が清々しい。窓外には山陰の風情が映り、左手遙に大山のコニーデの様な雄姿が望まれる。明日には、その頂きに立てるとは思えぬ程高い遠いものに見える。一同は昨夜京都駅で、ほゞ席を取れたので、夜行の疲れもさほど気に懸らぬ様子である。五時半頃、伯耆大山駅に着く。大山寺部落への始発バスまで駅前の旅館で休憩して、四方山話に花を咲かせる。七時半乗車し、一時間で終点に着く。この部落に至るまでの低い地帯は灌木の植生も良く、多両な場所だと実感される。富士山麓の様に鳥類繁殖に適しそうな場所も随所にある。下車したところで大阪支部の一行三人と合流する。この停留所から西に行くと大山橋がある。その橋に立つと、まず目に飛び込んでくるのは河原の硬く、真白い石の色と樹木の青々と繁った山裾が急勾配な河床の線で交わってなす、自然のみごとなコントラストである。更にその樹海の上に大山の削ぎ取られた様に峻険な北壁を眺めることが出来、これらの美しさに一行はしばし足を止められる。この美しさやオオルリの美声に釣られた訳でもないのだが、宿舎の中の原ロッジとは反応の方向に当るこの橋を渡ってしまい大山登山道入口に出る。この辺り、ハルゼミ、ホトトギス、オオルリ、キビタキの鳴声が混声合唱を聞かせてくれる。ここで逆の方向なのを知り、引き返す。ようやくロッジに着いたが、途中の茶屋で飼っていた鳥の中に、トラツグミと間違えた位に、よく似たホトトギスの若鳥を見る事ができ大変珍しくうれしい。ここには他に、イカル、ヤマガラ、アオジ、ホホジロが飼われていた。ロッジで今日明日と案内をして戴く、野鳥の会会員の杉谷先生を紹介される。先生には、二日間を通じて大変お世話になる。
 ひと休みの後、まず寂静山へ、クロツグミ、ホホジロの鳴く林の中の道を通って登る。展望台からは大山の男性的厳しさを代表している大屏風、小屏風がよく眺められる。その絶壁の前を黒い点の様になって飛交っているアマツバメは現在2〜3万羽でその他にイワツバメが1500羽位いるとのこと。又、イワツバメもアマツバメもハヤブサの餌食をして狙われるのでハヤブサの接近と同時に群は毬の様になって防衛するが、その鋭い足の爪に蹴落とされて、落ちてゆくところを捕えられてしまうと云う杉谷先生のお話で、アマツバメの様な快速の持主でもハヤブサの前にはやられてしまうと云うことがちょっと不思議にさえ思う。ここから更に大山寺へ行き、南光河原を渡り、阿彌陀堂の前に出、暫くコガラ等を聴き蓮浄院と云う、志賀直哉が小説「暗夜行路」の稿を練ったと云われている家に入り小憩する。そこで直哉がその小説を書いた頃、若く美しかって、彼とのロマンスさえ噂されている上品なお婆さんにお目にかかって、直哉氏が車一杯の本を人力車に積んでこの家にやってきて長く留まって想を練った話等を聞く。明日、山菜料理を食べに来る事を約して、そこを出、大山橋を渡り少し行った、日立の寮でアオバトを見せてもらう。この鳥の鳴声が赤子の声に似てるので山でこの声を聞くと気味が悪くなったりするのですが、姿は全く逆で、のどかに明るく上品な美しさでこの鳥がまだ若鳥だったせいもあって、日本画の中から脱け出して来たような感じです。目は赤く、腹の部分は白地に鶯色の縦縞が通っています。此の鳥は先程の茶屋のガラスを割って飛込み、怪我をしていたのを貰い受けたのだそうですが、世話をして下さっている女の方の熱意で今はすっかり回復していて、この方の手から差出される丸められた餌(餌にドングリを混ぜて指で玉にしたもの)を呑込んでは又お代りを求めていました。野鳥では稀有な位に良く馴れていてすっかり愛情を理解している感じです。杉谷先生がその女の方にドングリの代りに黒豆を混ぜる方がさらに良いだろうと話されてアオバトと別れる。
 ひとまず、中の原ロッジに引き上げ昼食をとる。二時間程休んで四時頃から午後の探鳥に出かける。今度はロッジの前の小高い中の原を登り、森に入りすぐクロツグミを聴く。オオヨシキリとイカルとキビタキを拾い込んでいて、一寸聞いたのでは他の鳥と間違えそうである。森の中の道を辿る途中、この杉の林の漏日の中で、雄のオオルリの美麗なのを近々観察する事ができる。更に歩いて、南光河原を遡ったところにある、二股へ出て、大山の北壁を仰ぎ、戻って大神山神社奥宮で、他のグループと歓談する。この境内の杉の高い梢に雄のオオルリの高らかな囀を聞き、近くに雌もいたので巣の近い感じがして探るが発見出来ず。
 ここを北に下って小川のセセラギの聞える石垣でミソサザイの華やかな囀りを聞き、すぐ近くの社務所で四十雀の営巣しているのを見つける。鴨居の裏で雛がジージー鳴いている。附近にはキビタキも多いが、社務所の方の話では毎年数組がこの辺りで営巣するそうです。道を更に下り途中で左に折れて少し登り、金門と云ってこの下手にある大山寺が洪水の時流されるのを防ぐ為、川筋を変えるべく堰止める時に出来た、高い崖の様な土手へ行く。随分昔に行われたのだろう。我々が通って来た道は、樹々の枝でアーケードが出来ていて、川筋だった感じは全くない。しかしその路が上流から来る杜鵑の通路になっていて、綱で取れると杉谷先生が話しておられました。此処から川に平行した道を下り、バスターミナルに出、最初に此処に着いた時歩いた道をロッジへ辿る。七時二十分着。このロッジはスキー客用として建てられたもので、この時には我々だけしか泊まっていない。ロッジで十時床に就く。6月18日、早起鳥の鳴く五時起床。今朝も上天気なのが何よりも嬉しい。梅雨期の中休みにうまく当ったらしい。五時二十分、一行十三名、ロッジを出発。心に今日の無事を祈る。昨日歩いた道を蓮浄院まで行き、そこより右手に阿彌陀堂の甍を見て、登山道にかかる。運動をしてない為か、足は重い感じがして歩き始めたばかりなのに息苦しい。
 ようやくに、二合目に着く。此処で朝食の為に作って頂いた弁当を開く。その時、これを聞くのが一つの期待であった赤ショウビン(一名雨ゴイ鳥)のコロロロ……、コロロロ……と玉を転がすような鳴声が聞える。ラジオ放送で、よく聞いた、あの声だが、実際のを聴くのは好いものである。食後もそこを立って行くのが惜しい気にさえなる。そこからしんどい道を、さらに登って行くと、ゴジュウガラとかエナガの声が降って来るが、鳥の姿は、影が、この葉隠れに、高い梢を走るだけで見ることが出来ない。道々、杉谷先生からお聞きしたところでは、「大山ではヤイロチョウの白ペン黒ペンは聞けない」とのことで、期待のもう一つは裏切られた形になり、残念に思う。
 四、五合目辺りは、かなり疲れて、ふうふう言いながら登る。樹間に三鈷峰やロッジの屋根が見える場所で、時々思い出したように立止って、又動く。女性の方々は私よりずっと先を行っておられる。特に烏賀陽さんは大変健脚で、帰ってから聞いたロッジの方の話では「望遠鏡で見ていたら女の人が頂上附近の道を、一番初めにさっさと歩いていられたので、大変驚いた」とのこと、本当に感心させられました。かく言う私は、亀の散歩の様な歩みで、どうにかこうにか五合目迄は過ぎたものの、これ以上では、リュックをかなぐり降してヒックリ返るように、地面に座って休むと、言った位疲れ、七合目当りの白い標識を過ぎて頂上が近づいた頃、ようやく少し生気が出たようなわけで、恥ずかしいかぎり。
 六合目あたりから、雀類が降るように鳴く、ブナの巨木がそびえる、森が切れて小石のザラつく道にかかる。今迄頭上にあった樹の枝が去って、道の左右に、小灌木が生えている。この中には、天然記念物になっている大山キャラ木が、随分混っている。頂上の方は見ずに、山麓や左手の山々と、地図を対照させて登るうち、八合目近くで、ビービー鳴く鳥が何かとの伊藤・大中両氏の問に「『ホシガラス』です。大変よかったですなあ」と言う杉谷先生の答で、その鳴声に耳を傾ける。あえぎあえぎ頂上を目差せば、九合目当りからやや平坦になり、右手の前方にこの山で数少い天水の溜った池が見える。この池は帰りに通ることにして、更に進む。頂上が真近である。久保・烏賀陽両女性は、ファイト物凄く、御二人自身でさえも「これが自分達の登った跡ね」と来た道を振り返って、驚嘆しきり。九時五十分頃、頂上に着く。此処で各人趣味に従って、写真や、お花を採ったり、地図と周囲を対照したりで、時間を過す。
 天然のマイズル草、その他種々の高山植物が、群落している。まだ早いので霧も余り上って来ず、展望もよくきく。鳥ヶ山は、形が特に面白い。十一時四十分頃より、昼食弁当を拡げ、その後「山頂」と刻んだ石板の前で、記念撮影。眼下の薄黒く汚れた雪渓の上を、イワツバメが、豆つぶのように小さく飛んでいる。また、私達の左右を尾根に沿って、鎌のような翼を持ったアマツバメが過ぎて行く。京都出る時には、こんなに良い天気に恵まれようとは、夢にも思ったなかったので、本当に嬉しい。下界が好天気で相当暖められているらしく、やがて霧の上りが激しくなる。十二時三十分、一同山頂の気を満喫して下りに向う。途中イワカガミが群れ咲く間の道を通って、先程右手に見えていた水場の横に出る。この水溜りの周りは、山頂附近と同じく、大山キャラ木の純林で取巻かれている。一行は先を行かれたが、私と大阪の児玉さんの二人で、この水溜りの近くに望遠鏡を構えて待つことしばし、ビンズイが一羽戻って来る。この近くでは、この水場が唯一のもので、小鳥達の水浴には欠く事の出来ぬものなのだろう。さほど注意することもなく、ビンズイが二、三羽と続く。暑いからなのだろうかホホジロと共に盛んに水浴し始めたので、充分堪能する事が出来る。このビンズイの大きさが、ホホジロと変らぬ位だったのが少し驚きだった。此処は、まだ山頂近くなのに、ハシブトガラスが飛び、ウグイス、ホトトギスの声も谷底の方から聞こえて来る。
 これもこの大山が、大山寺部落から鐘を伏せたように、飛び上がっているトロイデ火山地形の為だろうと思う。夢中で十五分程観察し皆の後を追う。右手の三鈷峰の姿は、剣に似ていて、峻険な感じがする。この大山で遭難したりするのは、年々細っていく尾根を、霧のかかる時縦走したりするからであって、今、私達の下って行く道は決してそう云ったものではない。前には遠く淡く大天橋で呼ばれる弓ヶ浜が見え、天の橋立よりスケールが随分大きいのに感心する。この八合目では、ヒバリが囀り、トンビがカラスを追っている。
 昨日大山神社の境内に咲いていた、大山黄スミレも至る所見ることが出来る。足はこの辺のガレた小石の上に乗ると、ガクガクとなる。しかしそこも下りでは、すぐ過ぎてしまい、ブナ林に入る。ここではゴジュウカラが登りの時と違ってかなり明瞭に、鳴いている。しかし雀類は五十、四十、ヒ、コガラ等の地鳴きは、よほど年期が入らぬと区別しにくいように思う。しばらくで霧の中に入る。途中休み休み下る。黒ツグミが声は悪いが巧みに、キビタキ、オオルリ、イカルの声を拾い込んで鳴いているのを聞く。ジュウイチも時々聞こえるようだし、キビタキも大変数が多い。四合目辺りできれいな声のカッコウを聞くが、霧の淡いベールに包まれてやゝ薄暗くなった樹林は小鳥の声も登りよりもうんと少い様である。四合目近くで、サシバの一声を運良く聞く事が出来る。さらに足の笑うのを踏みこたえながら下る。ヤブサメ、カラ類も時々鳴いている。しかし、久保さんはこのあたり三合目では本当にお疲れの様子である。やがて阿彌陀堂の甍が見える。思わずほっとする。皆も同感らしい。蓮浄院はもう近いが、そこに行く前にちょっと姫シャガのある場所に案内される。そこが近くこわされるとの事惜しいので持ち帰るため、かなり採取する。今朝通った道を宿坊に辿る。そこでは昨日注文した山菜料理が待っていた。一風呂浴びて、一行十三人食膳に着く。山菜料理は材料を選んだものらしく、さすがにおいしい。一寸あげてみると、ゴマ豆腐や蕗のトウの味噌あえ、ハジカミ付豆腐と山イモの混ぜて焼いたやきもの、ウドの粕漬にキャラ木を添え、しそとウドのあえもの、コウタケ等々で皆さん蘊蓄を傾けたお話で食膳に花咲かせ、大変楽しく頂く。杉谷氏は御老齢にもかかわらずかくしゃくたるもので頂上にまで案内して戴く。一同が宿坊でくつろいでいる間にちょっと出掛けられ持って来られた昨日のホトトギスのヒナは余程衰弱しているのか静かにしているが、顔付きは精悍である。元気を付けるためにドヂョウを与えるべくつれて帰られるそうで、食後そこを出て杉谷さんをバスまでお送りする。それから三回目の青バト訪問をする。今日から餌を黒豆にしたら大変喜んで食べ、急に元気が出た様で、赤子の様にアオーアオーと鳴き出して驚かされた等と昨日の女の方が表情豊かに話して呉れました。事実、鳩は大変元気そうで、小屋の戸を開けると昨日とは打って変って動きが多く、餌に飛んで来る。ロッジへの帰り道、二人の女性は大山登山で大いに気を良くし御満悦の様子は我々の心までが浮き浮きしてくる位楽しそうです。ロッジで明日の予定を検討して各自寝床に引きあげる。山菜料理の油っこい味が残って、大変美味しかった事が思い出される。風が強いので雨だろうと思いつつ眠る。
 六月十九日六時十分起床。今日は八時三十一分の汽車で鳥取に向う為に大山寺七時五十三分発バスで発つことになっている。大中さんは随分と早起きされて、豪円山に登られ、帰って来られた頃私と顔を合わせる。六時半キッカリ朝食、今朝も好天気で梅雨であることが嘘みたいである。見送りを受けてロッヂを出発。アオバトに四回目最後の別れを告げて停留所に行く。この附近では一昨日我々が着いた時迎えてくれたと同じ様にキビタキが又送ってくれる。バスの中で昨日の事を思い出してみた時も、烏賀陽さん、久保さんの健脚は立派なもので烏賀陽さんは毎日二時間ぐらい散歩されるそうですが、それが健康の秘訣でもあるんだなと思える。この後、鳥取砂丘を巡って帰ったのですが、紙面の都合で割愛させて戴き、紙面最後になりましたがあ、この二日間は本当にお世話になり、最後の日にも駅までわざわざお見送り戴いた。杉谷先生にここで改めて心から厚く御礼申上げてこの文を終ります。(清水克也記)
  七月例会(滋賀県瀬田町の鷺山観察)
 かねて会員中井氏(膳所高校教諭)から瀬田唐橋の近くに白鷺のコロニーがあることを承り、本年のシーズンには是非共御案内を頂きたいと願っていたところ、梅雨明けの七月五日の雨あがりに現地に案内して頂いた。
 思った以上の素晴らしいコロニーで繁殖期は稍々後期に入りかけた状態なので早急に七月十五日(日)に観察会を催すことにした。
 当日は快晴で暑いこと。午后二時に三条京阪前集合、生態写真の大家高田氏がいつもの大きい重そうな、米軍のバヅーカ砲と間違えられそうな望遠レンズ付きカメラ御持参で雄姿をみせて下さる。伏原氏は令嬢「のじ子ちゃん」を連れての良きパパぶり、鷺の生態写真を狙う名カメラマン高橋氏、佐藤氏とそれに加えて小生と互いに望遠レンズ携行で張り切っている。太田夫妻と坊や達がいつも例会を賑やかにして下さる。入江、堂本、奥田、大西の四氏の御常連の顔も見える。新聞で会の催しを見たので是非同行を、と石塚、福田両氏の飛び入りがあり一同揃って出発。途上瀬田唐橋畔で先着の山田氏が吾々を待って居られ総員十五名となる。
 京阪唐橋駅から瀬田川を渡って徒歩一キロほど瀬田川の東岸、石山寺を真向に西に見上げる辺りを東に田圃道を入るとすぐ右手の小高い森。小山の樹上が鷺で真白に見える。
 一行が山手に入ると鷺たちが一斉に“ギャア、ギャア、グワッ、グワッ”と騒ぎだして私達の頭上から白い糞をぽたぽたと振りかける。また折角雛のために獲ってきたばかりの「アメリカザリガニ」を吐き出しては下に落とす。一行はビニールを頭にかむったり、日傘をさしたりして頭上からの攻撃を防ぐに一苦労。やっと高台に辿りつくと眼前は、いや頭の上も、いづれも鷺の巣ばかり。まだ卵のもの、孵化したての巣もあれば、もう巣立ち真近い雛がよたよたとしている姿も見られる。
 種類は「チュウサギ」「アマサギ」「コサギ」「ゴイサギ」の四種が確認されたが、チュウサギの中には巣立ちした幼鳥が混じっていて嘴の色も黄色あり、黒色ありで「チュウダイサギ」は判別出来なかった。
 営巣場所は狭い地域内でも夫々に各種毎に独立した集団で作られている。特に「コサギ」と「アマサギ」は顕著なように見受けられる。「ゴイサギ」は「チュウサギ」と同じ所で仲良く営巣しているのが多い。
 案外に私達を恐れないので観察するには好都合である。
 早速に望遠レンズの砲列。あちこちで盛んにシャッターが切られる。あまり近くに平然としているので望遠レンズの必要なしと普通カメラでもパチパチと撮っている人もある。
 附近の地上には半消化されて赤くなったザリガニがたくさん落ちている。巣立ち前に巣から落ちた雛が可哀想に死んでいるのが方々に見られる。
 聞くところによると、以前は古く現地より東北部の建部神社裏の森に棲んでいたのが近年来、住宅建設で森が切り拓かれたので現地に移ってきたとのことである。
 どこで聞いてもサギは稲田を荒す害鳥だと百姓さんから嫌らわれているが、現地で見られるように鷺たちの主食は全部と云ってよい位にザリガニを採餌していることが余り知られていないことが何より残念である。
 こんな近くに美しい自然のコロニーが観られることは今後共に保護して教育上にも保存したいものである。
 炎天下。汗をたらしての熱心な観察。やっと六時前に観察会は終了閉会して、後日各人が自由に観察にくることを約して帰路についた。
参加者 高橋真一・高田俊雄・奥田せつ子・佐藤磐根・石塚忠三・福田保夫・大西ひろ・山田一詩・入江英一・堂本直正・太田政之・太田尚子・伏原のじ子・伏原春男・橋本英一。(橋本記)
  九月例会
 九月二二日(土)嵯峨野の虫を聴く会
 京福電鉄と共催、一般市民の参加者約50名。
参加者 伏原春男・伏原のじ子・佐藤磐根・橋本英一・伊藤正美・入江英一夫妻・市川延繁夫妻・吉田起美子夫妻・黒地三平・奥田せつ子・久保のぶ・大西ひろ・高田俊雄・佐川孝子・遠藤幸子
 清涼寺前でバスを下りて二尊院まで一キロばかりを三々五々つれだってあるく。リュー、リューとふるえるアオマツムシの声しきり。中支原産、明治40年頃東京、横浜に出現の外来者ながら、日本での採集品で日本人(松村松年、昭和六年)の手で学名を与えて学会に登録された虫だから、もう今では日本の虫といってもよかろう。路傍の草原になくエンマ、ツヅレサセ、オカメ、ミツカドのコオロギの仲間をききわけながら二尊院につく。ここの境内で二、三年前まではスズムシが聞かれたが、昨年から絶えてしまった。人工ふ化の虫を放っても成虫になるまでに大抵消されてしまって功を奏しないが、秋の最中、お腹の大きい産卵間近い雌虫を境内の草むらに数十匹放したら、翌年それから出た虫がうまく自然にかえってすみつく見込みがないでもない。鳥の世界ばかりでなく虫の世界にもそれ位の保護の必要があるのだが、さて実行となると一寸物好きでないと出来ない。
 今宵は参加者が多いのでそれぞれの指導者のもとに数班にわかれて、二尊院から落柿舎の方面へそぞろあるきをする。この小径のかたわらにはクツワムシの外、マツムシが多い。チンチロリンと形容されるがチンチロと短く切ってリンはなかないとゆうのが本当である。これを鈴の音になぞらえてスズムシとし、他方ジーン、ジーンとなくのを松風の音ときいてマツムシとよんだ平安朝の人のセンスに敬意を表する。ここの草原や垣根のしげみにはオバホタルの幼虫が沢山光っている。毎年の話題になるものだが案外知られていない動物である。北隆館の『幼虫図鑑』にもホタルはゲンジとヘイケの水生幼虫だけで、この陸生幼虫はもれているためかも知れない。オバボタルの幼虫はよく光るが成虫は微光で、しかも花に群がる昼行性の昆虫である。晩秋には落葉や土中にもぐって、翌春さなぎになる。
 とあるまがきの中にタイワンカンタンのルル・・・と断続する声をきいた。この南国者は京都附近が北限で、中部以北にはルーーと続けるただのカンタンのみである。京都附近には両方いるがタイワンの方が多いようである。
 野々宮の竹やぶ道は、ウマオイムシやツユムシなどキリギリス科の虫の多い所であるが、夏の盛り、立秋の頃からしきりになきはじめるこれらの虫にはもう一寸季節がおそいようであった。九時京福嵐山駅につき、四条大宮で解散。(佐藤磐根 記)
  十月例会報告
 洛南鷲峰山探鳥ハイキング 十月二十一日。
 予定された十四日は相肉と前夜来の雨で集合地三条京阪に集まったのは僅かに伊藤、大谷、橋本の三名。協議の上、次週に延期する。
 二十一日当日は先週と打って代っての快晴。早くも遠藤嬢がお父さん同伴で来られ、相変わらず可愛いい「のじ子チャン」もお父さんと一緒に大きな植物採集の胴らんを提げて参加、佐川、大谷の両氏の顔も揃う。京阪電車で宇治に向う途上、車中で上田、越賀の両氏が乗りこんで来られる。今日の案内役の内田君も途中から乗車。日曜日の混雑でゴッタ返す宇治駅前で大中、大西、井上の三氏と合流して満員バスに詰めこまれて宇治川の清流に沿って岩山に向う。内田君の知友が地元に居られるので、荒木で下車。地元の森田、吉岡の両氏に紹介され今日一日の御案内をお願いする。宇治茶の本場のこととて一同お茶を頂き、身支度を整え大道寺コースから登る。紅葉に少し早い洛南の山はまだ松茸山の縄張りがあり、うっかり入ると松茸泥棒と間違えられることがある。
 探鳥会でありながら案外に小鳥達は少い。メジロ、ヤマガラ、カケス、ウグイス、コゲラ、アオゲラ、程度の姿しか見られない。路傍の山草採集組は忙しい、可愛いい花をつけたセンブリを見つけて早速になめて苦い味を実験したり、リンドウの花を見つけて喜こび、アケビの実を探し当てて大騒ぎ、今日は植物採集会といった方が正しい位いで伏原顧問さんは一つ一つの皆んなからの質問に植物名を教えるのに忙しいほどである。
 中腹の見晴小屋からは西に生駒山を眺め、南に奈良盆地が開け、木津川の流れが白く光って蛇行して美しい。北は琵琶湖が望まれて眺めは素晴らしい。正午すぎ金胎寺に着き昼食をとる。帰路はコースを変えて湯屋谷コースを下山する。近道をしたつもりが途中で杉の伐採地にぶつかり道をふさがれて倒れた大きな杉の上を乗り越えての難行軍、やっと湯屋谷部落に到着。脚も相当に疲れている。さてバスに乗ろうとすると相肉と定期バスは発車後で頼みの乗物はなく、思い足をひきずって約四キロほど歩いてやっと岩山に辿りつき待望のバスに乗車、京阪宇治駅まで。今日一日のコースは延べ二○キロは軽く歩いている。落伍者もなく元気に解散。
参加者 大中啓助・遠藤辰夫・遠藤幸子・上田雅彦・大谷一文・内田勇・佐川孝子・井上厚子・大西ひろ・伏原春男・伏原のじ子・伊藤正美・橋本英一・越賀一郎・(宇治田原町より)森田源正・吉岡玄作。(橋本英一記)
  十一月例会
日 時 十一月十八日(日)
場 所 伊吹山麓 三島池にがん、かもをたずねて
出席者 佐藤磐根・久保のぶ・和知孝行・浜畷慎吾・浜畷弘子・太田政之・太田尚子・高田俊雄・橋本英一・大谷一文・中井一郎・水田国康・武内勲・奥田せつ子・遠藤幸子・中井章・上田雅彦・大中啓助。
 口分田先生より、今年はひしくいがんも約五十羽ほど定着している、併せて、十一月はじめより、NHKテレビ朝の天候予報の背景に、三島池が出て居るとのお便り接し、雁鴨類の状態をテレビにて日々見ながら楽しみにして居た。当日午前十時三十分東海道線近江長岡駅に下車。暖房のきいていた列車より外に出るとさすがに伊吹山下しが身がしまり、空気清澄にして一きょにして都会の塵埃もふっ飛んでしまう。来る毎に、店も美しい装いをこらし町の様子も変って来ている。途中、町の北西部に建設中の、東海道新幹線の台地造りの工事のため、小山が大きくえぐり採られダンプカーの往来も多い。少し曇り気味で伊吹山頂は雲におおわれ、三島池への路を逸やる心をおさえつつ急ぐ。池の並木も見えだして来て、もう一息と歩ゆみながら話して居ると、急に中空が黒く感じられた。振り仰ぐと大形の鳥が、一群と、それにつづきひと群れ……ふた群れと、「あゝ、ひしくいがん」が、その剄い羽ばたき、他を圧する壮観さ。約四五十羽ほど数えられ、鍵になり竿となり雁行そのまゝ、しばしたゝずむほどに、北の山の端へ去って行った。橋本会長が、先発隊の人達の動作に驚き飛び立ったのに違いない、と言われた。池に到着すると、中心部にまがも三四十羽、山東中学寄りの芦の茂みに、まがも、こがも二十羽。浮寝をきめて居る間を、かいつぶりがせわしく泳ぐ、まこと水鳥の楽園である。矢張り雁は一羽も居ないが、池の周りの紅葉、桜の紅葉草紅葉が美しく彩り水に影をおとして居る。山東中学の玄関まで行くと、口分田先生のお迎えを受け、他所ものが来ると、姿でわかるのか、写真をとるとか観察するときには、池の周りを三回ほど廻り、鳥の目をならしてからでないと今日の様に飛立つと注意された。おそらくひしくいは明朝まで戻って来ないと申添えられる。学校の作法室で一同昼食をとる。今日は新しい方も多数見受けられ自己紹介をする。提案があり、帰りに醒ヶ井養鱒場へ廻る組と、三島池に残るものと、二班に分れることとし一応食後自由行動とする。いつのまにか窓に日が射し、打って変はって青空も見え出して来たので、積る話をのこしながら学校をあとにする。伊吹山もすっかり晴上り、野面の枯芒が白々となびき、池の面も暖かい日射しに浮寝をきめて居る鴨のむれ、こさぎにまじりちゅうさぎが一羽、さゞなみが美しい波紋をゑがきながら、それらをつゝんで行く。(大中啓助記)


◎京都府狩猟監視員の任命
 本年度から左記七氏に京都府知事より狩猟監視員の委嘱がありました。
 橋本英一氏、佐藤磐根氏、伏原春男氏、高田俊雄氏、大中啓助氏、伊藤正美氏、久保忠雄氏

◎お知らせ
 別記川村名誉会長から多額の御寄附を受けましたので、本会の備附として「トランジスターテープレコーダー」一基を購入いたしました。電池式で軽くて操作も楽です。ショルダー型ですから簡単に持参できます。
 会の行事以外に個人で各地に探鳥などの折は御遠慮なく御使用下さって珍しい鳥声を採録していただきたいと存じます。

◎左記の各地支部より機関誌を頂いています。誌上より厚くお礼申し上げます。
    記
 日本野鳥の会東京支部報(毎月)
 日本野鳥の会大阪支部報
 美作の自然(美作博物同好会)第八号
 羽根(日本青少年野鳥クラブ)第七号
 禁断の実 第一号(上田雅彦編)
 私たちの自然(日本鳥類保護連盟)

 昭和三十七年度日本鳥類保護連盟より左記会員が野生鳥獣保護功労者として表彰されました。
 褒状 滋賀県立膳所高校生物班。谷元峰男氏
   (滋賀県下に於ける越冬燕の保護並に調査)

◎本会助成のため、左記御寄附がありましたので有難く頂戴いたしました。
   記
 金壱千円    山本徳太郎 殿
 金壱千円    南  孝二 殿

編 集 後 記   

 会誌「三光鳥」も愈々第十号を発行いたしました。創刊以来十ヶ年。その歩みを省りみますと創刊誌の編集は安達氏で十二頁の機関誌で産ぶ声を上げたのです。爾来回を重ねる毎に増頁、増刷となり内容も逐次充実して、今では何処に出しても決して恥ずかしくない立派な機関誌となりました。これも偏に会員諸兄姉の絶大な御援助と嬉こんでいます。
 本号は口絵に川村名誉会長の御作品の水彩画「巨椋池の夏鳥」を始め、「三光鳥」ならではの生態写真は今回も委員高田俊雄氏から見事な写真を頂戴いたしました。
 御承知とは存じますが本誌創刊以来「三光鳥」を飾る幾多の生態写真は撮影は勿論、全部数に添付する焼増まで高田氏個人で負担して本誌に寄贈されているものです。第十号発行に当り過去十年間の御支援を厚く紙上をかり御礼申上げます。
 さて野鳥の会の機関紙として「野鳥の観察記録などが少い」との御意見も拝聴していますが、余り専門的になっても固苦しく感じられ、「三光鳥」は今のままの形で進んで行き、専門的なものを要求するには一歩前進して日本野鳥の会に入会する段階まで追々と大人になって行くと云った方針。創刊誌の編集後記に「誰もが身近に感じていることを、ふと筆にとめてみたい……それが歌になり、放談となり、また考証となって一つの小さな舞台を中心に肩のこらないささやかなる集いを持つことが出来たら……これが創刊の目的である」と記されています。
 秋の渡りのシーズンは近年にない密猟取締を周山、下鴨の両警察署が行いツグミのかすみ網猟などを検挙して世人の注視を集めたことは何より心嬉しいニュースでした。
 街にジングルベルが聴ける頃となり、つたない編集を終ります。(橋本記)


第10号 ここまで

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