口絵写真 早春のヒバリ 高田俊雄撮影 エキザクターバレックスUA ビオメーター80p (遠隔装置にて撮影) |
富士山麓には沢山の野鳥が棲んで居るのを知り明治30年頃、横浜在住のアランオーストンと言ふ英国の生物研究に熱心な貿易商が採集に来て集めた標本が今なお英国の博物館に保存されて居ると聞きます。
其の頃より父はオーストンの指導を受け山麓地方はもとより遠く小笠原列島から海南島方面まで採集に同行した事もありました。
日本で鳥類の調査を実施したのは其の後だいぶ年月が経ってからで父が農林省の嘱託で鳥獣の調査を依頼されたのは明治末期の頃と思います。こんな訳で年少の時分から父と共に猟銃を持って山野を連れ歩かされた想出もあります。其れと言ふのも父より命中率が良く自慢の一つでも有りました。
其の当時から農林省関係の人々や黒田長礼氏、内田清之助氏、川村多実二先生、先代小林桂助氏なども探鳥に見えられ研究されて居りました。
昭和を迎え清棲幸保氏夫妻、橋本英一氏、山階芳麿氏夫妻、下村兼史氏、塚本閤治氏、中西悟堂先生、放送及び映画関係、画家、歌人、俳人等、名士の訪づれが増すにつれ野鳥の生棲地で益々有名になりました。
大正10年農林省が、カワガラス、トラツグミ。サンコウチョウ等の実物大生態模型の作製を京都島津標本部に注文されたので現地での調査や原型造りに社員が永い間出張されて居たので其の仕事に興味を持ち其の上京都にもあこがれて居たので島津製作所に務める事になり、その余暇に剥製の技術も修得しました。
そのころから伏原春春男先生とも懇意にさせて頂いて居ります。それから間もなく同社にて写真に関する商品が多く製作される事となりレントゲン装置を始め分光器。顕微鏡写真教材用写真等の業務に携はり退社後も専属として昨年四月まで続けて居りました。
こんな訳けで皆様とは浅からぬ御附き合い、そして京都野鳥の会支部創立以来、比叡山を初め京都、大阪周辺、軽井沢、山口県地方への探鳥。大台ヶ原行きの折は、カメラなどの持ちすぎで同行の会友に御世話になった事。貴船の忘年会。枚方鴨池の新年宴会。嵯峨野に 嵯峨野に虫を聞く会、など良い想出となりました。
離京に際しては送別会までして下され其の上皆様の心からなる記念品や感謝状等頂戴致し何一つこれと言ふ事もなし得ず恥じゐる次第です。帰郷後も持って生まれた鳥好きのため少々薮か木立のある場所を捜して居りました処、丁度幼い頃には見事な林で其の中に特に大きなモミの木が二・三本もあり三・四人で手をつないで太さを計った想い出や、春ともなれば桜や藤の花も咲き野鳥の良い住家でもありましたが戦時中大きなモミも造船の資材として伐採され今はその面影もなく切り残されたケヤキ六・七本と僅かのモミ、ヒノキなどで周囲も狭くなりましたが昨年五月中旬にはモズ、六月上旬にサンショウクイ続いてキジバトも営巣しました。
伊藤正美氏から頂いたミルオームもだいぶ繁殖したのでこの林を訪れる小鳥たちの良い飼料となりその数も段々と増してきました。
今春からは野鳥の声はテープに姿は写真にと今から楽しみにして居ります。(高田俊雄記)
T
七面鳥を新大陸から欧州へ最初に輸入したのが、誰であったかについては正確な記録がない。フランスではシャボー提督と称し、ポルトガルでは喜望峰をめぐって印度航路を開いた航海者バスコ・ダ・ガマにその名誉を与え、スペインではペルド・ニノという男の名をあげている。いずれにしても、それが1500年から1525年の頃の出来事であったことは、たしからしい。その后、100年位の間に、七面鳥は欧州からアジア大陸にも可成拡がったとはいうものの、依然珍鳥であったらしい。当時の七面鳥の記録としては、インドの王家に権威あるものが最近知られた。すなわちジャハンギール皇帝の1612年の次の手記である。『家臣ムガーラ・カーン、ゴアの港より、珍しき品を持ち帰る。中に奇妙なる鳥数羽あり。その体、雌クジャクより大、雄クジャクよりはやや小。画家ウスタド・マンスウルをして画かしむ。』この絵が現存している。聖帝の博物趣味が、はからずしも旧大陸に渡って間もない頃の七面鳥の姿を後世に伝えるよすがとなったのであった。その絵によれば、尾羽根の縁が白いことから、メキシコ七面鳥であったことが明らかである。旧大陸へ最初にもたらされたのは、現在の北米の野生七面鳥ではなくして、メキシコ高原にすむアズテク・インデアンによってその地のものが飼いならされていたのが、新大陸発見后、間もなく欧州へもたらされたのであった。
U
旧大陸に紹介されて間もない頃の七面鳥は、その地では食品としてはあまり歓迎されなかったらしい。1556年にイタリーのベニスの市長が七面鳥を食べることを禁止した古記録が残っている。しかしはからずしも、イギリスのエピスコパル教会が、七面鳥を教会の公式の献立に採用した。1541年の教会の古記録に、教会内の僧正の階級に応じて食卓の料理の内容が規定されている。その中に『大形の魚または鳥類たとえば、ツル crane ハクチョウ swan 七面鳥、タラ haddock カマス pike コイ tench は一皿に一匹(羽)たるべきこと。ニワトリ、キジ、ウサギ、ヤマシギは一皿二匹ずつ。ライチョウなど、さらに小形の鳥は大僧正卓には三羽宛、僧正及びそれ以下の階級のものには二羽宛』とある。今日の私らは、当時の教会でツル、ハクチョウなどが食用として供せられていたことを奇異に感じるが、とも角、これらの貴重な大形食用鳥の列に、新参の七面鳥も正式料理用として加えられていたことに注意すべきであろう。それ以后、イギリスでは七面鳥の飼育改良が盛んに行われ、七面鳥の肉はクリスマス料理の中心的存在となり、この風習が明治・大正の間に日本へ伝えられ、日本でも七面鳥とクリスマスの因果関係が生じたのである。
V
1620年の秋。メイ・フラワー号の大西洋横断は難航海であった。最初スピードウエル号と同航する筈であったが、スピードウエル号の水もれがひどく、一旦英本国にひきかえして修理を試みたが、この老朽船の修理ははかどらず、メイ・フラワー号はついに単独で出航しなければならない羽目になった。同船のめざす目的地はバージニアであった。しかし11月のある夜の大嵐で船は北へ北へと吹き上げられてしまい、ついにコッド岬沖をまわって今のマサツセッツ州のプリマウスについたときには、もう冬支度の暇もなく厳冬期に入っていた。上陸した102人の清教徒らは生きるために途方にくれた。僚船をたよりにして、一ヶ月以上もおくれたこと、目的地よりもはるかに北に住みつかなければならなかったことが、目算ちがいの原因であった。住いの不備と食料の不足が傷手となって、その冬を越す間に102人の上陸者の半数は病死してしまい、生き残ったものも、大抵病人で健全な者は7・8名しか居なかった。18人の女性中、14人までが死んだのは悲惨であった。
しかし、新天地の希望の夢空しく悩めるこれらの清教徒らに対して、その地の原住民インデアンはきわめて友好的であった。彼らは清教徒に、この地で生きるためには、この地の恵みにしたがわなければならぬことを身をもって示した。彼らは清教徒が英国からたずさえてきた種子よりもこの土地によくあった植物を栽培することをすすめて、トウモロコシやカボチャの種子を与え、その栽培法を教えてくれた。クランベリーとゆう木イチゴの美味しいことも教えてくれた。また貴重な食肉として附近にいる大きな馬鹿鳥(野生七面鳥)を捕る方法を示してくれた。このようなインデアンの友情によって、次の年の秋までには十分の収穫が得られ、来るべき冬には食料の不安も、壊血病のおそれもなくなった。そこで清教徒らはインデアンを招いて主客とし、収穫感謝の宴を開いた。こうして、彼らはこの新天地で生きてゆくことができる確信を得、新しい国家建設のいしずえとなった。この収穫感謝祭 Thanksgiving Day を国の祭日(11月の第4木曜日)ときめたのは、リンカン大統領であった。こんなわけで感謝祭はただ、農業の収穫感謝ばかりでなく、アメリカ建国の歴史の第一頁を記念する祭日ともなり、その日の料理の中心は七面鳥で、それにトウモロコシ・カボチャ・クランベリーなど、かつてインデアンが清教徒に教えた新大陸の山の幸が用いられるしきたりになった。こうして感謝祭の七面鳥は、私らの正月の餅のように、アメリカ国民の強い関心事となった。クリスマスはどんな御馳走ででも祝えるが、感謝祭に七面鳥がなくては祝えない……これがアメリカ国民の七面鳥に対する国民的感情である。したがって七面鳥は歳時記的にいって、イギリスでは12月のものであるが、アメリカでは11月のものなのである。
W
イギリスから離れて独立国となった若い日のアメリカで、国のシンボルをきめることになった。その時、候補に上ったのは、当時まだアメリカの至る所にその姿を見せていた白頭ワシであった。古くから欧州で権力の象徴として王家の紋章などに好んで使われてきたワシが、この新興国家でも、国の象徴として取り上げられたのは当然のことであったかも知れない。しかしこれに真向から反対したのは、ベンジャミン、フランクリンであった。枯葉独立宣言書にも署名した。独立当時の政界の大立者であったのみならず、すぐれた科学者でもあった。雷が空中電気であることを、凧をあげて実証した逸話は人の知る所である。彼が白頭ワシに反対の理由として、この鳥は水辺に死んだ魚などをあさる性いやしい鳥であるのみならず、その上、他の水鳥がとった魚を空中でおそいかかって横領する悪徳者であることを強調した。それに代るものとしてフランクリンは当時東部の至る所の山野にみられた野生七面鳥こそ、メイ・フラワー号の清教徒以来の知己であり、国鳥としてふさわしいものであるとして推選した。しかし、数多くの金言を残した、このもっともアメリカ的な偉人の言は採用されなかった。
それから200年を経た今日、アメリカの白頭ワシは減少の一途をたどり、現状のままでは1980年頃には絶滅するであろうとの不吉な予言をする科学者もでて、アメリカ国民を心配させている。地方落選の野生七面鳥の方は、保護の実績が上り、一度は姿を消していた州にも再び姿をあらわすようになったり、州によっては狩猟鳥に加えられるようにもなった位、回復したのはうれしいことである。しかし現在の野生七面鳥は、メイ・フラワー号の清教徒の手に容易にとらえられたようなのんきな鳥ではなく、警戒心が強くて、容易にその姿を人にみせることはない鳥にかわっている。
X
最后に、この生酔のアメリカの鳥がターキー(トルコ)とよばれる理由について。これには三説がある。その一はこの鳥のシグナル・コールが turk turk turk……であるとしてタークと鳴く鳥すなわちターキーと名付けられたとゆう説。これは T.G.Pearson:Biras of America のような権威ある書にとりあげられた説で、日本にもよく紹介されている。しかし七面鳥の鳴声は turr ではなくして leow keow …であることから、この説は弱い。第二にアメリカ・インデアンのこの鳥の名 furkee 又は firkee に起因するとの説。これは一寸もっともらしく思われるが、アメリカ・インデアンはこの鳥を狩猟するけれども飼育することなく、飼育七面鳥のターキーとゆう名称との間には、文化的なつながりを求めることができないとゆう有力な反ばくがある。ターキーの名は実は次にのべるように欧州で生じた名前なのである。すなわち第三説。七面鳥が欧州へもたらされる以前に、ホロホロ鳥が欧州に拡がっていた。西アフリカ原産のこの鳥は、原産地から直接欧州へ入ったのではなく、トルコ附近で飼育されたものが欧州へ移入されたのであった。それでホロホロ鳥はトルコ産の鳥と思われていた。ところで新入りの七面鳥も、ホロホロ鳥と混同されてトルコ産の鳥と思われ、turkey-henn turkey-cock とよばれ、のちに turkey になったとゆう説これが真説と思われる。このことは同じくキジ科に属する両者に対する、リンネの命名を見れば納得がゆくであろう。すなわち
ホロホロ鳥 Numida meleagris Linn.
七面鳥 Meleagiris galopavo Linn
死してホロホロ鳥に化したとゆうギリシャ神話中の女神 Meleager の名がこの両者に、一方は種名として、他方は属名として共通に使われていることから、上の推論はたしかな根拠をもっている。スエーデンの碩学リンネも七面鳥の真の産地は知らなかったらしい。
金剛・生駒国定公園の略中央部、葛城山の北側に位置する、雄岳、雌岳の二峰からなる標高540米の二上山は、火山噴出物の堆積と、その幼年期の独特な浸食作用から奇型ドンズル(屯鶴)峰を有し、この奇観から地名の知られるところであるが、これの東側山ろく、詳しくは、奈良県葛城郡香芝町であるが、民家の屋根頂点に点々として変った鳩型の飾り瓦が見受けられ、訪れる人々の好奇心を呼んでいる。
小説を乱読して目を悪くした、イタズラ小僧に空気銃でももたしたら“ソレ、山鳩”とばかりに、いまにも目標にでもされそうなこの鳩瓦。
私は別に考古学を学ぼうとか、地史を知ろうとしたわけではないが、とにかく相手が鳥である以上放っておく気になれず、このいわれを知りたくなったものである。
早速写真を一枚、そして村の古老二三人をたずねてみたが、残念ながらこれと言って何も知ることが出来なかった。そこで今度は手を変えて土地の地史を研究すると言う、さる高校の教員の方に照会を出してみたがこれも失敗。斯うなると途中で止めるのが意地でも出来なくなる性分から、更に町役場に照会、やっとかわら業者、或いは土地の物識りの方をたずねてもらい左記の調査結果がまとまったので茶ばなしの種にでもなれば幸いと此処に披露いたします。
起源を辿ると比較的新らしく、江戸中期から後期にかけて、大和特有の屋根として一番改良された大和棟(やまと・たかへ)の発達と共に、その技術において優れる宮大工と、かわら師が考案によるものらしい。さて、大和地方では神社仏閣の屋根などの補修工事が行われるとき大工さんや手伝の人々の間では鳩鳥帽子というのを冠って施工をしたということが確かな記録としてのこるが、これなど今でもよく一般家庭で行われている丁度階下に神棚を祭るとき、縁起から神棚の上は決して歩かないといった意味で、階下天井に「雲」の字を書いて貼られているのを見かけるが、これと同じ解釈がされるようである。
斯うした裏付けとなる事実と、鳩の育雛のたくみから子孫繁栄の縁起が結び付けられ、棟の頂きにどうやらこの鳩がわらがとり付けられたのではないだろうか。
さてこそ平和な村の象徴であるようだ。
終戦後間もない頃、当時東洋レーヨン滋賀工場のペニシリン部長をして居られた近藤康二さんを部長室にお訪ねしたことがあった。訪問の目的は今では思い出すことも出来ないが、お忙しい所を面会を快諾され、その節、琵琶湖の鳥というプリントをいただいたことだけは事実である。そのプリントは、私の滋賀県の博物というノートの第二冊目に今もなおはりつけられ、現にその御好意を物語っている。
同氏の調査によると琵琶湖には10科48種の鳥がいるそうだが、この先人の残した立派な業績に敬意を表しながらも、そしてその後長い年月が経っているにも拘わらず、一向に不勉強で、真面目な観察を怠り、その目録に何等のプラスが出来なかったのが残念でたまらない。しかしながら、私は私なりに琵琶湖の鳥について、多少の関心はもちつずけた積りであり、学問的にはどうかと思う所もないではないが、今までに見聞したことを書きつらねてみようと思う。
一 ツル
或る日、東京で育った親戚の女の子を、湖西街道のドライブに案内したことがある。白い大きな鳥が飛んでいるのを車中から見掛けて
「あ、ツルが飛んでいる」
と彼女は叫んだ。その飛んでいる鳥は勿論シラサギだったけれども、日本一の湖水に、古来もっとも日本人に親しまれているツルが飛んでいるとしたら、どんなにうるわしい光景となるだろう。たとえ科学的にはうそであるにしても、このようなイメージを呼び起こして呉れた彼女の想像力に、私は何ともいえない感激を覚えたのである。
ささ浪や小松に立て見渡せば
三尾のみ崎に鶴むれて行く
という古歌がある。小松は今の志賀町、三尾のみ崎は今の明神崎、共に湖西の地である。
湖西とは反対の地になるが、万葉集には
磯ヶ崎漕ぎたみ行けば近江の海
八十の湊に田鶴さはに鳴く
という歌があり、田鶴(たず)については色々の解釈もあるようであるが、一般には単にツルと考えられている。
このような古い時代のことはさておき、比較的に近世に作られたと考えられる俳句にも
八講はすぎたしらせか鶴のこえ 楓下
の句があり、昔は決して珍しい鳥ではなかったようである。此の美しい鳥が何時頃から全く姿を消してしまったかは不明であるが、終戦直後、大津公民館のジャニターをしておられた内貴さんのお話では、明治二十何年かに琵琶湖上で鉄砲で打ちとられたツルの肉を、御馳走にあずかったそうであるが、恐らくこのツルあたりが最後のツルではなかったろうか。
前述の近藤さんのお話では、琵琶湖畔にツルが飛来したというので、わざわざ現地に調査に赴かれたが、いよいよ実物に接してみるとツルではなくてアオサギだったそうである。
しかし折角ツルが飛んで来たといって喜んでいる地元の人達に今更サギ(詐欺という洒落のつもりではない)だともいえず、到頭言葉を濁して帰って来たと、つけ加えられた。私もアオサギが湖辺でたゝずずんでいるのを実際に見かけたことがあるが、ツルと見まちがうほど堂々とした鳥に見えるものである。現在ツルの飛来地として知られている鹿児島県阿久根村および山口県八代村のツルの大部分がナベヅルやマナヅルのような灰色がかったツルであって、絵に書いてあるような、また写真でみるようなタンチョウヅルがきわめて稀であるとすれば尚更のこと、素人目にはアオサギがツルと映ずるのも尤もかもしれない。
私が今津に在任中、学校の小使いさんから饗庭野(あいばの)にツルが来ているという話をきき、胸をときめかして、あの広い饗庭野に探索に出かけたことがあった。晴れた午後の日も漸く傾きかけ、探しあぐねて足を家路に向けようとする時だった。北の方二・三百米の彼方に、ふと目を向けると、前部純白、後部漆黒の染め分けも見事な一羽の巨鳥が悠々と飛んでいるではないか。私は感激のあまり、暫らくは息もとまり、その場に釘付けになって、ただ唖然として、その姿に食い入るように目をみはっているだけだった。この鳥こそ当時その渡来地は日本では兵庫県出石町の鶴山唯一つと本に記されているコウノトリだった。この鳥が一体どうしてこんな所に唯一羽紛れ込んで来たのであろうか。あたりには一本の高い立木一本見当らず、草地がゆるやかに起伏する、暮れ行こうとする曠野に唯一人立ちつくして、目に見える現実の姿がどうしても夢としか思えなかった、あの幸福な午後はいつまでも、私には忘れられない思い出となるだろう。
二 コウノトリ
石坂線の石場停留所の近くに、もと魚善として栄えた料理屋があった。今でもその建物はその儘残っているがその庭内に鶴松と称する見上げるような大きな松が生えている。「大津の伝説」という本によると、旧幕時代に膳所藩の二人の士がある日、たまたまこの大木の下を通りかかっていた。彼等は互いに弓の腕前を自慢し合っていたのであるが、話だけでは何時までやってもけりがつかない、よしそれでは実地に腕くらべをしようということになった。ふとその一人が松の木の梢に目をやると、丁度おあつらえ向きとでもいおうか、夫婦のツルがそこで雛を育てていた。そこで此の両人の間にこのツルを的にして同時に此の二羽を射落として勝敗を決する相談がまとまり、早速実行にとりかかったが、一人は首尾よく一羽を射落とし、他の一人は射落とすのに失敗した。失敗した方の士はひどく自分が未熟で至らなかったのを恥じ、家に帰ると自刃して果てたという。そのようにツルが巣ごもりしたところから、鶴松という名が起こったのであろうが、一体この木に伝説のとおりツルが飛来したのであろうか。
私の子供の頃には正月になると日の丸の旗のように赤い朝日を背景に、松の梢にツルがとまっている掛物をよく見掛けたものである。今はさすがにこんな非科学的な画は余り見掛けなくなったが、子供の私の目にはひどく美しい絵のように映り、何時かはこんな見事な光景をまのあたりに接して見度いものだと思ったものである。大きくなってから其の道の専門家から、こんな絵は大うそで、渉禽類に属するツルは沼沢地に住み、ツルの蕃殖地である北海道釧路地方では、営巣、産卵、抱卵等も皆その沼沢地で行い、決して高い木の上などでは巣ごもりなどなしないことを知った。また植物の分布上からいっても、北海道には高い松の木なんかある筈はない。
このような絵の主はタンチョウツルではなくて、コウノトリを画いたものであることは明らかであるし、伝説の鶴松のツルもまたコウノトリに間違いない。
いずれにしても琵琶湖畔にコウノトリがやって来た「古きよき日本」がなつかしい。
ツルは千年といって、お芽出たい鳥として日本では扱われているが、コウノトリは北欧などでは赤ちゃんが生れると、コウノトリガ煙突から連れて来たのだと大きい子供に云って聞かせる。アンデルセンの「絵のない絵本」にもそんな話がのっていたように記憶する。だからコウノトリでもツルに劣らず、お芽出たい鳥であることに変りない。
三 ユリカモメ
名にしをばいざこと問はん都鳥
我が思う人はありやなしやと 業平
この歌は中学時代国語の時間に習ってから、不思議に今に至るまで私の頭に残っている歌である。
ミヤコドリは今の標準和名のミヤコドリではなくて、ユリカモメ(百合鴎)であることを覚えたのは後日になってからであった。私が関東に在住時代、名物のからっ風の吹きすさぶような冬の日に、うす黒く淀んだお濠の水の上に何十羽というユリカモメが、水の上に咲き出した純白の花のように浮かんでいるのを見掛け、未だに業平のミヤコドリが東都に健在なのを知って私は本当にうれしく思った。関東地方の低い洪積層の台地を夏歩いていると、香気の強いヤマユリの花が咲いているのによく出会う。このうるわしい光景はよく汽車の窓からでも見られるものだが、このヤマユリよりも、またショウウインドウを飾っている琉球原産のテッポウユリよりも、ユリカモメの方が色がずっと鮮やかである。
高島郡剣熊村在原を訪ねた時、土地の人から前掲の歌の作者、業平朝臣の墓なるものを教わった。いかにも貴人の墓を思わせる古風な苔むした石塔が、果して美男を以て聞えていた朝臣の墓であるかどうかは私には分らない。業平が東下りの節、隅田川に名を知らぬ鳥が浮んでいるのを見て、船頭にその名を聞くと、船頭がミヤコドリと教えたところから、急に都がなつかしくなって、故郷の人の身の上に思いをはせてこの歌が詠まれたものだが、この業平の歌からミヤコドリは東都の名物の一つとまでなり、しまいにはこの鳥は近畿には居らぬものと想像され、京洛の禁中へ珍しい鳥として東国からはるばる献上されたそうだ。
しかしながら、この鳥が東国に限って見出されるものでない事実は冬の琵琶湖を訪ねて見ればすぐ分ることである。厳冬時に浜大津に通ずる湖岸道路を歩けば、湖畔によく大きな白い鳥が群飛しているのを見掛ける。湖岸に立てばこれ等の鳥が、小さな波が、けば立っている湖面に、時には羽を休めて降り立っている、美しい光景に接することが出来るのも稀れではないだろう。
四 オオハクチョウ
私は小学校時代、北海道の札幌に住んでいたことがある。東京に住んでいたこともあるので、上野の動物園でも見ている筈だが、不思議に北海道大学の付属植物園で見たハクチョウがはっきり頭の中に残っている。動物園の動物は皆檻に飼われて自由を奪われているのに対し、此処のハクチョウは半世紀前に珍らしく放し飼いにされていて、うす暗い池の上に白い影をうつし、いとも軽やかに水上を進む、気品のある姿が私の幼い心を捕えたのであろう。
昔の人がこの高貴な鳥に感銘して、白鳥伝説を作り出したのも尤もだと思われる。湖北の余呉湖では白鳥が少女の姿となって水泳中、伊香登美に衣を盗まれ、止むなく彼の妻となって、菅原道真公を生んだという伝説がある。
ハクチョウは古語ではクグイといい、私の妹は二人共現在神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)に住んでいるが、その地名の起りとなっている沼は現在でも残っており、昔ここに白鳥が渡来したと伝えられている。昔は日本の各地に多数渡来していたことはこんな話からも推察出来るが、その肉が美味しいのと、羽毛がうるわしいために濫獲され、今では渡来する場所が著しく少数になってしまった。琵琶湖についていうと、絶滅した鳥の一つに数えられても仕方がない筈だが、私が持っている本では、昭和2年に飛来した記録がのせてあり、また私が今津に在住していた頃、くわしくいうと本庄村(現在の安曇川町)四津川の干拓事業に生徒が動員され、私がその監督をしていた頃だから昭和18年か19年頃、沖の白石に飛来したことが新聞の記事になっている。沖の白石といえば、安曇川の河口南船木から目と鼻の距離であるから舟でも頼めば直きに見物出来そうだったが、当時は国力を挙げて戦争に熱を上げていた頃だったから、物見遊山とも考えられそうな見学を思いあきらめなければならなかったのは、今から考えると残念で堪らない。
戦後のことになるが、姉川の上流で射殺されたハクチョウが、彦根の店頭に売物としてさらされているのを見て、当時短大の学長をしておられた川村多実二氏が大いに憤慨されたという記事を新聞で読んだことがある。堅田の漁師大柴さんをお訪ねした時、木戸村(現在の志賀町)の人が鴨とりのもち糸にひっかかったハクチョウを、京都岡崎の動物園に買い取ってもらったこと、若し生きていたら今でもそこにいる筈だ、話をきいたが、これも同じ年にやって来たハクチョウの一羽ではなかったかと思われる。
その後何年たったか覚えていないが、湖東のある池でハクチョウが心ないハンターの犠牲になったという記事が新聞に出ていたことがあった。ハンターの弁明ではハクチョウをシラサギと間違えて打ち殺したそうである。
若しかりにそうだとしても、シラサギとハクチョウの区別が出来ないようなハンターは、大体ハンターになることが間違いだ。新潟県瓢湖のハクチョウのことを思い合わせると、ハクチョウが新潟県の人は皆親切だが、滋賀県人は揃って鬼みたいな人間だと思いはしないかと、気になってならない。
現在湖国文化館や彦根城の濠などに飼ってあるハクチョウは、東京を始めとして方々で飼われているヨーロッパ産のコブハクチョウに属する。
この項を書くに当り、オオハクチョウを単にハクチョウと略したが、日本に渡来するハクチョウはいずれもオオハクチョウで、私は何時の日か北海道の風蓮湖までは行けぬとしても、青森県の小湊位までは出掛け、まのあたり群飛するオオハクチョウに接する機会を得たいと思っている。
五 アビ
瀬戸内海の斎島ではアビは鯛漁の守り神として極めて丁重な扱いを受けている。此の斎島の付近では潮の関係で渦が出来ているが、海底で発生した無数のイカナゴの幼魚は浮き上がって来ると、此の渦にさしかゝると仲々乗り切れない。まごまごしていると、イカナゴを目指してアビがやって来るが、更に同じ獲物を狙うものにタイやスズキがいる。だからアビを目標に近ずいて行くと、漁師も目指す魚を沢山とれるわけである。アビは漁師に保護されるのをよく知っているので、漁船がそばによっても逃げようともしない。出漁中若し何かの間違いでこの鳥に怪我でもさせると、直ちに水に沈めて窒息させて殺すが、それは仲間の鳥にショックを与えるのを恐れるからで、死んだ鳥は島の神社に捧げ、坊さんを頼んでその冥福を図ってやるという話である。
真白い比良の連峯から吹き下ろす風に湖面は波立ち、いんうつな雲の間から洩れる冬の弱い陽がかすかに湖上を照しているような冬の日など、湖岸に立って湖心に目をやると、まるで生徒が遠泳でもやっているように、如何にも楽しくて堪らないといった風情で、アビが円陣を作って遊泳している姿を見掛ける。そんな時雲間を洩れる光が運良くこの鳥群を照し出すと、体の上面は赤味を帯びた栗色、水面に近い方の下面は白色といった、この鳥の色どりを見分けることが出来る。見ていると、群の一羽か二羽が一瞬水に沈んだと思う途端、もう次の瞬間には水面に再び姿を現わす。かと思うと急に何物かにおどろいたかのように、全群が一時に水上から姿をかき消してしまうこともあり、この水によくもぐる性質は、アビがウの仲間であることを物語っている。
漁師の話では此の鳥はホーイホーイと鳴く。
昔島流しにあった天神さんは此の鳥の鳴き声をきき、お迎えの者が来たのかと喜ばれたところ、お迎えではなくて、声の主はアビであることがわかって、大いに気を落とされた。このように天神様をだました罰によって、此の鳥は秋になると目の光がにぶくなるそうだ。この話は堅田で聞いた話であるが、瀬戸内海ではこの鳥はホーイホーイと鳴いて平家を潰走させたので、平家倒しと呼ばれている。
アビは瀬戸内海では前述のように大変に大切に取り扱われているが、琵琶湖の漁師の間ではひどく評判が悪い。というのもこの鳥はなかなか慓悍な鳥で、カモ取りのもち糸にかかったアビをもち糸から取ろうとする時には、アビと一戦を交える覚悟がなければならない。近よると威勢高になって鋭い嘴で人につつかかって来るから、棒で叩き殺すよりほか仕方がないが、人間のようにホーイホーイと鳴く鳥を殺すのは、殺した後で頗るあと味が悪いものだという。アビの肉はうまくないので、たとえ捕殺しても何の役にも立たない。かつてカモを専門に売っている店の人から生徒の参考にでもなるならと、アビ一羽をそっくりいただいたことがあった。
六 カイツブリ
鳰の海や月の光のうつろへば
波の花にも秋は見えけり 家隆
カイツブリの古名はニホであり、琵琶湖にはニホが多いところから、古来「鳰の海」といえば琵琶湖を指していたことは誰でも知っている。私はかつて琵琶湖の和歌に熱中したことがあるが、鳰の海を取り入れた和歌は私のコレクションから、いくらでも引用出来るつもりである。前掲の新古今集の和歌も別に私の好悪とか、歌の優劣を考慮の上、採碌したわけではない。
「近江要史」の著者の説によると、湖西に注ぐ一小流にニホ川と呼ぶ川があって、ニホノウミはその川の名を取ったものだという。私はその説に対し反論する材料もないし、かれこれいう権利もないが、仮にその説が正しいとすれば、ロマンチックな古名の詩味が失われてしまうので、勿体ないような気がしてならない。
カイツブリは全国何処の湖沼や河川にもいるもので、特に琵琶湖に多いわけではない。よく水にもぐるところから鳰の字をあてたものと思われるが、俗名にも一丁むぐり、八丁むぐりなどがある。私がかつて在住していた茨城県ではこの鳥をムグッチョといい、
ムグッチョ ムグッチョ
ムグッチョの頭に火がついて
消しても消しても消し切れぬ
といった古い童謡がある。武藤金城氏はその著「自然の伝承」鳥の巻 カイツブリの項に
鴨コの尻(ケエツ)コ糞(ン)コ付でだ
ヅボンと潜れば皆落ちる
とこの鳥が水にもぐるさまを罵倒するという話をのせている。折角和歌ではじまったが、糞コ付く話になり下ったので、此の項はこれでおしまい。
七 オオミズナギドリ
近藤さんの「琵琶湖の鳥」の目録に出ていない鳥としてミズナギドリ科のオオミズナギドリを加えることが出来るように思われる。オオミズナギドリは琵琶湖としては迷鳥に属するわけで、その権威が信用出来るH市のBさんから実際に湖上で鉄砲で打ち落としたという話しを聞いているが、若しそのほかに私のノートにはりつけてある記事がなかったら、琵琶湖の鳥として挙げるのを私はためらったことであろう。その切抜きは年度が不明であるのが残念であるが、それによると瀬田川畔でカモメに似た一羽の鳥を石山鳥居川に住んでいる猟師の川口さんが捕え、県教委に照会したところ、舞鶴沖の冠島に住む天然記念物のオオミズナギドリであることが判明し、舞鶴市教委に引取方を依頼したという。
八 カモ
今は故人となった堅田町の大柴さんは、今から十年程前に私が始めてお目にかかった時、もうすでに七十才を越した老人だったが、若い時から湖上で暮らして来ただけに、別にとり立ててお年寄りという風には見えなかった。
仕事は息子さんの方にすっかりゆずって、気楽な身分だったので、私も遠慮なく何回かお訪ねして、琵琶湖に住む色々な生き物について色々なお話を拝聴することが出来た。カモに関する限り、その大部分の知識は大柴さんの御教示に負うものである。
琵琶湖に飛来するカモの主な種類としては、マガモ(アオクビ)、カルガモ、ヨシガモ(フザイ)、キンクロハジロ(ハジロ)、ホシハジロ(シモフリハジロ)、トモエガモ(アジガモ)、コガモ(タカベ)、ビロウドキンクロ(テングガモ?)、ヒドリガモ(ダイガシラ)等で、括弧内は漁師乃至は業者の使う言葉である。
昭和36年、昔から伝わっていた琵琶湖特有のモチ網漁が禁止され、今では銃猟一本にしぼられてしまった。その時までは店頭にならべられているカモの羽根によくモチがついていたものだが、モチのついていないものは鉄砲で打ち落とされたもので、モチナワ猟で捕らえられたものよりもちが悪く、従って味も劣るとされていた。モチナワ猟が消えていった今日、それについて書いても最早何の役にも立たないかも知れないが、亡くなった大柴さんの懐かしい思い出を留めて置くためにあえて書き記す。
すべてカモというものは夜になると湖心の深い所へ集まって寝る習慣があり夕方塒につく様子を見ていると、高い所を飛ぶものは遠い所へ、低い所をとぶものは近い所へ、それぞれ降り立つもののようである。一般にカモ猟は湖上に風が出て、湖上の波が水煙をとばしているような時が最良とされているので、風が少々きつくともつい慾を出して出漁し、山なす波のために何もかも放り出して、命からがら逃げ帰ることもあったという。
カモはすべて風の吹く方向に向かって飛ぶ習性があるため、流し糸はカモのいる上手(かみて)に掛けなければならない。糸は藤蔓をつないだものを使用するが、秋に採って蔭ぼしにしておいたものだと絶対に水に沈まない。これに紀州あたりの山奥に生えているヤマグルマという木から取ったもちを塗る。その糸を糸車のような形をした木の枠に巻いて使うので、それを繰り出すに当っては手の脂がつかないように、もみぬかで手をこすり、更に石鹸で脂を洗い落す位に気を配る。
湖上に浮くように仕掛けた旗を十尋毎に一本、約十五本を用うるが、旗と旗の間に前述のもち糸を張る。夜が明けて目を覚ましたカモが風上に向かって飛ぶ時に、この糸がひっかかると、カモが慌ててじたばたするが、その勢いで糸が切れ、その糸がカモの翼にまつわりついてカモは飛べなくなり、空しく湖上にころがっているところを、舟で辿りついた漁師に拾われる。このようにして一回で豊猟の時には百羽位もとることが出来たという。
すべて生物の命を取る商売は罪の深い商売で、沖で捕えたカモの首を折って息の根をとめる時、まだ夜も明けやらぬ薄明かりの時刻には、家にあって暖かい布団の中にねている我が子がにわかに泣き出すとまで一般にいわれているが、カモ猟は一度やり始めたら面白くなって、どんな目に出会ってもなかなか止められないそうである。
カモすきで一番珍重されるのは一般にアオクビと称されるマガモであるが、店頭ではそれとならんでよくヒドリガモ、ヨシガモなどを見掛ける。こういったカモはいずれも目方が二百五十匁から三百匁程度、マガモの大きいものになると四百匁に達するが、コガモになると普通のカモの三分の一の目方もない。琵琶湖に一番おそく迄滞在するキンクロハジロなどはカモの内でも下級品に属し、私の今津在住時代、哀れにも田圃にかかしの代用としてつるされ、湖北の冷たい風にさらされているのを見掛けたことがある。
私は、ツバメ類の数の変動の動向を知ろうとして、私の住んでいる町、大和郡山市とその周辺で、若干の調査を行いつつあります。当地方には、ツバメとコシアカツバメが地域的に住み分けていることに気付いていたのですが、実際に、それを確かめたいとも思っていたのです。
今まで、巣のセンサスとツバメについて卵から巣立ちまでの生存率などを調べたのですが、センサスは昭和32年と昨年、今年に行なっただけですし、巣立ち率の調査は今年に始めたばかりです。
いわゆるトメ卵について
今年出版された小林清之介著「スズメの四季」に、トメ卵はヒナのかえらない無精卵であることが多いとありますが、これはどのような資料にもとづくものなのでしょうか。かなり普辺的なよく知られたことのようにも読みとれるのですが、私の調べたツバメの場合ではそのようなことは認められませんでした。
都市化との関係について
コシアカツバメもツバメも、その営巣場所を建造物によっています。しかも、当地の例では、ツバメは交通量や商店の多い特定の大通りに集中的に巣を営んでいます。しかし、餌場は山林や耕作地であり、家ネズミ類の場合に比べて、その生活を全面的には人の生活に同調できないところに矛盾があるわけです。私は、上のような意味から、ツバメ類の人の生活に対する依存の仕方や、ブリーディングシーズンにおける行動圏の大きさなどを調べたいと思います。
スズメとの関係について
スズメはツバメ地帯にもコシアカツバメ地帯にも生息していて、営巣場所を建造物に依存する点では同様ですが、利用の仕方はツバメ類の場合とどのように異なるのでしょか。近年、増加しつつある規格家屋の集団住宅地にも、スズメはさっそく入りこんでいますが、ツバメ類は営巣していないことは興味があります。また、スズメはツバメ類の古巣を利用することはたびたびありますし産卵が行われつつある巣を横取りした例も観察しています。
調査に伴う障害について
ここで言う障害とは調査方法上の技術的なそれをさすのではなく、人為的なもの、この場合に固有の障害とも言えるものです。つまり、巣のセンサスは一軒ごと見てまわり、聞きこみもあわせ行なったのですが、たびたび家人に「なぜ調べているのですが」と尋ねられました。たいてい、説明してもわかってもらえないので、そのうちに、「学校の宿題です。先生が調べてくるように言われたからです」と答えると得心されることに気づき、以後はもっぱらそれで切り抜けてきました。私としては、方便と割り切っているつもりですが、やはり、釈然とはしません。それにしても、どうしてそれで納得されるのか不思義に思います。
産卵数やひなの数は、鏡でのぞいて確認するのですが調査は多くの家で断られました。理由は、「ツバメが来なくなるから」です。そのようなことはないのですが、その根底には「ツバメが来なくなれば、不事がはいる」という迷信があるので、しいて頼みこむわけにもいかずけっきょく、家人のまだ起きていない朝早く無断で調べることにしました。
この仕事の成果に関係している方法上のことについては、個体識別を行なわなかったことが、何としても弱点であると思っています。また、食物の種類、ひなの数と給食回数、人に対する慣れなどの観点から、ブリーディングバイオロジイーを調べたいと思っています。
やっと尾根すじに出た。頭の上から覆いかぶさるような重苦しい、いやな感じは、からっ、とはれて気持ちがよかった。
しかし以外に風は強く、私の向かおうとする真正面から吹きつけて来た。
空模様は依然として悪い。今にも水滴になって落ちて来そうな重いガスは、低くたれこめて遠くの視界を遮っていた。
たけの低い灌木と、小笹のはみ出た赤土の道は、およそ道と言うより、雨水の自然の通路といったほうが適切であった。
削りとられて、激しい凹凸は無数に連続しながら、やがて鬱蒼とした、オオシラビソの樹林に入っていった。
頭上を覆いつくした、荘厳な原生林のひろがりの中にそこだけ緑の天蓋を置きわすれたように、忽然、と大空を見せている。その下に三平峠があった。
「天然記念物 尾瀬」と筆太に記した角材の大きな標柱のたつ三平峠、私は嬉しかった。
尾瀬えの憧れを抱きはじめた頃から、三平峠の名前にも、久知の友人のような親しさと、そこはかとなきなつかしさを持っていたのである。
天然のベンチでも置いたような、恰好の倒木によりかかってザックを下ろした。ベレーも、カメラも、上衣も一気に脱いだ。そして空身がいかに身軽るなものであるかを知ったように、肩と両腕を、ぐるぐるっと、まわしながら、「やっと着きましたよ」とほほえみながら、そこで私の動作を見ている人々に言った。
「ハハハハ相当遅れましたね」と男の方が笑顔でこたえた。
その後を受けて女の一人が尋ねた。みんな私の顔を見ている。
「おじさん、どちらからですか」おじさんには少々抵抗を感じたが、嫌味のない親近感に溢れた彼等の態度は好ましかった。
「ハ、京都から………夜行がこたえてねえ、随分参りましたよ。尾瀬は初めてなんです」
タオルで顔の汗を拭いつゝ、私も親しそうにこたえた。
男が二人、女が三人。若々しいこのグループは、東京の人々らしい。
さきほど、最後の水場で遅い昼食がわりに、ビスケットをかじっているとき、
「お先にー」と言い流しながら、軽く会釈をし追い越して行った人達であった。
それっ切り話は途絶えてしまったが、静かで、落ち着いたいい気持ちがしていた。煙草をくゆらせながら、心地よい冷気を楽しんでいた。
私のいる対面の位置にも同じような倒木があって、そこに彼等がいたのである。赤だの、紫だの、美しい色彩の服装がよく似合う人達だった。
それはちょうど私の子供ぐらいの年令で、その仕草は何んとも可愛いく、楽しそうで、見ている私自身まで明るい気分に誘れていた。
不意にその好ましい雰囲気を破って、さっきの女の子が言った。
「寒むくなって来たわ、ね、行きましょう」
彼等は、もう小一時間ちかくも、休んでいる。その声にうながされて動き出した。小さなサブザックを肩に引っかけると、又おさきにと言って行ってしまった。
色彩のない、人気のなくなった峠は急に寂しいものになった。
顔のまわりを飛んでいたブヨの、羽音がうるさく聞こえるような気がした。周囲の木立が、風に騒ぎ出した。遂にほんものの雨がやって来た。時間的にもそれ以上、そこにそうしていられなくなった。急がねばならない。
短くなった煙草を踏み消すと、ザックのポケットから傘をとり出した。追いたてられるように、急がしく身仕度をととのえた。傘をさしてからもう一度、尾瀬の標柱を見直した。
そこはこの峠を越さずに帰る予定であったのと、何時訪れるあてもなかった名残からでもあった。
私は又歩き出した。道はすぐに大きく左え迂回して、そこから下りになっていた。かなり急な傾斜の道は小暗い樹林の中をぬっていく。
雨空を地色に、しぶいたて縞を見るような、黒い樹幹の向こうに、白い沼の一部が見えてきた。
私は瞳を凝らして立ち止まった。すると降り出した雨に驚いたものか、右手前方で鳥が鳴き出した。
「おやっ」と思ふ間もなく、後方でも鳴き出した。又前で鳴く、後ろで鳴く。前で、後で「ヒーン、カラカラカラ。ヒーン、カラカラカラ」
まさしく、まごうかたなき「こま」のいななきである」
それは全く素晴らしい。
力もあり、品位もあり、生気にも満ちあふれた清喨の響、ヒーンカラカラカラであった。
全然、予期もしない場所で、最も愛する鳥の声が聞けようとは、全く幸運と言う以外に言葉もない。
私は喜びに胸をはずませながら、多少のいたずら気もあって、その美事な喉を口笛で真似てみた。
ところが、およそ似ても、似つかぬ物真似に、不思議にも呼応するのか、桃戦でもしているのか、なおも盛に鳴き交すのである。
しかもその位置を急速に変へつつあった。そして私の位置に近よっていることが察知された。
一そう心をこめて真似てみた。そうしながらも私の目は、その姿を求めて忙しく動いていた。
不意にその声は、はたと止んだ。
かすかな狼狽を心の隅に感じかけた刹那、赤栗色の一閃飛を見たかに意識した。
その意識の目の前に、こまどりが飛び出して来た。野生のままの颯爽とした姿を現したのである。全く思いがけない出現であった。それはそれは、もう何んとも表現のしようもない感激であった。その心は喜びにふるえ、緊張に身体をこちこちにして、息もつめ、まじろぎもせず、前かがみの姿勢のまま、その動作に見いっていた。私の足許から二米と離れない所である。
倒れて間もないのか、まだ生々しい葉をつけたまま折重なった、倒木の幹に来たのである。その上で、こまどりは、あの活発な区切りをつけた。敏捷な動作をくりかへしている。右に左にそして時々尾羽をぴくぴくと上下にしながら。
私は切つないまでの感激にひたりながらも、右手は本能的に動いていた。胸にたれたカメラを、かすかな動きで目の位置に持って行こうとしている。本当にかすかな動作だった。しかし、こまどりは忙しい動作をとめて、たち止まった。そうして、何時もそうするように、小首をかしげて、片目で物を確かめる。あの目つきで私をじっと見た。極度の緊迫感が身内ちを走る。ピクッと尾羽を下げた。ひらめく予感、ファインダー越しに鳥を見たような感覚と、シャリッと音がしたのと同時に鳥も飛び去っていた。
それは実に厳しい、苛烈な一瞬であった。すべては終っていた。結果は五十分の一秒の差で私は遅れていた。
それっきり、こまの声も姿も絶へたきり、二度と聞こえなかった。こまの飛び去ること、それ自体それが当然のことであるかも知れないが、つまらない本能のいたずらが招いた結果のような気がして、いやな、果無い気がした。写せなかった口惜しさも、あったであろうが、それよりも思いがけない愛鳥の出現による感動に対する未練であった。もう一度口笛を吹いてみた。しかしもはや何の反応もなく、それは実に空々しい未練がましいものであった。唯、静かに感激だけを味わってそっとしておくべきであった。
激しい後悔はいいようのない複雑な暗い気分に追い込んでいった。ホッと重い肩の息を落すと白い沼を目がけて一気に下っていった。
雨脚しは一層はげしく道を、たたきつけていた。
ふたむかしも前のことであるが、信州の中綱湖畔で一夏を過したことがある。湖畔のあし原ではヨシキリの声が盛んであったある日、対岸の大きな桜んぼの木のある通称校長先生のところへいつものように米を分けてもらいにでかけた。そのとき、こんな鳥を小供がつかまえてきたから飼ってみないかといわれた。それはようやく親鳥から離れたばかりのヨシゴイだった。早速白樺の枝をきり鳥かごを作ってやった。その生態は中西著「野鳥と共に」に書いてあるとおりで、まことに人なつっこい一般の鳥にみられないような喜怒衷楽の情を示した。一カ月ほどで生長はとまったが、野生のヨシゴイに比べて色つやがおとり、体も小さく弱々しそうであった。餌は生きたドジョウばかりで陽にあたることが少なく、また運動不足のためであろう。鳥と日本語 田中大典
こんなことが縁となって鳥に興味をもち、鳥は飼うものでなく野生のままを鑑賞するのが一番よいと思い野鳥の会に入った。当時中京支部は名古屋大学理学部の椙山博士が会長で太田春雄氏が世話人、毎月会合があり、下前津の村瀬さんのお宅へ時々伺い、野鳥の映画、録音あるいは北王動物園長などの話があった。湯の山探鳥会(鈴鹿)、伊勢の菅島にある名大臨界実験所見学(海浜動物とくにヒドラの鑑賞)、津島下池のガン、カモ猟などが印象に残っている。ハイキングなどには植物の専門家がいて道々採集して名前を教えて下さったこともよいと思う。動物の専門家は植物のことをあまり知らない。その逆もまた真なり。野鳥の生態のみならず野の草花にも目を向け、広く自然界のことを知り得たことは有難かった。
いま手元には野鳥昭和18年12月1日発行、11,12月合併113号が一冊だけ残っている。カラス特集号で、南方圏のカラス(黒田長礼)砂漢のカラス(蜂須賀正氏)、奉天あるいは朝鮮のカラスのこと、南方戦線従軍抄(岡田康稔)などのせられ今昔の感が深い。巻末に京都支部報告を猪川■氏が書いておられ12月12日京大での談話会の記録があり、出席者の中に川村先生はもちろん、高田俊雄氏、榎本佳樹老(前述下池へ参加されカモ鍋をつつき、鯉の洗い、ドビン酒を共にした。当時は仲々口に入らぬものばかり)の名前が見られ懐しい。この野鳥誌を読み直していると、その間から同年9月15日村瀬邸での中京支部例会通知ー丸山廉氏の高山の鳥の話ーの古ぼけた葉書がはさまれていた。
昭和18年秋、京都へ引越し野鳥の会とも暫らく遠のいていたが、戦争も終り比叡山の探鳥会を知り数回参加し、ずい分たく山の鳥の鳴き声を知ることができた。朝の静けさを破るキツツキのコロ……とたたくクラタリング、それからそこでおぼえたトラツグミの声を昭和26年6月鹿児島県霧島神宮に参拝の折、頭上で聞いた不気味さはいまだに忘れられない。
昭和26年京都から草津の地へ移り、二、三年は比叡山へご厄介になったが、その頃から鳥の数が減少し、採鳥会に対する興味もうすれてしまった。ところが今年になって入会することになり、橋本会長に十年振りかでお会いしほんとに懐しかった。
ヨシゴイを始めて飼ってから二十年、野鳥の知識は相変わらず一年生、それでも自然の美しさを野鳥を通して感ずることができるのを幸せと思っている。(11月5日)
京都を離れて一年半余り、例会に出席せず会の皆様にはずっとご無沙汰致しておりますが、来年(39年)はせいぜい出席させていたゞこうと思っております。さて「三光鳥」へ原稿を書こうとしましても、何ら鳥の観察記録や報告もなく「文学的偏向」とまたもやや叱りを蒙ることを覚悟で左の駄文を提出させていたゞきます。
鳥を借りた日本語の日常使う表現の例を挙げて見ました。たゞ思いつくまゝに。何故このような鳥に譬えた表現が生まれたか、即ち鳥のどのような生態からそう言った日本語の比喩が話されるようになったかを、諸先生方からお教へ乞ひたいと思うのであります。単に日本語だけでなしに、割合縁の深い英語や他の国の言葉にも鳥を引合いに出した表現がきっとあると思いますがそれらを集めれば面白いのではないでしょうか。
烏 烏合の衆、烏有に帰す
雁 雁首(を並べてなどと言います)、雁行、雁字がらめ(あて字かもしれません)
鷹 能ある鷹は爪かくす、夜鷹
鷹・鵜 うの目たかの目
鷹・鳶 鳶が鷹を生む
鳶 鳶職
鵜 鵜呑みにする
千鳥 千鳥足
雀 欣喜雀躍、雀百まで踊忘るな、何々雀(着た切り雀、井戸端雀等)
鶴 鶴の一声、鶴は千年亀は萬年(鶴は果して何年生きるのでしょうか。殊に馴路の丹頂鶴の寿命は?)
鳧 ケリがつく
郭公 閑古鳥がなく(淋しいとか商売繁盛しないなどの意に使われるようです)
雉 焼野の雉
鴨 カモにする(麻雀…実はこれも雀なる字が入っていますが牌を卓上でまぜ合わせる音が雀のなくのに似ているからなどともっともらしい説があるようですが…のカモにする等の意に使われます。柄のいゝ言葉ではなさそうです。)
鴛鴦 オシドリ夫婦
目白 目白押し
鷲 ワシ掴み
燕 つばめ返し
鸚鵡 オーム返し(彼はオーム返しに言ったという風に使われていませんか?)
鶯 うぐいす嬢
右のほかに鳥のもつ羽毛の色が、色や図柄の名称になったりしています。一例をあげれば、うぐいす色、とび色、千羽鶴、朱鷺色(これはいま滅亡に瀕しているトキのあの美しい色から名付けられた色彩名だと思われますが如何でしょうか。若しそうだとすれば昔は日本には到るところにトキが棲息していたことになります)。
又どの鳥にも共通する語として、
嘴の黄色いのに……若者が未熟なのに生意気なことをいう場合。
一石二鳥・一石三鳥……実によく使われる言葉。
何々の卵……卵は鳥だけに限りませんが、医者の卵とか何の卵とかよく言いますね。
渡り鳥……放浪したり尻が一ヶ所に落着かないときにこう申します。
鳥瞰図……説明するまでもありません。
鳥肌の思ひ……ゾットするの謂。
鳥目……ビタミンA欠乏症。
嘴を入れる……いらぬお節介をそばから言う。
巣立ってゆく・愛の巣等々(これも鳥だけではありませんが)
以上のhかにもまだまだあると思います。これが鳥に限らず動物一般に求めればおびただしくあるようです。蛇足ながら二三の例を挙げてみましょう。
例えば猫があります。猫は我々の身近にあってよくかわいがられるにも拘らず大抵悪い意味にしか引用されません。皆様御承知のように、猫撫声・猫をかぶる・借りてきた猫みたい・招き猫等々沢山あります。虎や獅子は概して良い例であって、もうやめましょう。つまりませんから。とにかく以上の引用で大雑把に言へることは、高級な文学的表現よりも日常の卑近な話し言葉の中に鳥をはじめとして動物一般はその比喩に引用されているようです。それだけ人間の生活に近いからでしょうが。天文・気候・人事等に借りた表現はもっと高踏的な気がします。この駄文を一笑していたゞくようお願いして擱きます。 以上
今年も又玄関に巣くった腰赤燕
南溟の夢をのせて
この町へ来る途中で
お前はきっと郷土勇士の
頭の上を渡って来たに違いない
どうだ御健在だったか、郷土の勇士は
そして何かおことづけはなかったか
僕はな
青空を渡るお前達を眺めて
どれだけ想いを古郷に馳せるか
はかり知れない勇士達の事を思って
噫…もうじっとしてはいられないのだ
豊穣の国日本に秋風が立つ頃
お前はきっと
可愛いい幾羽かの雛鳥と群れだって
南えの旅を楽しむに違いない
な、きっとだよ、今度こそは
我古郷の健在な姿を
力強くお伝えしてほしいのだ
“銃後いよいよ固し矣!”とな。
昭和14年、当時私は丹波八木小学校に奉職していたが、学校の玄関正面に幾つものコシアカツバメの古巣がかかり、戦乱は苛烈の度を増し人心は極度に平心を欠いて行っても春来れば又飛来して営巣し、秋風と共に南に去って変らぬ彼等に托して、わが教え子達の父に兄に私の寸意を届けた作なのである。
あの頃は私も若かったなあ……と振りかえり見る頃からの川村先生、伏原先生、橋本さんであることを思うと野鳥の会の年令も三十才に近づいているのである。全く以て転感慨無量なのである。
叡山の古刹の窓から夕暗に鳴くトラツグミの声を心耳で聞き澄したり、夜は西川甚五郎老の野鳥の擬声に感歎したり………、以来久しく野鳥の会の行事には欠席を続けていても、橋本さんを通じての野鳥の会えのつながりは末だにほそぼそとつなぎとめているのは、その日暮しの私にとってせめてもの心の憩いの一枠であろうか…。
尚昨年12月、園部町に於てヒシクイ一羽が射獲され本年1月、園部駅前南五百米の地点、園部川にオオハクチョウの幼鳥一羽が一週間滞留、同じく五月、瑞穂町に於てシロエリオオハム生鳥一羽拾得はかつてなき記録として特記ものであろう。
………かつての慰問文集から………
人間は予定より早く生れる者と、少し遅れて生れる者もある。
昔は人生五十と言われたが、ありがたいことに今では寿命も伸びたとかであるが、少しでも長く生きたいものである。何が心細いと言っても、人生に余白が少なくなることである。
しかし、お先の方からお詰め下さいで、何れはこの世ともお別れだが、何とか生は続けたいものである。
この世の中に生れるまでに、早くて五年で、長ければ十数年もかかって、折角生れて来ても短日で、その命を失うのが蝉である。
人間は、自分に気に入らないことがあれば、何かと騒ぎたがるものである。それほど不平にも、不満も口に出したいものなのである。
ところが蝉はどうであろうか、不平も不満も耐えて、何ごとにも悟りきった唖蝉もいる。
生れる時も、世を去る時も蝉は悟りに徹している。この蝉の真似は私たちに、出来ないことで面目ないことである。
人間は禅に徹して、悟りめいたことを口に出る人もいるが、その言動の一致しないものである。蝉のぬけがらでも煎じて、飲ましてやりたい人も少くない。もとより私もその一人なので、まことにおはずかしいことである。
もう一つ虫のことで、ナメクジに触れて見よう。ナメクジは誰にも好かれない。それほど嫌らわれる虫である。
昔からこのナメクジに、塩をかけるのがしきたりである。これは全国的にもその様である。この塩の量は若秩父でも、まききれないことであろう。
ナメクジの通ったあとには、イヤなあとが残されている。これを誰もが嫌うのである。
しかし、ナメクジは自分の歩いて来た道は、斯くの如きことと、ハッキリと物語って残されたものである。これはナメクジの過去の道を、立証しているものである。
ところが人間サマは、他人に聞かれて自分に、それが都合の悪いことは、かくすことにつとめるものである。相手が聞いていなくても、自分の都合のよいことは、何度も喋りたがるものである。
自分の過去の道、これが自分の歩いて来た道と、ナメクジの如く脚色もせずに、ハッキリと語ることの、出来ない人は多いのである。
それなのにナメクジにだけ、塩をかけたがるのが人間である。ナメクジにはずかしい人間に、私も一人加わっているので、これもまたはずかしいことである。
雪は止みそうもなく降っている。ときどき ちら、ちらと表情を変えて降っていた。
その日は午後も遅く、もう黄昏に近い頃だった。
富士山麓に三脚を立てて、すでに三十分、私は立ちつくしたままだ。
ヒッヒッ、ヒッヒッ、か細い淋しい声で、じょうびたきは、しきりに何かを求めてさまよっている。
すっかり雪に覆われた灌木の、わずかに見える枝から枝、幹から幹え、丸くふくらみながら移って行く。
小さな雪のこなを、ほんの少しづつ落して行った。
今日は零下十度。あの大きな河口湖ですら前面結氷のままだ。こんな厳しい、凍てついた冬のさなか、虫という虫は、とっくに死んでしまっていない筈だのに………
それでも探さねばならない、あわれ じょうびたきよ
生きているのは私とお前だけだ。
吹きつけられたその片面は白く片面の黒い落葉松林の落葉松は、一本々々同じ姿で立っている。もうほの暗く私の立っている周囲だけが、白く見える。
数多い小鳥たちの中でも、お前には特別な好感をもっている。だからと言って私が、お前の食生活と安住を、保証する手段を講じることは許されない。それをすることが違法なのだから困ったことだ。ヒッヒッ、ヒッヒッ そうして私のそばで、私を意識している。それが友情の現れなんだ。
雪の富士山麓は見渡すかぎり、粛条、白皚皚。じんじん寒さが身に食いこんでくる。
金属製の三脚は凍りついて、手袋に、ちかっと食いつく。私の頑張りにも限度が近づいたようだ。しかしもう十分だけ頑張ってみよう。それ以上は、すべてが不可能だ。一日の最後の残光に、西の空だけが、燃えるように真赤だ。お膳立ては素晴らしく上出来だが、頭が見えなくては、どうしようもない。
ヒッヒッ、ヒッヒッ、お前はまだそうしているが、私の時間にも極限が来た。じょうびたきよ、さようなら。
貴殿の尊父高田昂殿は静岡県駿東郡須走村に御在住、幼時より富士山の動植物に興味を持たれ、その種属、生態及び利用を調査研究せられ、専門的知見を深められたので明治中期以後内外学者の生物採集に際し解説東道の役目を果たされ、大学又は博物館のための標品の蒐集にも尽力せられつゝありましたが、大正の末から昭和の初にかけて農林省の技師や京大動物学教室の教官学生等によって富士山系生物の生態観察、記録、撮影が盛に行われるに当って昂殿の指導協力が如何に重要であったかは学会周知の事実であります。次に昭和九年東京に日本野鳥の会が創立せられ専門の鳥学者のほか多数の文士や詩歌人が富士山麓の探鳥会を開催するに到って須走村は本邦鳥類生態の最優秀研鑽基地となり、昂殿の令兄兵太郎翁の口笛によって野鳥を呼び寄せる特技も亦参加会員の歓呼を受けましたが、両氏御他界の後は貴殿の令弟重雄殿が御郷里にあって動植物の保存に努め研究者の案内誘導に当って居られるのであります。貴殿がこの由緒有る生態調査一家の令嗣としてその技術を継承せられましたこと申すまでもありませんが、貴殿も京都御在住四十四年の間機会ある毎に近畿各地の鳥類の生態観察を続けられ、特に本職であられる写真技術を適用して多くの有益なる記録作品を蓄積せられて居りますが、わが京都野鳥の会(日本野鳥の会京都支部)が創始せられてからはその幹部委員として新進会員の誘掖に尽力せられ、毎月の会合に臨まれることは勿論、遠近各方面への探鳥旅行にも万障を繰り合せて御参加下され、その足跡を東は関東から軽井沢、志賀高原、南は大台ケ原西は山口県八代村、松江宍道湖、伯耆大山等の各地に印せられました。又貴殿の御撮影にかゝる鳥類生態写真は人皆の感歎措かざる所で、曽て貴殿を招聘してこの技術の御講演を請うた地方もありました。更に、わが京都野鳥の会の機関誌 三光鳥の巻頭には毎号貴殿の立派な御作品が掲げられてありますが、之は貴殿が御自身で刊行の部数だけの写真を焼きつけて御寄贈下さったもので、その御労作と経済的御負担に対しわれ等一同感激深謝申し上げて居るのであります。然る処貴殿は今春故山にお帰りに相成り、御郷党の諸氏を援けて富士山麓一帯の文化的進展を御謀り遊ばされることとなりました。京都野鳥の会としては重要な幹部委員を失うことになる実に困惑するのでありますが、御決意の堅きを知りましては御引留め申し上げることもできませんので、一同謹んで御帰郷を御歓送申し上げると共に、従来われ等に御与え下さいました多くの御忠言御勧告を服膺し、一致協力して本会の目的使命の達成に努力致すことを誓いまして、多年の御厚情に対し深厚なる謝意を表し奉ります。
昭和38年3月 日
京都野鳥の会 名誉会長 川村多実二
コノハヅクの声をぢかに聴きたいというのは、私共永い間の宿願であった。それで本年五月高尾山の野鳥の会全国大会でコノハヅクの御本尊中村幸雄先生に「どこへいつ頃まいりましたら聞けるでしょうか」とお伺ひしたら「六月中旬檜峯神社へ行けば確実に聞けます。」とて道順も教えて頂いたので、六月十五日午前十時半の汽車で新宿発、大月乗換え、河口湖からは甲府行きのバスに乗り込んだ。
バス道路はよく整備されていて二台の大型バスも楽にすれちがうことが出来る程で、さしものは御坂の峻険も悠々峠、上り着き、トンネル入口天下茶屋で一服。ここからの富嶽は河口湖をふんまえて実に蒙快、「ふうじは日本一の山」と小学生時代の唱歌が思わず口にのぼる。
トンネルを出るとバスは次第に下りにかかり、耳が変になる位下りに下っても、檜峯神社前は来ない。コノハヅクの聞ける所なら勿論山深い所と想像していたのに、山深い所はすでに遙に行き過ぎて徐々に町へ近付くではないか。乗り過ごしたのかと心配になって車掌さんに「檜峯神社前は末だですか」と聞くと「はい末だです。」とのこと、じゃあ又この先きが山なのかしらと思っていると、やがてお次は檜峯神社前と降ろされた所は、なんと小さいながらも町で、檜峯幼稚園とゆうのさえ目につくおやおやと思ひながらもとにかく降りて見ると、左手に大きな肩板があって、仏法僧の檜峯神社にまちがいないことはわかったが、但しその神社はこれより奥へ三、五キロなりとのこと、「前は前でも一里手前だわ」と顔見合わせて苦笑しながらも、末だ三時前、時間もたっぷりあることだし、泊めてもらへなかったら又戻ることにして帰りのバスの時間を手帳に書き留めてから、ぼつぼつ登り始めた。暫く行くと、果樹園で手入れをしている婦人がいたので、声をかけて様子を聞くと、神社には老人夫婦がいて、頼めば社務所に泊めてくれますようとのことに、それならば野宿もしないですむだろうと、道を進む。登り一方の道で、左に渓流が激しく音を立てている。オダマキ、野アヤメ、ウノハナ、シモツケのピンクが特に多い。蛇イチゴの花もぢつくり見ると中中可憐である。
カッコウ、ホトトギス、センダイムシクイが絶えず啼く。道が二つに分れる所に来て「さてどちらでしょう」「左に間違いなし、檜並木の跡があるから」との夫の意見に従って左に道をとる。ますます登り、ふうふう言いながら行くと、朽ちかけてはいるが鳥居があったので、こちらにまちがいなしと勇気を出して進む。ここまでは車も通れないことはないが、ここからは径も悪くなり、登りもきつい。右手に倒れかゝったサインあり。
休み休み登ると、ぐっと径が右へ曲って檜の森が見え、やっと神社に着いた。木立をすかして見える社務所の台所がぽっと明るい。いろりの火であった。いろりにおじいさんがいて、にこにこ振りむいて「ここでよければどうぞお泊り。コノハヅクは毎朝七時から鳴き出しますよ」とのこと。二階の雨戸を明け放してくれる。十二帖敷畳の真新しいのは有難い。おじいさんの栽培した椎茸のお汁で持参のおべんとうを頂き、七時前台所のいろりのまわりに座を占める。
十
郎神座山檜峯神社 釈
迦
岳霊鳥仏法僧 山椒魚 武田氏金鉱跡 御坂町
電燈もないこの山住まい、いろりの火を囲んでいると七時五分かっきり、第一声を耳にする。声は次第に近づいて盛に啼いてやがて遠のく。おじいさんによると二時間毎にやって来て、ぐるぐる啼き廻るよし。ところが今晩は一時間経つと又やって来た。それから夜通し翌朝四時半まで啼いてくれた。ゆうべは風が出たのであまり啼かなかったそうで、全く仕合せにも今晩はその埋め合せらしい。風を一番いやがり、雨の時もあまり啼かぬそうだ。
二階の床へ入ってからも、ねむいし、あまりよく啼くので聞かないのも勿体ないし、うとうと寝ては聞き、聞いては眠り、こうも寝床の中で憧れ久しいコノハヅクがたんまり聞かして頂けるとは冥加この上もないことであった。啼き方は夜半十二時のを例にとると、「ブッキョウ」と先ず十五回連続に啼いて次に「ブッブッキョウ」と四回繰り返へし、又「ブッキョウ」を十三回繰り返へして、「ブッブッキョウ」二回、更に「ブッキョウ」五十四回反覆して「ブッブッキョウ」二回「ブッキョウ」三回啼いて前後は「ブッ」とだけ啼いて飛び去ったがこの間この一連で約八分啼き続けた。
夜半十二時四十八分
「ブッキョウ」十回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」二回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」二回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」二回 「ブッブッキョウ」二回
「ブッキョウ」一回 「ブッブッキョウ」二回
「ブッキョウ」一回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十七回 「ブッブッキョウ」二回
「ブッキョウ」一回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十四回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」五回 「ブッブッキョウ」二回
「ブッキョウ」五回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」七回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」九回 「ブッブッキョウ」二回
以上一連五分間
夜半一時十分
「ブッキョウ」三十回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」五回 「ブッブッキョウ」七回
「ブッキョウ」二十四回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」二十四回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」五十五回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十四回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」七回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十二回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」五回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十四回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」七回 「ブッブッキョウ」一回
「ブッキョウ」十五回 「ブッブッキョウ」一回
以上一連八分間
テリトリイを境しているとおぼしき遠方では格調の高いのと低いのと二つの声がもつれる様に交唱していることもある。夜のしじまに峯から谷へ枝から枝へ啼き渡る何とも物悲しい声だが決して鋭くはない。まろ味があって胸の奥深く沁み入るしみじみとした声に耳を澄ましていると「更け沈んだ山全体が、その声一つのために動いているように感じる」と若山牧水の書いた言葉の通りである。遠くで啼いている時には「ブッキョン」と尻上がりに聞こえ、近くの時には「ン」がなく「ブッキョッ」と尻上がりになる。「ブッブッキョウ」と啼いた時に「仏、法、僧」ときこえるのだろう。
御承知の通り仏法僧と啼く鳥がコノハヅクであることは、甲州昇仙峡の中村幸雄先生が昭和十年六月十二日午後七時頃、この檜峯神社で確認されたのであって、先生は声をたよりに闇にズドンと一発、落ちたのは案の定コノハヅクであったので、明治生れの先生は感きわまって「天皇陛下萬歳」と叫ばれたとの話も残っている。そのコノハヅクを撃ち落とされた栃の大木は私共の泊った社務所の前に聳えていたというが今は枯れてない。
翌朝は六時前起床、しびれる様に冷たい山水で手水をつかい、六時半出発、径は下り一方なのでいい調子で、山ボウシの白い花を賞でつつ、カケス、シジュウカラ、キビタキ、大ルリ、十一、ミソサザエ、アオヂの姿を双眼鏡で追い、又彼等の朝の歌声を楽しみつつコジュケイの元気のよい声に送られて、次の予定地三ツ峠山へとバスに乗ったのであった。
その三ツ峠山の四季楽園で色色お話したり御一緒に写真をうつしたりした中村璋氏が、中村幸雄先生の甥御さんであったことも、コノハヅクに連る御縁であったのであろう。
追記 檜峯神社へ行かれるのでしたら、甲府まで汽車で行って、甲府から河口湖行のバスにお乗りになった方がよろしい。それから檜峯神社の社務所には宿泊の用意はないので寝具(毛布シュラフ等)食料ろうそくか懐中電燈を御持参のこと。
○からす科
かけす(留)はしぶとがらす(留)はしぼそがらす(留)
○むくどり科
むくどり(留)
○すずめ科
すずめ(留)
○あとり科
あおじ(漂)あとり(冬)いかる(漂)かしらだか(冬)くろじ(冬)こかわらひわ(留)しめ(冬)のじこ(夏)ほおあか(冬)ほおじろ(留)
○ひばり科
ひばり(漂)
○せきれい科
せきれい(漂)せぐろせきれい(留)はくせきれい(漂)びんずい(漂・冬)
○めじろ科
めじろ(漂)
○ごじゅうがら科
ごじゅうがら(留)
○しじゅうがら科
えなが(留)きくいただき(留)しじゅうがら(留)ひがら(留)やまがら(留)
○もず科
もず(留)
○れんじゃく科
きれんじゃく(冬)ひれんじゃく(冬)
○ひよどり科
ひよどり(留)
○さんしょうくい科
さんしょくい(夏)
○ひたき科
おおるり(夏)きびたき(夏)こさめびたき(夏)
○うぐいす科
うぐいす(留)せんだいむしくい(夏)めぼそむしくい(夏)やぶさめ(夏)
○つぐみ科
くろつぐみ(夏)つぐみ(冬)とらつぐみ(夏)のびたき(夏)じょうびたき(冬)しろはら(冬)
○みそさざい科
かわがらす(留)みそさざい(留)
○つばめ科
いわつばめ(夏)つばめ(夏)
○よたか科
よたか(夏)
○ひすい科
あかしょうびん(夏)かわせみ(留)やませみ(留)
○きつつき科
あおげら(留)あかげら(留)ありすい(冬)こげら(留)
○ほととぎす科
かっこう(夏)じゅういち(夏)つつどり(夏)ほととぎす(夏)
○ふくろう科
あおばずく(夏)ふくろう(留)
○わしたか科
おじろわし(冬)さしば(夏)とび(留)のすり(留)
○さぎ科
ごいさぎ(夏)
○がんおう科
こがも(冬)
○はと科
きじばと(留)
○しぎ科
やましぎ(漂)
○ちどり科
いかるちどり(留)
○きじ科
うずら(漂)きじ(留)こうらいきじ(留)こじゅけい(留)やまどり(留)
以上三十科 七十七種
このほかに
山麓に にゅうないすずめ、まひわ、みやまほおじろ、しらさぎ
山中で
さんこうちょう、あかはら、こまどり
はちくま等も居るらしい。
みぞれそぼふる冬の朝
庭さきへでる気になれず
あかりをつけて、本よめば
今日もきたきた ウグイスが
みぞれにぬれたいけがきの
かげをくぐってあちこちと
とぼしい餌にあこがれて
こぜわしそうにチャッ、チャッ、チャッ
うらら日ざしにさそわれて
よみさしの本、そのままに
うらの畑へでてみれば
今日もきているジョウビタキ
うららひざしの山茶花に
白い紋付、あですがた
しっぽをときどきふりながら
すました顔でヒッ、ヒッ、ヒッ
自然の生物が今よりずっと多かった私の子供の頃にはそれらの生物によって引き起こされる、不思議な出来事も未だ数多く残されて居た。年間行事報告
物事もすべて科学的に割り切って考えねば、夜も日もあけぬ昨今とは異なり、萬事が大らかな世の中であったので、私の住んで居た村里などでも、未だミミズは鳴くものであり、マムシの目は夜光るものと信じられていた。狐や狸が人を化かした話とか、人魂や火の魂が出たと言った噂など、これはもう普通のこととして通って居た。勿論皆が皆そうであったわけでもあるまいが、多少の妖怪変化の存在には敢て疑ふことがなかったので、そうした話にも一段と現実性があり、身近な出来事として感じられた。私などは特に亦、幼い頃からこうした話に興味をもっていたので、少年期を向へた頃には、どこそこの薮には今でも狐が居るそうだ、村はづれの一軒屋から人魂が出るそうだ、などと言った噂話を耳にすると、もう、押さえることの出来ぬ好奇心と探索心にかりたてられたものであった。
幸、その頃の夏の夜は、自然が限りない遊びの対象を次々と提供してくれたので、日が暮れると子供達は手に手に提灯をさげて集り、思い思いの遊びにふけることが出来た。時には随分遠く迄足をのばしたこともあった。
月光に輝く夜の川や山の沼はもうそれ自体充分子供達を魅力し引きつける要素をもって居たので、たまさかにもせよ、昼間では見られない動物達のあやしげな生態が見られるとなると、親の目をごまかしてもこっそり出掛けたものであった。
さてその程迄に自然の妙らしい出来事を心の内に期待し乍ら夏の毎夜を遊び歩いてみたもの、今にして振りかえってみると少くとも妖怪変化に関する限り、人魂一つ見た記憶もない。それらのものは、所詮は、正体見たり枯尾花の類であったか、或は当時の村人達のせい一杯の作り話であったのであろう。
併しその各れにせよ、今にして思えば愚直と我れながらも敢て否定しなかった村人達はお互いの心の内に、現代の我々には考え及ばない大自然に対する愛情と畏敬を感じあって居たのではなかろうかと思えてならない。
少なくともそこには大きなロマンが感じられる。残念乍ら現在に生きる私などには最早それに就て語る資格さえなさそうだ。こゝでは唯不思議な体験しての想い出それも野の鳥に関係あるものの一つ二つを当時の想い出をたどって記してみたい。
一、青白く光る五位鷺を見たこと。
夏も終りに近いある夜のこと、私は近くの子供とさそい合せて松虫を取りに出掛けたときのことであった。何分一昔前の田舎のことでもあり、夏も終り近くになると家の圏りはもう秋虫の鳴き声で一杯になるのであったが、土地柄のせいか、松虫丈は不思議に少なく、この虫を捕えるためには二キロ程も離れた小松山へ出掛けねばならなかった。途中には林あり川ありで子供の二人連れではいささか無謀な遠出、今にして考えてみるとよくもまあと思うのであるが、毎日のように夜遊びをして居た当時の子供としては左程のこともなかったようである。とは言うものの松虫の声をたよりにあちこちとさまよい、捕えることにのみ夢中になって居る内は左程でもないが、さて愈々帰る段になると、もう意外に遠くへ来て居ることが気に掛り、何となくあたりのたゞずまいも急に夜が更けた感じがして薄気味悪く、とるものも取り敢えず家路を急ぐのが常であった。
幸、その夜は特に月の明るい晩であったが、とある池の辺りを小走りに帰って来ると、突然バサバサと羽音を立てゝ翔び立った鳥があった。何分にも不意のことであり思わず小さな背筋をヒヤリとさせて振り向くと今しも翔び立った大きな鳥がクワッと一声ないて翔び去るところであった。
「何んだ五位か!あゝ驚いた」と言う友の言葉も耳に入らぬ程気を取られたことは、その五位鷺の体が夜目にもはっきりと青白くボーッと浮き上がって見えたことである。私はあっけに取られてその五位鷺が消え去った黒々とした山蔭の辺りを暫くはぢっと立留って眺めて居たのであるが、このことに一向気を止める様子もない友に促されて、再び小走りに走って家に帰った。家に帰りつくと何はさて置き早速このことを父に報告したのであるが、父も亦それは恐らく月の光のせいだろうと別段気を止めてはくれなかった。
後年になって知ったことではあるが、これは水鳥の体に附着した夜光虫の仕業に間違いなかったものと確心して居る。それにしても月夜でよかった。これが若し闇夜であり、勇しい羽音と啼き声がなかったら、私も恐らく、確に火の魂は実在すると主張して自然の不思議を信ぜぬ人と言い争ったかも知れない。
二、巨大な蚊柱に驚かされたこと。
ある静かな夏の夕べ、夕べと言っても、既に西山の残照も消えて、この山蔭の田圃は間もなく宵闇にとざされんとするほの暗さの中にあったのであるが、私は白い浴衣をきた人影が一つこの田圃の中にぢっと立ち留って居るのを見掛けた。
一体、今時分何をして居るのであろうかと半ば好奇心にかられて見つめて居ると、驚いたことにはその人影が音もなく私の方へすっと近づいて来たのである。見ると足がないではないか。私の幼い頃の記憶の中にもこんなに驚いたことはなかった。びっくり仰天とはこんな時のことであろう、私はあやうく腰をぬかすところであった。誠に若し、辺りをつゝむあの夏の夕べ特有のやんわりとした雰囲気の中でなかったならば、或は若しその人影が今少し私に近づいて来たならば、腰をぬかさぬ迄も奇声を上げて逃げ出したことゝ思う。幸いにしてその人影は私に迫ると見せてすっと横の方にそれて行った。
幸、私は直ぐ近くの農家のなごやかな笑い声と灯の光に元気付けられ、少しばかりの心のゆとりを持ち直すと、一体これは何ものであろうかと改めて見直すのであったが、その白い人影の軽やかな動きはまるで田の面を流れるようで、私の幼ない知識の内では、噂にきく幽霊以外に該当するものがなかった。
丁度その時、一羽の黒い鳥影がその人影に向って突入した。あっ!夜鷹だ!と思うまもなく、その鳥は一旋、二旋と突入した。全く見事な旋回と突入であった。
その頃、夜鷹はコウモリと共に夏の夕べに見掛けられる極く普通の鳥ではあったが、屋根をかすめては旋回して飛び去るこの鳥の飛翔には、何か妖しげな魅力があったので、私などはもう小さい頃から何となくこの鳥に興味を引かれて居た。
その夜鷹がはからずも目の前に現れての見事な飛翔に思わず目を見張ったのであるが、全く驚いたことには夜鷹に三旋の機会を与えず、その白い人影はさっとひろがり煙を散すように消えてしまったのである。攻撃の目標を失った夜鷹は、身をひるがえすと私の頭の上を反転して闇の中に消えて行った。
この奇怪な夜鷹の動作とこの不思議な人影の正体は間を置く迄もなく理解することが出来た。田の面に煙散したと思われたこのものは間もなくどこからともなく集り一本の淡い煙の柱となって立ちのぼったからである。それは疑いもなく文字通りの蚊柱であった。
それにしても何と言う巨大な蚊柱であったことであろう。それは常に見慣れて居るものの十倍否二、三十倍もあったかも知れない。私はその後二度とこのような見事な蚊柱を見る機会はなかった。
恐らく亦この国の何処に於ても再びと見られるものではないであらう。最早我々にはこのような昆虫の集団が生き残る余地はなくなったようだ。かくして自然の妖怪変化も亦自ら消えて行くことになるのであろうか。
そして亦、夏の露台の夕涼みに、見つけた蚊柱を口々に「ムーン」ととなえ乍ら、引き寄せて興じあったあの子供達の遊びも、すべて過去の単なる想い出として消えて行くことであろう。
一月例会(枚方市郊外山田池、鴨の生態観察と新年宴会)
1月13日(日)二月例会(野鳥生態映画鑑賞)
参加者 略
大阪府より認可された徳川時代より続いて居るむそう網の狩猟鴨池である。一昨年にも一度探鳥会を催した所である。今回は鴨の生態観察と併せて鴨なべにより味覚も満喫しようとの催しであったが非常に盛況で多数の参加を見た。三十七年の数々の行事を顧りみて、本年もまた良き年であることをお互いに祈り続日話がはずんだ。(大中記)
2月24日午后6時より三月例会(高雄、愛宕山麓探鳥会)
場所 三条「やません」別室
参加者 略
かねて念願のNHKTVの『自然のアルバム』の製作スタフの須之部淑男氏を招いて、氏が担当取材された中の「コオノトリ」のフィルムを観賞して、その撮影苦心談や、裏話まで聞き、終って「野鳥の生態」と京福電鉄提供の「洛北・洛西めぐり」を映写して全員夕食を共にして歓談、時間の過ぎるも忘れて愉しい一夕を過し、近時に珍らしい多数の参加で会場一杯の盛況で終りました。(橋本記)
3月31日(交通機関ストのため中止)四月例会(巨椋池干拓地の「ケリ」観察会)
4月14日(大阪支部合同)六月例会(比良山探鳥会)
参加者 略
去年に引き続いて今年も大阪支部と合同で開催する。朝から快晴に恵まれて、京阪電鉄淀駅で大阪支部を迎え藤原支部長をはじめ大阪のベストメンバーの顔が見られ、心強く感じられました。バスで干拓地に向い、下車と同時に前方の畑の中に白いケリの姿を早速に発見、望遠鏡、双眼鏡と望遠レンズの写真機の列がしかれる。繁殖盛期に少し早いのか特異なキリキリキリの鳴声が余り聞けない。昼食后、大阪組とコースを別れて一行は奈良電鉄小倉駅に向ってケリの姿を求め、追い乍ら田畑の路を歩き廻る。ヒバリが川村先生の推しょうの如く素晴らしい美声を至る所で聴かせてくれる。残念ながら京都組はケリの営巣は発見出来ずヒバリの巣ばかりで、がっかり、さすがに大阪組はベテラン揃いでケリの営巣を発見されたとかの話。
小倉駅近くで先着の宮城。山本の両氏にお合いする。好天候に恵まれた愉しい春の野外観察会であったが、ケリの繁殖期には稍々早いように思われた。(橋本記)
6月1日〜2日七月例会(白骨、上高地方面)
参加者 略
滋賀県山岳連盟の中井一郎氏の案内で、かねてより一度行きたいと思っていた比良山の探鳥会が実現することになった。六月一日土曜日午后二時に三条京阪集合、天候は曇天である。
梅ノ木行の京都バスは大きなリュックサックを背負った山男達や我々で超満員になり出町柳では一台増発する騒ぎであった。続いて走る二台の寿司詰めバスは高野川をさかのぼり、八瀬、大原の里を過ぎ山間を縫ってひどく揺れながら進む。途中から花折峠にかかるあたり、道はいよいよ悪く細く、バスは息切れせんばかりに喘いでいる。やがて比良裏側の登山口、坊村に着いた。ここの分校の先生をして居られる土永先生が出迎えて下さった。今日の宿、比良山荘に落ち付きしばし休息、日暮れまで少し時間があるので近くの明王院に行く。杉の頂からオオルリの囀りが聞えてくる。屋根にはキセキレイが尾を振りながら歩いている。明王院では祭の時に使うカツラの巨木をくりぬいて造った大太鼓や、足利時代のゴ・ジンヌー夫人、日野富子の参籠札やその他古文書、地図等解読出来たらさぞ面白かろうと思われる品々を見せて頂いた。夜、食事を済ませてから宿の主人より比良の動植物について、カモシカが居ることや白クラの壁には以前は毎年タカが営巣していたが近年は山男が岩登りするので居らなくなったこと、或はこのあたりでは五月にならねば楼が満開にならぬ等と興味ある話を聞いた。
翌朝五時に起床、さすがに山峡の朝は肌寒さをさえ感じる。天気がどうもあやしい。今にも降って来そうだ。雨だけは降ってくれるなと心に念じながら出発する。昨日のオオルリが今朝も盛んに囀っている。釣りの名人、伊藤さんはこの谷でイワナやアマゴを釣る魂胆か、釣筆に長靴といったスタイルである。明王谷をさかのぼる。原始林は谷を覆い暗くてじめじめしている。丸木橋を渡りブナやカツラ、アスナロの大木を仰ぎ見ながら進む。野鳥の数は以外に少い。オオルリ、シジュウガラ、ヒガラ、ヒヨドリ、カケスの声が時折り聞えてくるだけだ。人参の花に似たサワフタギが白い花を一面に付けている。中井先生から野草の方もいろいろと教えて頂く。鳥が少ないので多角経営と言ったところだ。アカモノやイワウチワの群落がある。やがて三の滝を木の間に見ながら白クラの壁に着いた。誰かが壁をロックライミングしている。成る程これではタカも居たたまれぬわいと思った。我々鳥好きには残念だが仕方がない。ここで少し休憩、再び引返す組と更に進んで琵琶湖側に出る組に別れた。中井先生よりこれからの道順をきき、牛コバから大橋小屋、南比良峠への道をとる。アカショウビンのキョロロローが響いてくる。「あっ、ジュウイチ」と誰かが叫ぶ。関西では珍しい。幸運なことだ。その後下山するまでジュウイチは全くよく鳴いてくれた。ゆっくりした歩調で進むので全く疲れない。どこからかミソサザイの澄んだ声もする。ヤブデマリ、タニウツギ、ナルコユリ、ハンショウズル等が咲いている。
大橋小屋を過ぎた頃からガスがかかり、天気はいよいよあやしい模様、少しピッチを上げて進む。南比良峠に着いた時は視界が殆どきかない程になった。晴天なら琵琶湖を一望のもとにすることが出来るのだが今日は全く駄目である。雨が降らないのがせめてもの慰めであった。ここからの下りは可成り急で、ガレ場では道の崩れた所など一二ヶ所難所もあったが、それでも下りは早く見る見るうちに高度は下って行く。極く近くの枝でセンダイムシクイが姿もはっきり見せて盛んに囀っている。
やがて深谷に出る。ここからは花剛岩の単調な河原を下る。時折、その単調さを破るようにジャケツイバラが目も覚めるような黄色い花を見せたり、ウノハナやササユリがやさしく咲いている。ジュウイチが最後の別れを告げるかのように鳴き叫びながら飛んでいく。
下りにピッチを上げたので昼過ぎに江若鉄道、比良駅に着いてしまった。従ってディーゼルカーの中で昼御飯をして楽しく解散したのである。
最後に、このハイキングにいろいろと御指導賜った中井、土永両先生に厚く御礼申上げたい。 (久保記)
日時 7月6日7日九月例会(嵯峨野の虫を聴く会)
参加者 略
予定先の農家が養蚕繁忙期で断ってきたため、薮原行が俄かに変更を余儀なくされ、繁急打合せの結果白骨温泉行に決まる。未明に満員列車から木曽福島駅に放り出され、上高地行のバスに乗車、雨の木曽路をウツラウツラと揺られながら境峠を越えて、早朝梓川渓谷に入り沢渡で下車。バス乗継待の一時間を茶店で朝食。コルりを聴く。早くも思い思いに行動開始。
久し振りに遠方から顔を見せた烏賀陽夫妻が梓の川原から珍石を採集してきて並べる。又茶店のおやじから、この間も用水樋が山椒魚でつまったと聞かされては佐藤先生ぢっとして居れず、雨降る下草にズボンを濡らしながら、傘をさして附近の渓潤をたづね廻ったが、遂にめざすハコネサンショの稚魚を得ず。古風なフイゴを動かす村の鍛冶屋に昔を懐しんだり、不図見上げた軒先につり下げた鳥籠にウソをみつけたり。井上靖の氷壁ゆかりの茶店のガラス水槽に飼育の鱒や岩魚に、伊藤さん早くも食指を動かして偵察開始。しばしの休憩時間も、各自それぞれに仲々忙しい。
白骨に着くと、伊藤さんが早速手ぎわよく宿の交渉をすませて、谿の一番奥まった大石館に入る。古風な湯治宿の三階の欄干にもたれてボンヤリと眼下の渓流を眺める。「大菩薩峠」の白骨温泉。午後雨があがりそうな気配に附近に散策にでかけたが、あまり小鳥を聴けない。オオルリ、シジュウガラ、カケス。キセキレイが沢山いる。カジカが啼いている。ミヤマオダマキが咲いている。今日は夜行の睡眠不足の疲れもあり、明日早く上高地に向うこととして、温泉につかって皆早く寝に就く。
翌朝は晴。早朝約束のハイヤーが迎えにきて上高地に向う。途中梓川沿いで、ここと思う辺りに車を停めてみたが小鳥の声はあまり聴けなかった。大正池畔で車外に出て、始めて上高地におはようをいう。朝日に映えた穂高の頂にちぎれ雲が飛んで、天候は上々。河童橋からいよいよ徒歩、探鳥開始。小梨平の樹林地帯にかけて、ぼちぼち小鳥のコーラスが耳にはいってきて一同張切る。
「三光鳥の鳴き声は矢っ張り比叡山に限る。上高地のは下手くそだ。」とんだところで橋本会長のお国自慢がでる。「ウグイスもあかん」「そうでもないでしょう」と大評定。然し高地山峡に聴くコマドリの囀りはさすが。はるばると来たかいがあったと、みんな喜ぶ。道端樹下の透明な水だまりに伊藤さんが目ざとくカワネズミをみつける。水をもぐって銀影がさっと向う岸の叢に消えて、どこにと眼を輝かす水田青年の網膜に映らず、無念失望の顔が気の毒。
梓川対岸の明神の顔が真近く聳えあたり、記念撮影。小鳥の種類もいよいよ増えて、先生たち、聴分け撰別に大童わ。きょろん、きょろん、ぴい、ぴい。おやクロツグミだ。いやアカハラかな。みんな一団となって上の方を見上げながら、聴力を集中する。これまで聴いた主な小鳥は、既述の他、エゾムシクイ、ホトトギス、ジュウイチ、ツツドリ、コルリ、エナガ、キビタキ、コゲラ、アオゲラ、ヒガラ、シジュウガラ、ゴジュウガラ、メボソ、など。
明神への釣橋の手前、明神小屋の辺りで、水田さんの眼が又輝きだした。オウイチモンジだッ。食草を探してドロノキか何かに幼虫の黒い毛虫を発見けると、佐野さんと二人でセッセとビニールの袋につめだした。山本さんでも居合わせたら、キャッと悲鳴をあげるところ。京の研究室でオウイチモンジが羽化したかどうか、後日物語はきいてません。径の真中の水溜りからヒキガエルをつまみあげた佐藤先生、「ウン、やっぱりお産の最中でしょうな」と笑いながら、元の水溜りへボチャン。
緑と青に鮮やかに映える明神二の池に、雛をつれたマガモの遊泳にみんな歓声をもらす。一羽、二羽、三羽、合計五羽。大自然にとけこんだ夢のような美しい情景に、しばし恍惚として凝視る。すきとうるような朝の陽光をいっぱいにうけて、梓の河原で楽しい語らいのうちに、用意の朝食弁当をつかって小休止。石を探し、釣糸を垂れる。私の収穫は川床から蓋付磁石一個。
野鳥の趣味だけに限定するわけではないが、学問の研究とか商売とか制約された仕事から離れて、たゞ自然の生物動物に興味をもち、親しみを感ずるという一筋な他意なき人間欲求から、之等を観察し研究する同好の士の善意の集まりというものが、如何に楽しく美しく居心地のよいものであるかということを、今更ながら痛切に身にしみて感じた。
さて再び元来た道をたどって河童橋まで引返えす。木曽福島行のバス発車まで自由行動の間に、伊藤さん到々待望の岩魚をビニール袋に泳がせて帰ってくる。即日帰京の一行と別れて私だけ境峠に途中下車、次のバスの不信から小雨の降り出した午後の時間をはるばる薮原まで歩いてしまったが、峠の下りにコルリなどふんだんに聴いたし、薮原近くではカッコウも鳴いていた。(入江英一記)
9月21日(土)雨天のため中止十月例会(桂川、鴨川、合流点附近の探鳥会)
10月13日(日) 晴十一月例会(洛西大枝附近の自然を訪ねてハイキング)
参加者 略
京阪電車中書島に集合した一同は、東土川行の市バスに乗り横大路にて下車す。この地は京都盆地を南下する河川。東より加茂川、高瀬川、桂川の合流点である。渡舟にて中洲にわたる。この辺は古くより草津の浜と言い船で西国へ赴く人々の乗船地であった。讃岐国へながされ給うた崇徳上皇や厳島神社へ行幸された高倉上皇もこの草津から乗船されたことをしるしている。桂川沿いに久我橋へと川をさかのぼる。冬鳥には時期尚早か鳥影まことに少いが風のない静かな日である。都会の汚物をもたらした河原にはとびが数十羽立ちたむろして居た。中空を珍しくも、のすりが一羽とんでいる。名神高速道路を上手にのぞみながら久我橋を西に渡り羽束師橋までバスに乗る。
こゝから淀まで川に沿い下る所謂、赤井河原と言われる地である。元弘三年には千種頭中将忠顕ひきいる五百余騎の軍勢がこの河原に布陣するなど、中世には淀、八幡をむすぶ戦略上の要点としてその名は史上にしばしばみられる。薮あり畑あり疎林ありで東西にひらけた川幅もひろく、なかなかの景色の良い所である。むくどりが群れをなして秋の空をとび、河原の枯芦をわけて行くと、たしぎに会う。大山崎と淀への分れ道宮前橋にて阪神組と京阪組とに分れ解散す。京阪組は淀城跡に廻り淀駅に出る。濠の石垣にて南へ帰る、せんだいだしくいを見る。黄葉した梢にとまり夕日に映へて印象的であった。(大中記)
11月10日(日)祇園石段下、京交バス乗場午前九時半集合
参加者 略
伊藤委員の案内で、「昔し丹波の大江山」の小学唱歌の酒天童子の棲家は現在の大江山でなく、大枝山の誤りだとの説から、京洛の近郊でもある大枝説も信じられるようである。鬼の洞穴の遺跡もあるとのことで一同愉しみにバスに乗車。行先附近は「柿狩り」の本場で乗客は満員。塚原学校前で下車して静かな山路を辿る。ホオジロ。キジバト。の鳴声を耳にする。端でモズの鋭い声が聞けるが小鳥達は少ない。
途上、問題の鬼の洞穴を見学する。成る程こんな場所にと思う処に大きな岩で立派な洞穴が出来ている。一同中に入って感心する。路傍の野草、山石の採集も楽しい。唐概越の近くで昼食。シジュウガラの群が近くを渡る。食后伊藤氏の案内で希望者が当時の金鉱跡を探しに出掛ける。
午后は尾根道を上桂に向い、市内を一望する眺望の良いコースでもあり、ハイキング日和に恵まれた愉しい一日であった。終着点、地蔵院前で解散して、近くの西芳寺(苔寺)を訪ねる数人組とバスで市内に帰る組とに分れた。(橋本記)
名誉会長川村多実二先生には本年(昭38)5月、満80歳を迎えられ益々御健康で京都市立美術大学長を二期六ヶ年を歴任されて、今春五月御退任、同校名誉教授となられ、その后は一切の公職をさけられて専門の生態学の御研究に当てられることとなり愈々御自適な立場になられたことを慶んでいた次第であります。
去る九月末、御郷里岡山県津山地方に御講演に出向され、御帰京後、間もなく富山大学に講義のため出向されましたが、十月三日夜、宿舎にて突然脳出血のため倒れられました。直ちに同市総曲輪の市民病院に入院され、絶対安静のまゝ、一時はどうなる事と案じられましたが、地元富山大学の方々の手熱い看護により小康を得られました。その後の経過は良好に向っていますが、御持病の胃潰瘍の併発があり、輸血の要もありましたが、現在では良好の模様と承っています。 この間、先生には十月十五日京都市自治記念日に当り「京都市名誉市民条例」により京都市長より「名誉市民」として、湯川秀樹教授より始められてより第十人目の名誉ある表彰を受けられました。式典当日はご入院中でもあり、長男徹氏(奈良女子大学教授)が代って晴れの表彰を受けられました。
その後、ご家族の御意向もあり、未だ安静状態でもあるので当分の間、富山市民病院で引き続き療養された上、来春ごろ御帰京される由、承っています。
ともあれ、日頃、各種会合には元気に出向されていた先生のお姿を想うとき、誠に淋しく感じます。
この上は一日も早いご快癒を祈り上げると共に、再び健やかなお姿で私たちをご指導して頂ける日を心待ち申し上げて止みません。(昭38.12.橋本記)
追記 1月13日の北陸地方には珍しい雪もない暖冬の日に、富山市民病院から寝台自動車で午前八時出発して舗装国道を350粁走破して午后6時に無事お連れして帰京。市立中央市民病院五病棟二十六号室に取り敢えず入院されました。
遠距離輸送で途中が案じられましたが、思った程の障害もなく、至極お元気で何よりと安心した次第です。(1月15日記)
先ず第11号の発行が遅れたことをお詫びいたします。これも例年、年末12月に発行するので、時期的にも、郵送が年賀郵便の繁忙時と重なって遅配があったり、また年末の気忙しいこともあり、印刷所も同じ状態と思い、本号から、ゆっくりと正月に編集して確実を期した次第です。
本号には残念ながら、川村名誉会長の病気ご入院で、お約束の「漢詩に現れた鳥」の玉稿が頂けず、誠に淋しい次第です。
会員高田俊雄氏が郷里、野鳥の宝庫・富士山麓須走にご帰郷転宅されることになり、本会では離京に当り本文参照の感謝状と記念品をお贈りしました。毎月例会にお元気な姿が見られなくなったことも淋しい次第です。また今回も本誌のため、わざわざ須走からご多忙中にも見事な生態写真を送って頂いて巻頭を飾ることができました。
本年は特に若い会員が増えたことは何より嬉こばしい現象です。もっと若い人達によって会が運営されてゆくことを心から希っていますと共に、これら若い人達の投稿を頂きたいものです。
さて、38年の年間行事を省りみて、京都も愈々野外観察の適当な場所がなくなって、行きづまりの感がいたします。
これに伴い、またまた我々のホームグランド比叡山にドライブウェーの新設工事が進められています。新コースは自然の環境から追いつめられた可憐な野鳥たちの比叡山での唯一の安息地として残されている釈迦堂附近の山林を切り開いて横川に通じるコースです。これが完成すれば「天然記念物比叡山鳥類蕃殖地」の金看板も全く無意味になります。天然記念物指定地域内にドライブウェーを作ることは我々の思いもよらぬことです。
比叡山も伝教大師以来の宗教的に護られてきた霊峰から今や俗悪な観光地に変りつゝあるなげかわしい現況です。
ともあれ、古い美しい自然は次の時代まで我々の責任として残したいものです。(橋本記)